喉が痛い。のどがいたい。焼けただれそう。
熱はたいしたもんやない。せやけど喉がひゅうひゅうしよって息苦しゅうて、毛布を上まで引き上げてもまだ寒気がある。窓の外は雨。ぜんぶ灰色や。夕暮れ時とはとても思えへん。

いつ頃やったか、いきなし鳴りよった鮮やかなメロディーは、謙也にだけ設定した着信音やった。三日に一度の電話がここ最近二日に一度になっとるのをすっかり忘れとった俺が反射的に起こしたはずの体は、ベッドにめり込んだまま一ミリも動いとらんかった。足も腕も重くて動かせへん。ベッドから離れた場所にある携帯はまだ着信を知らせとる。取ってやらんと。なんや知らんけど謙也のやつ、最近通話繋ぐと、ごっつうれしそうにしよるから。取ってやらんと。身体をずるずるひきずって、ようやっと携帯のある場所までたどり着いたんに、そのとき丁度ぴたっと鳴り止みよった。気ぃ抜けて携帯片手にベッドへ沈み込んだら、せきが止まらなくなって、謙也どころやなくなってしまった。
変わり映えのない雨の音にずうっとなりっぱなの謙也からのメールの着信音が混じり続けとるけど、とてもかえす気力が湧かれへん。枕に押し付けた自分の頭から謙也とおそろいのシャンプーの匂いが香って、安心より申し訳なさが勝って、こないなふうにへばってることを知らん謙也に頭のそばでせめたてられとる気ぃすらしてきよった。せやけど体が言うことを聞いてくれへん。枕のかたわらで携帯が鳴り続ける。ごめん、ごめん謙也。まって。せめてもうすこしまって。

なんやかんやで熱はしっかりあるみたいで、ぼやーっとするわ弱気になるわで惨めやった。治すもん治せばメールも電話もいくらでもできんのやから、落ち込んでてもしゃあないのに。せや、今度大阪のあいつんちに行くとき、さいきん無駄に上機嫌なわけをききだして、いじりたおしたろう。んでどやされるんや。今を耐えて、そないな何も変わらん日常に、しれっと戻ろう。耐えればええだけや。耐えれば返事だってできる。たえれば。

『…ッ、はッ、…ぁ』

雨の音、着信音、謙也の香り。のどがいたい。あつい。目がかすむ。
奥歯を噛み締めた俺は、枕のふちを力任せに握り潰した。





パキリ。謙也の部屋に渇いた音が響いたのは、忍足の携帯電話が着信音を鳴らした直後のことだ。
窓を叩く雨の音に混じった気味の良いそれに目線を上げた白石は、自分の手元まで吹っ飛んできたシャーペンの芯の欠片と、途中でかすれて「の」の字になり損ねたひらがなもどきの線を向こうのノートに見て、光の速さで状況を理解した。
綺麗に折りよって。白石が笑いを噛み殺す一方、無表情のまま石になった忍足が節っぽい親指でノックボタンをカチリと押すと、わずかに残った芯が固定されることもなくぽろっと転がり落ちた。あ、と忍足がこぼした哀愁漂う吐息は今日一番の傑作だ。

「ラスいち…やったっけ」
「まぁな」
「っごめん白石、ホンマにごめん。自分のなけなしの一本も無駄にしてしもた」

一本「も」というのは、白石から借りる前に謙也に借りていた芯もカウントしているからだ。偶然にも三人揃って芯の予備が尽きていて、雨足の弱い内にと謙也が買い出しに飛び出していったのを見計らった白石が、偶然ではなく隠し持っていた芯を忍足に貸し出していた。謙也の芯を含めたその二本とも、忍足にお陀仏にされてしまったという訳だ。
それにしたって眉尻を下げて項垂れる様は普段のクールっぷりがほとんど見当たらない。本気で落ち込んでいるのが伺えて、例え尊い芯が犠牲になっていようとも、その新鮮な反応に顔の一つも綻ぶというものだ。

