貴方の為に勇者
貴方の為に勇者




朝起きたとき、ポケッチを落として壊してしまった。
朝食を作るとき、ベーコンをひどく焦がしてしまった。
洗濯物を干そうとしたら、突風に気に入りのハンカチを攫われてしまった。
鋼鉄島へ渡るモーターボートの調子が悪く、危うく転覆寸前だった。

"ついてない日"というのはあるものだなあ、と驚きながら鋼鉄島に上陸したゲンは、まっすぐ廃鉱の入り口を潜った。


ゲンはこの鋼鉄島で、はがねタイプのポケモンの生態の調査、加えてさる著名な教授の研究の手伝いをしている。相棒はルカリオ――なのだが、今日は一緒ではない。彼が懇意にしているミオのジムリーダーに、「若いモンの訓練に貸してくれ」と頼まれて置いてきたのだ。
ルカリオは一時でも主の側を離れるのを嫌がったが、ゲンはやんわりと押しとどめた。
「ルカリオ、今日は鋼鉄島に置き忘れた調査資料を取りに行く、ほんとうにそれだけだし、そもそも忘れたのは私なのだから君を付き合わせるのは申し訳ないし、君の心配はありがたいのだけどトウガンさんのお願いを断るほどの理由ではないし、朝のうちに行ってこないと、ヒョウタくんが来てしまうし、小一時間で私もジムに戻るから、つまり…」
ちょっとくどかったかな。己の今朝の口振りを思い出して、ゲンは一人反省会だ。ルカリオは賢く意図を汲んでくれて、お気を付けてと言ってくれた。

だから今、彼の横にルカリオはいない。ルカリオ以外の仲間もジムに置いてきた。
ゲンが感じる波導は己のそれともうひとつ、腕の中に収まった、生まれてから一週間しか経っていない赤ん坊同然のヒメグマだけのものだけだった。



閉じて久しい鋼鉄島の鉱山にはいくつもの出入り口があるが、そのほとんどが整備されず崩れるに任せている。亀裂の入った地面をひょいと飛び越えたゲンは、着地の衝撃にヒメグマが起きてしまうかと様子を伺ったが、意に反して愛らしい寝顔を無防備に晒している。
「…よく寝ている」
微笑んで暖かい毛並みを撫で、昨日たどった隧道を行く。忘れ物なんて、まったく抜けていた。今日はヒョウタくんがクロガネからやってくる日だし、出来れば出迎えたいのだが間に合うだろうか。ヒメグマだって、起きた時近くに親がいないと寂しがるだろうから連れてきてしまったが、よく眠る子だ。ベッドにおいてあげたい。
そんなことをつらつらと考え、考え、目的地に到着し、己の調査資料と鞄を見つけ、手に取り、引き返そうとした、まさにその時――


* * *


「………凄いなぁ」

ゲンが洩らしたごくごく小さな独り言は、視界一杯に広がり存在感を示す岩盤にぶつかり散る。
"ついてない日"。そんなことを思ったのはたった30分ほど前のことだが、ゲンは前言撤回した。

――"厄日"。これだろう。


一瞬前。突然足元から轟音が響いた。次いで、ぐらりと嫌な震動が体を揺らす。同時にハガネールの金属的な咆吼が響き、よろめいた姿勢を何とか堪え、
(ああ。ケンカだろうか、それにしてもこれは中々、派手じゃないか)
そう思いながらも視界の隅に崩れ始めた天井を捉えて後退、波導の力を広げて落石から身を守った。
――音が止み震動が収まるまで、1分か、2分か。
波導の防御壁を散らして立ちあがったゲンは、胸に庇ったヒメグマがすやすやと眠っているのを見て安堵の息を吐いた。


そんなわけで。

絶賛、閉じ込められ中、である。



(さてどうしたものかな、)
ゲンはぺたんと片膝立てて座り、ヒメグマを触りながら現状を整理した。
(落石は一部での事象だろう。進路も退路も塞がれたが、生き埋めにはなったわけではなし、空気も流れている。命の危険はない)
目を閉じて緻密に波動を探ると、岩の壁はところどころに隙間を開けながらもかなりの幅を持っていることが解る。手作業で崩すことは不可能か。
(…出られない事はない。私の波導を撃ち込めば突破できるだろう)
人の身とはいえ、ゲンの波導はルカリオに勝るとも劣らない。日頃は使用を避けているが(特に攻撃になど、使う機会もない)、今こそその力を使うべきだと思う。思うのだが、
(ヒメグマが…起きるまでは…)
今はゲンの膝の上、脱いだジャケットにくるまってくたりと眠るポケモンを見る。体力はやけに多いが、赤ん坊だ。しかもノーマルタイプ。この子の側で大きな出力を発するのは出来る限り避けたかった。
額にくっきりと浮かぶ特徴的なマークを指先で突くと、うにゃあだかぷひいだか、とても"クマ"とは言い難い鳴き声を出してもぞりと動く。見守っていると、気持ちがよさそうにジャケットに頭をねじ込んで再び寝息を立て始めた。
(大物だ)
我知らず笑みが溢れる。ゲンは少し足を崩して体勢を楽にし、状況に不釣り合いなほど穏やかな心で結論を出した。
(しばらく経って私が戻らなければ、ルカリオが様子を見に来てくれる。彼が近付けば波導で位置が解るし、波導弾で吹き飛ばすようなことはしないだろう。もし来るのが遅くなっても、ヒメグマの食べるものは…)
調査資料と共においてあった私物を探る。ランプ、ペットボトルが2本、チョコレート3枚にきのみがいくつかと、貰い物のポロックひとケース。
(充分だ。)
3、4時間なら余裕だろう。
ゲンは一人頷き、目を閉じた。
(大丈夫、まったく大事ではない。少し眠っていれば、きっと…)



