小説置き場 | ナノ
  月夜に、想いを馳せながら酒を口の中に注ぎ込む。こんな事をしていればまた「歳何だから止めなさい!」と怒鳴られるのだろうか。そんな光景を思い浮かべて自然と唇から笑みが零れた。

愛する妻はこの部屋の隣にある自室で眠っていた、自分が酒に付き合わせたおかげで酔ってしまい眠りについたのだ。氏康は不意に立ち上がると妻が眠っている部屋の扉を開けた。

「阿呆面しやがって」

  月に照らされる妻は誰よりも綺麗だ、まあそれは自分の妻なのだから当たり前だが。なんて戯言を胸中で呟きながら妻の髪に触れる。艶があり指通しの良いそれは氏康の大きな掌に絡み、月明かりで暗闇に煌めく。

「ん…」

  肩が震えて睫毛が小刻みに震える、小さく目が開かれると氏康は1人口を緩めた。しばらく天井をボーッと見つめていたがしばらくして自分の隣に誰かいるのがわかりそちらを見る。

「氏康…様……?」

「おお」

「良かっ、た…」

  何が良かったかなんて聞かなかった、だが何となくわかっていた。ただ微笑む妻の頭を撫でていると自分の首に腕を回し強く抱きついてくる。

「愛してるぜ」

「私もよ」

  囁きあった愛なんて、結局戦乱の火に燃やされ消えていく。だけど今はこのまま、互いの温もりを感じさせていて…互いな愛を感じさせていて……










  お館様が死んだ、一緒に寝ていたお方様が目覚めたらお館様はもう…。お館様が死んだと言う話はすぐに皆に伝わった、もう城下まで広まっているはず。

善政を尽くした氏康の死は小田原の武将、兵士達だけではなく民がいる城下も悲しみに包まれてた。

「お館様…どうして、昨日まではあんなに元気だったのに」

  甲斐姫自身も涙を流した、その間ずっと背中を擦ってくれたあの優しい手はきっとお方様だと甲斐姫は確信する。すぐに葬儀が行われる中で涙する沢山の人々、ただお方様はずっともう目覚めないお館様を見つめていた。その瞳から涙は流れていない。

「甲斐殿」

「幸村様…」

「氏康殿の事、誠に残念でござる…甲斐殿も辛いであろう」

「いえ、本当に辛いのは私じゃなくて──」

  お方様だから、そう続けたかったがそれを声に出すのが出来ないでいた。ただただ氏康の死に顔を見つめるその人はあまりにも綺麗で美しく、儚くて、哀しかった。
この戦国の世は眉目秀麗である織田家のお市など美女が多いがその中でお方様が一番だと甲斐姫は信じている。

  お方様が美しいのは見た目じゃない、その心、思想、想い。それが美しかった。彼女は言ったのだ、「戦何かより互いに話し合えばきっと幸せになれるのにね」と。そう笑う彼女は優しくて暖かかったから、この戦乱の世も世界にとっては一瞬に過ぎないとも。

「お方様」

「甲斐ちゃん…」

「大丈夫ですか? やっぱり休んだ方が…」

  甲斐姫がそう言うが彼女はただ首を振るだけだ、しかし彼女の手が小刻みに震えているのを見抜き甲斐姫は目を細める。

「あの人の遺言には豊臣に降れ、と?」

「はい…」

「そう、あの人らしい判断ね…」

  そう言って小さく笑う彼女、だけどそれは今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい哀しい笑みだった。

「お方様」

「…?」

「泣いて下さい」

  見開かれる瞳、その瞳に一瞬涙の膜が張った事に気付くがそれでも気丈に振る舞っている。

「大丈夫よ、ありがとう甲斐ちゃん」

「お方様!」

「私は大丈夫」

  まるで、言い聞かせるような言い方だった。それが悲しくて顔を無意識に歪めると優しい掌が髪を撫でる。

「大丈夫だから、そんなに心配しないで、ね?」

「お方様…」

  その笑顔に哀しみを感じて、苦しくて、何もしてやれない自分が嫌だった。











「………」

  どうして、なんて言葉すら言えなくなる。あの人が死んだ、私を残して、戦乱の世に私を残して死んでしまった。ねぇ、私が夢見た泰平の世は──

「あなたがいなきゃ、始まらないの…」

  何故私を残して行くのですか?私を共に連れて行って欲しかった、ねえ、今あなたはどこにいますか?

「愛してる、なんて…っ言うなら」

  生きて欲しかった、私に泰平の世を見せて欲しかった。

「うじ、やす…さまぁ……」

  瞳から零れた涙は頬を濡らし、座敷にポタリと模様を描く。それはまるで、まるで雨のように、どんどん増えていく。

「うぁあああぁあぁあぁ!!」

  大好きなあの人はもういない、声も姿も温もりさえも、もう嫌になる、こんな事になるなら──










「お方様?」

  甲斐姫は氏康がいつも酒を飲んでいた部屋に来ていた、甲斐姫の予想通り目的の人物はそこで眠っている。

「お方様、少しでも…」

  近付いて初めてわかる、彼女の身体は固かった、冷たかった。それが意味する事はただ1つしかない。

「おやすみなさい、お方様」

  氏康が大好きだった部屋で、城下がよく見えるこの部屋でその妻もまた息絶えた。それはまるで眠るように、しかしその死に顔は穏やかだ。

「夢の中ではお館様と喧嘩しないで下さいね」

  戦乱の世に儚く散った2つの命、しかしその生きざまは儚くも永久の愛で輝いていた気がする。
今甲斐姫は想い願う、「せめて、夢だけは穏やかな世界でありますように…」と。

せめて夢だけは穏やかでありますように‥

白黒様提出 0610
お題:花影様より

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