「かまへんかまへん、俺はもう宿題終わっとるし。忍足くんにダメにされて芯も本望やろ」
「そんなん言うても…」
「人の善意は素直に受け取っとき。そんな些細な事気にしよる奴やったらここに居らんて」

言い聞かせるように言えば、ホンマか?と眼鏡越しの黒目が真意を確かめるように向けられる。妙にあどけない目付きに少しばかりあてられた気分になりながら、ホンマやて、と白石は柔らかく微笑み返した。


そう、そんな些細なことは欠片の興味もない。忍足以外のことなどどうでもいい。
集合まで一時間あまりしか猶予がない謙也主催のなんちゃって勉強会への突拍子のない誘いは、相手が忍足だったからこそ聞き入れたのだ。もしも謙也から誘われていたら取り合わなかった。忍足以外を蔑ろにしているのではなく、忍足侑士が特別なのだ。
とどのつまり、そういうことだ。

恋心の芽生え自体は恐らくもっと前の話だが、大阪に帰省するタイミングがかち合えば三人で遊ぶ程度であまり顔を合わせない忍足へのあまずっぱい気持ちを痛感したのは、二日間音信不通の彼の元へなりふり構わず飛んで行った謙也に対して燃えるような嫉妬に苛まれたつい数日前のことだ。
体調を崩していたと後から聞けば尚更、躊躇いなく会いに行く理由を遮るものが何もない謙也が羨ましくて、自分の立ち位置を呪うと同時に、張り裂けそうな想いが途方もなく膨れ上がるのを感じた。そんなもやが消化しきれていない時に忍足個人から声を掛けられたのだ。舞い上がらずにして何をしろと言うのか。
寛容な気分だった。携帯の着信音が鳴る度に貸し出した芯をバキボキと折られようが、雨の日に呼び出された挙句なんでおまえがここにおんねやと言わんばかりに謙也に睨まれようが、ぬるいぬかるみのような感情の前ではそんな不満などどうでもいいことに過ぎなかった。
傍に居れれば、俺に出来ひんことなんてなんもあらへんのや。な、忍足くん。

「それよか、メール見ぃひんの?」
「あ…、せやな」

頬杖をつく白石の言葉にはっとして携帯を弄り出す忍足を、正面からじっくりと眺める。少し顔色が悪い。病み上がりだからかと思ったが、思えば謙也が出かける前はここまで酷くはなかった。見るからに調子が崩れ、ノートに散らばる芯の黒い粉の量が増えたのは、謙也が家を出て丁度雨が強まり出した、その頃だ。
謙也からや。忍足のぽつりとした呟きに白石は数瞬遅れて目を見張る。
着信音が以前と違う。初期設定に戻っている。

「へえ、音変えたん?」
「……やかましくてな」

忍足は曖昧に苦笑すると、空いている片方の手を耳元へ寄せた。垂れた髪を後ろへ流した指先は、何故かそのまま首筋へと伝い落ちて行った。喉仏をなぞりながら小さな溜め息を一つ。じめついた湿気のせいか少しこもった響きをしていて、ほんの一瞬胸の奥がざわついてしまう。

「シャー芯は確保したみたいやけど…ついでに飲み物買うて来たいから、一回家に寄ってブツを渡してからまたすぐ出るんやと」
「ハ、まぁ分かりやすく避けよる。あいつも」

弾かれたように顔を上げた忍足に、白石はなんてことないような笑みを貼り付ける。無意味に人を巻き込む性質ではない忍足がアポすらせずに白石を呼び付けたのだ。軽口を叩く謙也のそれとない余所余所しさと併せれば、おおよその察しをつけることができた。

「何の下らん喧嘩か知ったこっちゃあないけど、今日はお前にとことん付き合うたるから安心しぃや」
「…なんで?」
「なんでってお前…自分、あないな空気で二人きりになるんがしんどいから、わざわざ俺にヘルプ飛ばしたんとちゃうんか?」