◆ ◆ ◆



錫色の空間で、私は呆然と立ち尽くしている。
闇がすぐそこまで迫っている。
呑まれる時は近い。
<やるべきことは解っているだろう>
頭の中で澄んだ声が響く。
<お前に出来ることはたった一つ>
私はぴくりとも動かない足を意識しながら首を振る。
(それは嫌だ)
声は呆れたように、でなければ怒ったように早口になった。
<聞き分けろ。お前がやらねば。お前が救わねば。>
とても真剣な声音だ。
いくら拒否したとて、絶対に折れないという強固な意志が、波導を読むまでもなく伝わってくる。
私は絶望的な感覚に襲われ、発した言葉も懇願の響きが強くなった。
(私でなくてはいけないのか?)
<お前がやるんだ。お前にしかできないのだから>
(それで救えるのか?)
<そうだ。"皆"を救える>
今や頭の中の声は怒っていない。むしろ優しく宥め勇気づけるそれになっている。
私は諦めた。
私にしかできないのなら。
それで皆を救えるのなら。
(………)
<さあ、行きなさい>
促す声と共に、ふっと足が揺れた。動く。
私は背後の暗闇に向かって一歩を踏み出し、
ふと、止まって話しかけた。
(……私が"皆"を救うのか?)
<そうだ。>
(じゃあ)
<?>
(…"私"を救ってくれるものは、あるのだろうか。)

頭の中の声ははっと息を詰め、

暗闇が、私を、


呑み。




◆ ◆ ◆



「…!」
ゲンは、頭をぶん殴られたような衝撃に眼を覚ました。
「!?…?」
岩壁を背にして眠っていたことに気付き、姿勢を起こしながらも周囲を探る。目を開けているのに視界はほぼ黒く、己が鋼鉄島に閉じ込められていると思い出す。時間は、とポケッチを探すも、朝壊して置いてきてしまったことも思い出す。
(頭が…痛い)
寝覚めの悪さのせいかと軽く頭を振ると、衝撃の理由はすぐに解った。ゲンの傍らに、見覚えのないこぶし大の石が転がっていたのだ。
「落ちてきたのか」
ずきりとする頭を抑えながら、帽子を被っていて良かった、と嘆息する。もしむき出しの頭にこれが当たっていたら、死にはしないだろうが、…かなり痛いだろう。
膝の上では相変わらずヒメグマが愛らしく眠っているし、当然だが周囲にポケモンの姿はない。外からの震動で落ちたのだろう。
では一体?

「…さぁーーーん…」

ゲンは目を丸くした。何か聞こえた。埋もれた岩壁の小さな隙間に耳を寄せて音と波導を拾うと、覚えのある懸命な波導と共に、これまた覚えのある声が。

「、げ、ん、さぁん、どこですかぁー!」

「ヒョウタくんかい?私はここだよ!」
声を張り上げると、
「わあ!ゲンさん、やっぱり!!閉じ込められてるんですね!」
と障害物越しですらさらに大きな声。
「うん。どうだろう、そっちへ岩を崩すようにして開けてもらえるかな?間違ってもこちら側に吹き飛ばさないでくれ」
「勿論です!!あーもう、何やってるんですか!?け、怪我とか大丈夫なんですかッ!?ヒメグマは一緒ですよね?」
「一緒にいる。怪我はないよ」
君の『いわおとし』を除けば。心中で付け加え、くすりと笑っていると、そんなことはつゆ知らないヒョウタが叫んだ。
「今すぐ助けますから!出来るだけ離れててください!今助けますからね!!」


