人間って怖いもので、新しい環境に少しずつではあるが順応していくんだと、大学生4年になりかけている自分を客観的に見てそう感じた。学校までの電車の乗り換えだって、レポートの手の抜き方も、私服を選ぶのも(慣れたというか手を抜くのが上手くなったと表現する方がしっくりくるような気もするが)比較的スムーズに、何も考えなくてもできるようになった。就職活動にはまだ慣れなくて、ここのところ疲労困憊ではあるけれど、それだっていつか慣れるだろう。ううん、慣れる前に終わらせたいけれど、まぁとにかく。
岩泉さんが隣にいないことにも、何となく、慣れた。もうすぐ4年経つのだ、いい加減慣れないと。私も大人にならないと。
新しい季節を迎えつつあるがまだ朝は肌寒い。連日のニュース番組では桜の開花予想と花粉飛散量を可愛らしい顔をした女子アナウンサーが可愛らしい声で伝えてくれる。どうやらこの辺りもまもなく満開らしい。そこそこ関係ないけれど。小さなロールパンと温かいコーンスープを胃におさめて、時間ギリギリに家を出た。
「彼氏いるの?」
大学に入学した頃、周りの女の子たちはそれが口癖かのように、そればかりを必死に確かめ合っていた気がする。いるよ、と言って彼氏との2ショット写真を見せる子もいたし、今日これからデートなんだって、新作のグロスを唇にのせながら幸せそうに笑う子もいた。羨ましかったし、「なまえは?」と問われた時に一瞬、いや3秒くらい言葉が出てこなかった。岩泉さんの彼女じゃなくなった、という事実を、彼とサヨナラしたばかりの私は認めたくなかったし、認められなかったんだと思う。
「いないよ」と言った後に、聞かれてもいないのに「この間まで付き合ってた人のこと、全然忘れられないの。忘れる気もないんだけど」って、ドラマのヒロインみたいな台詞を口にしてしまったから。本当、子どもだったよなぁ。
大学生になって、3回目の冬が終わった。慣れた道を慣れたペースで歩いている。服装に気をつかうことも、少し前の日本の首相みたいにすぐ変わるトレンドを追いかけることもなくなった。なんの変哲もないシンプルなペールピンクのシャツは袖を3回折ってやる。ネイビーのスキニーパンツとそこそこ履き潰した3センチしかヒールのないスエードのパンプスはブラックで、完全に“私今日はがんばりません”スタイルだ。今日というか、今週も来週も特に頑張る予定はないのだけれど。大人になったって、つまりこういうことなのだろうか。つまらないな、と心の浅いところで思う。間も無く最寄りの駅に到着するというところ。人も増えてきた、なのに意外とすぐわかるもんだ。だいたい4年ぶりだっていうのに、少し離れたところにいる誰かが私に気付いて小さく手を挙げた。ううん、そんなわけない。確かにそれなりに時間は過ぎたし何となく見覚えもあるけど、そんなわけないよ、そんなの幸せすぎて、私。
「なまえ」
何でいるの、と。連絡くださいよ、と。
寂しかったです、会えて嬉しいです、いつ帰ってきたんですか、こんなところで待ってたんですか。言いたいことも聞きたいとこも山ほどあるのに、言葉は全く出てこない。朝の混雑しているこの状況で、勝手に大人になってしまった岩泉さんはあの卒業式の日と同じように、私の手を引いてギュッと抱きしめてくれる。言葉なんてなくてもわかる。言葉も欲しいから、聞くけどね。ごめんね岩泉さん、強欲で察しの悪い女で。
「なんで、」
「約束しただろ?」
「…覚えてるんですか」
「覚えてるに決まってんだろ」
どんだけ待ったと思ってるんだよ。彼はそう言った後、私を解放し、目を合わせ髪を撫でてくれる。相変わらずあたたかくて、大きな、私の大好きな手のひら。岩泉さんが目の前にいる。夢じゃない。
「…ごめんな。待ったの、なまえの方だよな」
「…いわいずみさん、」
「ん?」
「いわいずみさん、わたし、」
待ったよ。でも悔しいけど、嫌じゃなかった。いや、もちろん寂しかったし、会いたかった。でも、それでもいいと、そう思えた。岩泉さんだから。私、岩泉さんじゃないと嫌だから。わがままでしょう?でも嫌なの、岩泉さんじゃないと。