それは、と言い淀む忍足の眉間に寄せられた皺にあらぬ不安を掻き立てられる。自惚れ過ぎていただろうか。俺が勘違いしとるんやったら恥ずいから早めに言うてや?と念を押してさも困惑した視線を投げかければ、ほんの少し忍足の表情が緩んだ。悩むように目を伏せて、そこから戻された視線は、こちらの反応を慎重に伺おうとしているようだった。どんな返事が来ても平静を保つための心の準備をしながら、薄い唇がゆっくりと開かれるのを眺める。その隙間から漏れた吐息は、やはり熱のような何かがこもっている気がした。


「………そうや。白石が一番…たよれる、おもうて」


ずくんと、腹の底に、重たい何かが響いた。会いに行けないむずがゆさを長らく抱いていた白石にとって、あまりに殺傷力の高い言葉が並べられていた。
撫でるような低い関西弁はひどく掠れていて、生気の失せた潤んだ瞳はやたらと無垢で、余裕があるようなないような、不安を不安とみなして懸命に耐えようとしているような様は、部屋に立ち込める陰鬱な雨の湿気と混ざり合って、むせ返るような色気すら放っていた。
要するに、無防備で、かわいくて、きれいだった。

ごくりと唾を飲む。分かっている。今の忍足は平常ではない。雨が強まり始めてから更におかしくなった。風邪で熱っぽい子供にも似ている。こもった息の熱っぽさもそう考えれば全て繋がる。落ち着け。今の一言だって、謙也との居づらさをはっきり認めたくなくて白石に焦点をずらしただけだ。腐ってもこの男はくせ者なのだ。分かっている。冷静になれ。よく考えろ。

「……、……」
「…白石?」

音もなく深呼吸をした白石は、包帯の巻かれていない右手をそっと前へ伸ばした。シャーペンの芯をお陀仏にした時のように表情を固くする忍足の額に手のひらを添える。気にする程の熱はなさそうだった。いっそ冷たく感じるくらいだ。
伸ばした腕に吹きかかる息にざわりと走る痺れがたまらなくて、鬱陶しい前髪を掻き上げてやるフリをして腕の位置をずらした。梳いた髪から香ったシャンプーの匂いに、いよいよ誤魔化しようのない眩暈がしてくる。
謙也の部屋というだけあって今まで気付けなかったが、仲が良くて同じシャンプーを使っていると度々口にする謙也の自慢通りにほのかに香るはずのフレグランスが、今日は忍足から香っていない。
無香料の清廉な香りがする。謙也とは違う香り。謙也と同じではなくなった香り。
口の中がからからに渇いた。

「……熱は平気そうやな。良かった」

腹に積もったぞくぞくとした何かが全身の神経に巡り続ける中、心の底から安堵しきってこぼれた言葉は、最後のまともな良心だった。
忍足が何かを言いかけた時、家の軋みと共に玄関のドアが威勢良く開かれる音が空気を振動させた。ざあざあとけたたましい雨の音が急に耳に流れ込んできて、湿り気を帯びた空気の冷たさが肌の上を滑る。

「俺が行く。待ってて」

そう言って迷いなく立ち上がった白石は、無駄なものを振り落としたかのように凛とした目付きで部屋を後にした。背中に突き刺さる忍足の視線に過剰な心地良さを感じる程、何かが変化し始めていた。





「ユーシは…大丈夫そうか?」

開口一番、説明がなくとも白石なら何かしら察しているだろうと踏んだ口調で、玄関先に立ったままの謙也がそんなことを言うものだから、白石は乾いた笑いを噛み殺しきれなかった。

「まぁ、俺と二人きりになってからは、だいぶ落ち着いてきとる方やと思うで。折る芯も無いしな」

若干の棘と嘘を交えながらおどけたように頬を掻けば、そうか、と謙也は苦々しく頷いた。コンビニのロゴが入った小さなビニールはびしょびしょに濡れそぼっていて、謙也の服も少しばかり湿っている。浪速のスピードスターのことだ、傘を差しながら走りでもしたのだろう。脱色した髪には手櫛で整えられた跡が見受けられた。
そんな謙也を真っ直ぐに見据えた白石は、真剣な声色で切り出した。