* * *


「ヒョウタ君ありがとう」
「っ…も〜!!ありがとうじゃないですよー!!」
鋼鉄島の廃鉱を抜け出した、青空の下である。ようやく目の覚めたヒメグマがゲンの帽子の上で機嫌よくポロックを頬張っている。
「すっっっごい心配したんですからね!!あぁ〜もう…怖かったァ……」
ヒョウタは地面にへたり込み、安堵に深い息を吐いた。傍らではゴローニャが所在なさげに畏まっている。それをひと撫でしてヒョウタのボールに戻してやり、ゲンは友人に尋ねた。
「ヒョウタ君、どうして解ったんだい?私はてっきりルカリオが来るものだと」
ヒョウタは頭をがりがりかきながら説明をした。
「僕がミオに着いたとき、ジムには父さんと門下生たちしかいませんでした。ルカリオはトレーナーのポケモンたちだけ連れて、満月島に修行に行ったそうです」
「満月島に」
ゲンは頬を緩めた。ルカリオはいつも自分にぴたりと着いていてくれるが、その分ポケモン同士での交流は薄いように感じる。良い機会だ。
「父さんはトレーナーたちを鍛えてたんですけど、僕があなたのことを聞いたら、2時間前に出た、って。おかしいな、遅いなって言うんです。1時間程度で戻るって言ってたけどな、ま、大丈夫だろ――」
最後の文節はトウガンの口調を真似たものだったが、あまりにもそれがそっくりなのでゲンは声を出して笑ってしまった。
「はは、は、君、そっくりだ」
「どうも。…で、僕は心配になっってしまいまして、あなたが時間に暮れたことは一度だってないですから。迎えに来てみれば、モーターボートは泊まってる。うろうろしてたら、修業してたトレーナーですかね。『さっきえらくデッカイ音がしたなあ、落盤かねえ』なんて、言ってるんです。…血の気が引きました」
「ああそれで」
得心がいったと手を打つのに、ヒョウタは難しい顔で頷く。その額には「可愛いしぐさに誤魔化されてなるものか」という決意の皺が刻まれている。
「音のした場所を教えてもらって、あとはもう山勘です。あ、でも、これ」
ふと、ヒョウタが思い出したようにポケットを叩き始めた。彼の服装は常の作業服なので、たくさんついたポケットひとつひとつに手を入れていく。ゲンが黙って見守っていると、彼は目当てのものを取り出してゲンに見せた。
「これ。ゲンさんのハンカチですよね?」
「……あ。」
それはまさしく、ゲンが今朝風に飛ばしてしまった、白いハンカチだった。
「私のだ。どうして?」
差し出しされたので受け取りながら聞くと、そこでヒョウタがやっと笑顔になる。
「やっぱり。これ、ゲンさんが埋まってた坑道の入り口に落ちてたんです。こんな異国の洒落たハンカチ、ミオのがさつな連中にはどうしたって似合わないですからね。」
「はあ…すごいねヒョウタ君」
探偵みたいじゃないか。心から感心してそう言うと、ミステリー小説の類をほとんど読まないヒョウタは片眉を上げたが、特に突っ込むこともせず話を進めた。
「で。このハンカチを手がかりに、ダイノーズに頼んでゲンさんの気配をたどってもらって」
「えぇ!?ダイノーズ、そんなこと出来たのかい」
「出来ました。やらせました」
きっぱりと言い切るヒョウタ。理由はよくわからないがともかく凄い説得力だ、と考え、趣味が良いと誉められたハンカチを何となく弄っていると、その手にヒョウタの両手が重なった。
「それで――あなたの名前を呼んでいたら――応えてくれたんです。…すっごく、嬉しかった」
「ヒョウタ君…」
向かい合ったヒョウタの顔は、緊張感を残しわずかに張り詰めていて、その眼は真剣だ。ぎゅ、と握った手はとても冷たい。
ゲンは胸を締め付けられるような申し訳なさに、もう一度謝った。
「本当にごめんね」
顔を覗き込んで手を合わせると、とたんに純朴な少年(ゲンにとっては、だ。実際はぎりぎり20を超えているので少年とは言い難い)は顔を赤らめ、「いえ…あの…」と言葉を濁す。
「あの…ゲンさんが強い人間だってことは、僕もよく解ってるんです。多分今日だって、やろうと思えば自分で脱出できたんですよね?」
その通りだったので、ゲンは言葉を返さなかった。
「それに、いずれルカリオが戻れば、スマートに解決したし…でも、でも。」
一呼吸。
「どうしても僕があなたのところに行きたかった。」
ゲンは瞬きを繰り返した。ヒョウタの言ってる意味がよく呑み込めない。しかし、彼がなにか縋るような眼をしているのを見て、
「ヒョウタ君、君は本当に、私の…勇者だったよ」
微笑んで言った。
ヒョウタは面食らったような顔をし、既に赤かった顔を更に赤くする。オクタンみたいになってしまった顔色を面白げに眺めたゲンはその頬に黒く泥汚れがあるのに気づき、先ほどのハンカチで拭ってやる。
「わ!や…やめてくださいよ!」
「汚れているよ。みっともないだろう」
「こんな、子どもみたいに拭いてもらう方がみっともないです!あーもう…かっこつかないなあ…」
ぱっとハンカチを奪い取り、拗ねたように唇を尖らせるヒョウタに、ゲンは笑った。最初は怒ったような顔をしていたヒョウタも、次第につられて苦笑を浮かべる。
「僕、勇者よりヒーローとか王子様とか呼ばれたかったです」
「作業着に身を包み、普段は炭鉱で働く正義のヒーロー?はは、イッシュではそういうの、人気だよ」
「ぷっ……」

二人が蒼い海と青い空を見ながら笑う声は、ルカリオがボーマンダを駆って飛来するまで明るく響いた。




おわり






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さわやかなラストにすると恥ずかしくてしょーがない…