「あいたかった、です」
「うん」
「毎日、ずっと」
「…うん」
「…なんでうんって、それしか言わないの」
久しぶりの存在にドギマギしてしまう私は正面にいる彼の顔もまともに見れやしないが、どうにか勇気を振りしぼって見上げてみる。見つめたくて仕方ないのに、見つめたらおかしくなってしまいそうで、怖くて。でももうそんなことを考え込むのも終わり。ほら、目が合えばもう、離せなくなる。何で泣いてるの。私も泣いてるんだから慰めてよ。自分から離れたくせに、勝手に決めちゃって相談もしてくれなかったのに、何で今になって泣くの、そんな顔で。ずるいよ、ずるすぎる。はじめて会った日からこの人はずっと、ずるい。私ばっかり、ドキドキさせられてる。
「んなこと、」
知ってんにきまってんだろ、俺も同じこと思ってたんだから。震える声は4年前と同じなのかどうなのか。もう忘れちゃったよ、4年も前のことなんだもん。でも変わらない。相変わらず、愛おしい。この人のそばにいられたら、それで。言葉を噛みしめる私のことなんてお構いなしな彼は、ちょっと甘えた顔で私のことを覗き込む。なんか、距離が、昔より近い。
「授業?」
「うん、いや、はい、」
「どんだけぎこちねぇんだよ」
「久々だから、」
「さぼんねぇ?今日だけ」
「…岩泉さんどのくらいこっちにいるんですか」
「ずっといるよ」
「…ずっと?」
就職こっちに決まってるから、とさらりと言われ、あぁそうなんだって関心した。“もう付き合っていないから”という理由で通信機器で互いの近況を伝え合うこともしなかった私たちは、この空白の歳月をすぐに埋められるのだろうか。私の方は特に話すこともないからきっと、私が岩泉さんを質問ぜめにするんだろうな。そう思って楽しくなって、1人でけらり、笑った。
「私、何にも知らない」
「言ってねぇからな」
「…何か、悔しいです」
「なんだそれ」
「私が知らない岩泉さんがいるのが、なんか」
「俺だってなまえちゃんのこと知らないよ」
「ねぇもういいから、いいからもう」
「ん?」
「はやく、2人っきりになりたい、お願い」
また、わがままを言って彼を困らせる…かと思ったのに。ニヤリと笑った彼はほんの、ほんの一瞬、私の耳にキスをした。ちょっと待って、こんなの知らないよ。こんな岩泉さん知らない。やめてよ、また好きになるから。もうこれ以上ないくらいに好きなのに、また好きになっちゃうよ。どうするの、ねえ。
「なまえ、早く大学卒業してよ」
「…え?」
「そしたらずっと一緒にいれんだろ?」
「なに、どういう、」
「忘れた?」
ポケットを漁った彼はそれを摘むと私の少々乾燥した手を取り、薬指へゆっくりと。左手が驚いて、その後に私が驚いた。ほら、こんな岩泉さんも知らないよ。大学で何があったのか心配だけどそれは後。今は、とにかく。
「…なんですか、これ」
「予約」
「え?」
「よ、や、く。…聞こえてんだろ、嫌な女」
「なにそれ、そんなの岩泉さんの方が…!」
「はいはい、後で聞くから」
私の手を取って、駅とは反対の方向へ。途中大学の同級生とすれ違ったような気がしたが、まぁどうでもいいだろう。岩泉さんがいるのだ。私の隣に、岩泉一がいる。私の彼氏として、いるのだ。正義のヒーローにでもなったような、無敵状態になったような、そんな気分にさせてくれるのだ。
「…なに笑ってんだよ」
「ん?なんか。夢みたい」
ほら、また力がこもる。あの日あっけなくほどけた私たちはカフェラテに沈んだ氷が溶けていくように自然に、またこうして肩を並べている。そして今度は多分、ほどけたりしない。ううん、ほどいたりしない。あーあ、早く来年の春にならないかなぁって、まだ今年の春もきちんとやってきていないのに考えてしまった。ちゃんと楽しむけどね、岩泉さんが隣にいる春も、夏も秋も冬も全部、私の胸をくすぐってどうしようもなかった。
2017/05/08 (end)