「ずっと蚊帳の外なん、流石におもんないんやけど。いざこざの原因の先っぽぐらいは知っときたいとこやわ」
「……いざこざっちゅー程の大した話やない。俺が余計な意地を張っとるだけやねん」
「意地?」
「そう。…あんな、俺…ユーシが…ユーシの事が…あの…」

好きやねん。
白石に信頼を寄せてこそのストレートな暴露は、ひどく重たい響きをしていた。

「連絡付かんあいつのために東京まで行ったんは知っとるやろ?あん時新幹線の中で、俺なにしてんのやろって我に返って、もやもやの正体に気付いてん。ユーシの奴、通話繋がるとほっとしよった風に笑ってくれてな、あれが最近の生き甲斐やったんや。たった一日二日声が聞けへんでメールも返って来うへんっちゅーだけで、向こうの事情すっ飛ばして勢いで現地直行したんやで?重症やわ。
 せやけど男やん。従兄弟やん。あかんやろそんなん…俺とユーシの日常がおかしゅうなる。言うてぱぱっと割り切れるもんとちゃうから、東京で会えただけ良しとして、今日の約束は無しにしよう思うててんけど…向き合わななぁ思うて腹ぁ括ったら何故かお前が居るし、いやお前に非は無いけどな、あない変なユーシ初めて見たんもあって、色々…動揺してんねん」

早口で捲し立て、手のひらで目元を覆った謙也が低く唸る。切実な語り口が嘘偽りのない本音であることは容易にうかがえた。
沈黙を挟んでから、謙也は意を決したように顔を上げた。

「―…あいつが芯をバキボキ折っとったんも十中八九俺が原因や。ユーシはあんなんやし、ぎすぎすしとるし、いきなし呼ばれて来て訳が分からんかったやろ?お前に一言なんや伝えとけば良かった事やけど、すぐ動けんかった。悪かった…ホンマにごめん、白石ッ」

それまで口を閉ざしていた白石は、毛先から水滴を散らしながらがばりと勢いよく下げられた頭を、無感情に見下ろした。はたから見れば四天宝寺のテニス部部長とその仲間のありふれた一場面のようにも思えて、それらとは真逆の温度差が滑稽だった。
部長と仲間、同校の友達。それ以上でも以下でもない。謙也は白石の気持ちと立場を知る由も、白石が教えてやる義理もない。心の中が静穏で、おぞましい程、何も響いていなかった。

「…まあ、嫌やったらとっくに帰っとるしな。自分の気持ちはよう分かったで。せやけど、三人でそう頻繁に会える訳やないし、せっかくこっちにおるんやったら仲良う過ごしたいやん?それとなぁくお膳立てするぐらい、手伝うたるで?」
「ほ…ほんまかっ?」

それなりに抱え込んでいた反動もあるのだろう、あっさりとした肯定的な反応に感動して目をきらきらと輝かせる謙也に、あっれ嘘言うてええの?と得意げにして下から仰げば、いちいちムカつくわぁ、なんて小言に反して弛んだ笑顔が返ってくる。

「ご褒美はデザートな。てきとうな飲み物と一緒に、でかいパックの方のヨーグルトでも一つ買うてきてや。勉強の後のデザートのウマさは、最っ高にエクスタシーやでぇ」
「おおっええなあ!俺も腹減ってきとったとこやねん!任せときぃ白石、こないな雨、浪速のスピードスターの手に掛かれば無問題っちゅー話や!ほなな!」
「あ、ちょお待ち」

ふと思い立った白石が意気揚々と踵を返そうとする謙也の背中を引き留める。振り返った謙也はどこまでも無知な風で、腹立たしさをいなすように白石の目が細められる。

「従兄弟同士お揃いのシャンプー使うてるんやで〜て、お前に自慢された覚えがあんねんけど」
「…そうやな。最近はあいつ、違うの使うたみたいやけど。どうかしたか?」
「あれは今まで、お前が忍足くんに合わせとったっちゅうことでええんか?」
「……」

大きく見開かれた目からするすると温度が抜け落ちていく。人懐こさが警戒心に中和されたような、謙也らしくない目付きだった。そこまで大げさなリアクションをされなきゃならないような話題だっただろうか。

「ちゃう…な。逆や逆、ユーシが俺に合わせててん」

気まずげに目線を泳がせて答える謙也の様子からして、何か分け入った経緯がありそうな雰囲気だった。後で忍足本人に確認すれば十分だろう。大して気に留めるつもりもない、立ち話ついでで確認してみただけのことだった。

「悪い、それだけや。ほな気ぃ付けていってらっしゃい」
「…白石」
「ん?」
「ああいや、ユーシに妙なこと吹き込んだら、ただじゃ済まさへんで〜ってな!」

冗談でからかうトーンの癖して、目だけが笑っていなかった。部活の仲間や友達に向けられるそれに錯覚する余地もない、恋敵への敵意に満ちたけん制も同然の、射抜くような目だった。たかだかシャンプーの話を振っただけでそこまで察してきた事実にも驚いたが、「たかだか」なんて粋の拘りでは到底済まないものが謙也にはあったのかもしれない。独占欲という意味では、白石は人にとやかく言える立場でもないのだ。
雨を掻き分けて立ち去った謙也を見届けた白石もまた、冷ややかな目付きをしていた。確信を持たれてはいないにせよああ警戒され始めるとなると、堅実に攻める道が幾通りか閉ざされてしまうのだ。真っ向勝負も悪くはないものの、なるべく秘めやかに事を進めたかっただけに、少なからず苛立ちが湧いていた。


そうして冷え切った気分も、廊下の奥から慌てて床を蹴る足音を聞き止めて一気に上向きへと切り替わったのだから、こちらもどうしようもなく重症だという話だ。氷のように尖った気持ちが穏やかに溶けていく感覚を噛み締めながら、あえて何分か間を置いて、白石は待ちゆく人の元へと引き返した。






「おまっとさん。芯もろてきたでー」
「ん、おかえり」

部屋のドアを開けると、テーブルに突っ伏していた忍足がうずめた顔を上げた。随分と覇気のなさに拍車が掛かっている。雨空の薄暗さに映える気だるい佇まいは月明かりのように白石を惹き込んで、自然と口調を柔らかさせた。

「ついでにヨーグルトでも買うてくるよう頼んどいたで。なんや腹減ってきてなぁ」
「ええやん。俺も冷たいもん食いたい気分やわ」

やけに白々しい応対はあたかも素面に戻ったようで性質が悪い。油断すると騙されそうなポーカーフェイスだ。立ちこもる色気を目蓋に焼き付け、潜められた足音をばっちり聞き止めている今の白石にとって、そんな平静を装う痛々しさすら愛おしくて仕方ないのだが。
その場で早速ビニール袋から新品の替芯を取り出して手渡そうとしたところで、ふと、白石はその動きを止めた。シャンプーの清涼な香りが鼻先をかすめる。半身を捻ってこちらを見上げる忍足が不思議そうに小首を傾げる。寂しい胃袋に響くような、純粋な目だ。かわいくてきれいで、とても。やりがいがある。

「ずうっと思うてたんやけど、着信音と一緒にシャンプーも変えたんやな」

ずうっと同じやったんに。さも感慨深げに笑いかけると、忍足の目蓋がゆっくりと瞬いた。

「…いろいろ、あって」
「散々合わせてきとったやん。こっちの香りもよう似合うてるけど」
「そんなんただの気分や。最近な、雨が続いとると、あいつの駄々に付き合う気が起きひんねん」

自嘲じみた物言いはどことなく寂しげで、一拍置いてその意味を理解した瞬間、白石の端正な顔付きはみるみる驚嘆に染め上げられていった。
謙也の話が確かなら、謙也が東京の忍足の家へ突撃した日の二日前が忍足の風邪のピークだったはずだ。列島をほぼ覆い込んだ低気圧の影響で連日雨模様が続いた覚えがある。あっちも同じ雨が降ってんのやろかと白石が黄昏たりもしていたその日、忍足は謙也の「駄々」に付き合って、同じシャンプーの香りを纏っていたのだろうか。
ちらりと盗み見ると、忍足の指はまた喉元を這っていた。謙也の香りと、着信と、雨音に囲われながら一人静かにベッドで耐え忍ぶ忍足を脳裏に思い描く。こもった息、潤んだ目。熱がなくとも雨は降り続いている。今の忍足の状態は、もしかして、もしかするのだろうか。

気付くと握ったままだった替芯はとっくに奪われていた。未だ呆然とする白石を横目に手早くセットしたシャーペンを握り込んだ忍足は、再びノートに文字を書き連ね始める。むすっとしたふてぶてしいその後姿は、点と点が繋がった今、身悶えたくなる壮絶な魅力に満ち溢れているように見えて。
小さな火の粉から燃え広がるような毒々しい衝動が、申し訳程度の躊躇すら呑み込んで、うねりをもって白石の内側に渦巻き始める。
唇を歪ませた白石は、クッションの上に足を崩して座る忍足の後ろから、あくまでノートを覗き込む体でじわりじわりと顔を近付けた。訝しみつつも忍足は手を止めない。
耳の中へ吹き込むように、囁いた。


「雨の日の告白なんて、あいつもなかなかロマンチックなことしよると思われへん?」


途端に、忍足の整った字がぐにゃりと歪んだ。
芯こそ折れなかったものの、罫線から大きく飛び出た線すら細かに揺らめいていて、とうとう強がりが瓦解したことをありありと写し出していた。
ひゅう、と忍足の喉が苦しそうな呼吸をする。そろそろと伸ばされた手の先にある消しゴムを後ろから取り上げてポケットに隠す。返せ返せと暴れ出す前に膝を突いて背中をそっと抱き込めば、受け入れ難い信じられないものに恐々とする忍足の、透き通った瞳が肩越しに向けられた。白石が魅入られた、熱に浮かされて弱りきった姿がようやく舞い戻ってきていた。突然の行動に動揺が過ぎて、忍足の抵抗は抵抗になっていない。そんな弱弱しさにも心臓がバクバクと破裂しそうだった。

「返しッ…かえせ!」
「こないなっとる忍足くんのノート見たら、謙也はホンマに後戻りできんくなるかもなぁ」
「…どういうつもりや」
「言うて忍足くんも謙也に矢印向けとるんやったら、万事解決、ハッピーエンドやん。まったく、妬かせよって」
「ッそんなん、…そんなんやない…」
「へえ?」
「俺はふつうに…あいつが…あいつの、はしゃいどる声を聞くんが…」

たのしみやっただけで。消え入りそうな声だった。
見事なすれ違いっぷりに謙也へ少しばかり同情する。報われないものだ。変化を求めていない忍足の口ぶりからしてごく従兄弟らしい当たり前のやりとりへの執着もありそうだが、取り乱しようからして本当に「ふつうに好き」なのだろう。謙也のあれを盗み聞いた忍足の心情も察するに余りある。

「他人の俺からすると、『普通』にはよう戻られへんレベルになっとる気ぃすんで」
「…んな…ことは」
「あいつの居らんとこでもシャー芯バキボキ折っとる時点で結構アレやけどな。お前のその条件反射が続く限り、謙也はお前のこと引きずりざるを得ぇへんで。あいつが一番気にしとる。いっそお前よりもな。いっとう最初に変わってもうたんは謙也やなくて自分や、忍足くん」
「……」

反論もできないまま途方に暮れたように忍足の身体の力が抜けていく。前へ回した腕の力をぎゅっと強めれば、小刻みな震えが伝わってきた。呼吸まで揺れている。かわいい。どうにかしてやりたい。白石はうっとりと声を滑り込ませた。

「俺やったら自分のそれ、直してやれんで…?」

そうして反応をうかがうように覗き込むと、怯えと、わずかな期待をたたえさせた忍足の黒目にぶつかった。病気に弱るあまり悪魔の囁きを無視できない真っ当な子供の目だ。気を良くして、なんてことのないように続ける。

「大したことはせえへん。謙也に設定しとった着信音を俺に設定して、俺の勧めたシャンプー使うて、雨の日はずうっと携帯越しに俺とくっちゃべるだけや。せやなあ、野郎二人のむさい雨降りデートしよったら、案外どうでもよくなりそうな気ぃせえへん?」

包み込むようにはにかむと、もっと無茶な提案を予想していたのかどうだか知らないが、きょとんとした忍足の警戒の色は幾分が緩んだようだった。それでもまだ心を砕ききらず強張ったままの顔付きに、普段の忍足の片鱗が伺える。白石の本心を見抜けていない時点でどうということはないのだが。

「別に強いとる訳やないで。謙也とぎすぎすしながら過ごすぐらいやったら、ええ方に向かう道を探すん、俺も手伝うわっちゅう話。あくまで選択肢を増やしただけや」

腕の輪を一旦取り崩した白石は、忍足の隣に回り込んで真っ直ぐな視線を送り込んだ。目の前には、大人びて格好つけたがるだけの迷子の子供がいるだけだった。

「……途中でそれをやめよっても、お前はなんも変わらんの?」
「当たり前や。そん時変わっとるんは、むしろお前やろ」

やめる気すら起こさせないよう、途中でやめても白石の存在が忘れられないよう、徹底的に籠絡するのみだ。拒否権を与えないのではなく、拒否権を使う気を失くさせるまで、徐々に徐々に突き崩していくのだ。ぐらついていた忍足の瞳が、白石をぼうっと見上げた。

「強引なことしよったら、絶交する」
「…おう」
「………なにからすればええ?」

そうして体勢を向き合わせた忍足は、一番頼れると言った時と同じ、気を緩めないよう不安を前面に押し出した、それはもう純真無垢な眼差しを白石に寄越した。今度は話をずらされたのではなく、自分のために、自分だけに委ねてきた。中途半端な空腹にびりびりと響いたそれは、ヨーグルトをかき込まなくても十分な達成感と高揚をもたらした。口ばかりがからからと渇く。
うるおしたい。

「目ぇ閉じて。今日のこと、上書きする」
「……」

なんやそれ。音もなく呟いた忍足の唇を親指でなぞり上げれば、まるまると切れ長の目が丸められた。表情を少しも変化させず、目の色だけがぐるぐると移り変わる様は、疑問や矛盾が全て一つに繋がったついさっきの自分を思い起こさせた。

「…なんで」

吐息がほとんどの蚊の鳴くような声。信じられないというよりも戸惑いを隠せないだけのようで、背中をとんと押せば簡単に転がり落ちてきそうだった。
そうと分かっていても最後まで手を抜かないのが白石である。もう片方の手で蒼白な頬を撫でつけて、一つ一つ染み込ませるように言葉を並べ立てた。

「向こうに帰っても、俺の手ぇ届かんとこに行かんでほしい。…雨の日を俺の日に塗り替えたる。雨とかのせいやなくて、俺のせいで体がおかしな反応しよって、携帯の向こう側で、俺でいっぱいになればええ」

お前を謙也に譲って指咥えて待つんは、今日で終いや。
一切の冗談を含まない真摯な思いの丈に、全てを悟ったように忍足の目蓋が下ろされた頃には、血色の失せた青白さはすっかり鳴りを潜めていた。代わりに健康的な赤みが差し込み始め、やがて薄く目元が紅潮する。勘違いしろと言わんばかりの反応だった。

「……今度はもう、ちゃんと返せるから…返事を待たせたり、せえへんから」


忍足の返事を待ち続けたどこかの誰かへの含みを持たせた、返答代わりの縋り付くような宣誓は、白石の胸中で蠢く飢餓感と支配欲を大いに満たすものだった。
病的な艶やかさとは違う、身を任せようと自らの意思で脱力した背徳的な色香にまた一つ魅入られた白石は、幸せそうに唾を飲み込んで、不意打ちでそっと、閉じられた目蓋へと唇を寄せた。



――こうしてそばに居る限り、謙也に出来て、俺に出来ひんことなんて、なんもなくなるんや。
な、侑士くん。












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