あの家には帰らなかった。ビジネスホテルを転々としたり、友人の家に泊まったり。1週間くらいそうしていたと思う。数着しか持ち合わせなかった下着と洋服は激しいローテーションにくたりとしているよう。それは、私も同じだった。
そんな時にまた月初がやってくるから恐ろしい。バタバタと騒がしく喧しい社内。私と彼の噂はまだチラついていたが気にも留めなかった。こういう類のものは、黙っているのが一番なのだ。口は災いのものだって言葉があるくらいだから間違いない。昔の人間は大抵正論を唱えているのだ。
同じ部にいる彼と関わらないなんて無理なことだから、数度言葉を交わしたりはしたが、それだって必要最低限のものだった。いまだってそう。仕組まれたような環境なのにそこに言葉はなく、聞こえるのはパソコンのキーボードがカシャカシャと叩かれる音くらいだ。もうすっかり夜も深い。2人きり、残って仕事をする。
「みょうじさん」
話しかけてきたのは彼だった。ブルーライトにやられたのか、目がチカチカとする。肩はガチゴチで、コンディションは最悪だ。あと数日この辛さに耐えなければならないと思うと、それは拷問でしかないように感じる。
「なぁに」
「何か手伝えることありますか」
「…ないよ。帰りな」
「お先に失礼します」
ぺこりと頭を下げて席を立つ男が、憎たらしくて仕方なかった。なにより、声を掛けられてとくんと胸を弾ませている自分に呆れる。なんて卑しいんだろうか。
どこかで、期待していた。彼から謝ってくるんだって。彼がまたいつかみたいに歩み寄ってくれるんだって。
いまだってそうだ。2人っきりだったし、この状況をうまく利用してくるだろうと、勝手にそう思って。せっかく居残って作業をしているというのに、仕事なんてほとんど手につかない。
会社で泣いたのなんて、久しいことだった。入社したての頃は右も左もわからなくて、毎日叱られたけれど何で叱られているのかもわかっていなかった。そんな時によくこうやってメソメソ涙を流したけれど、この場に及んでこうなるだなんて。
崩れていくメイクを修正したい気持ちはあったが、そんな気力は残っていなかった。きりのいいところで作業を終わらせて鼻を思いっきりかんでエレベーターへ。エントランスを抜けて、外へ出ればぬるいとは言い難い風が頬をかすめる。もうすっかり秋だ。
「ひゃ、!」
「…泣いたんですか」
ぐ、と腕を掴まれたと思えば彼の声がして。振り払いたいのにそうはさせてくれない。待ち伏せていたのだろうか。この男は敵にまわしたくないと痛感する。
「…離して」
「嫌です」
「なんで、」
「離したくないから、離しません」
賢い彼にしては単純すぎる理由だと思った。そして私はこの男が結構頑固だということを知っているから。諦めて彼に伝える。
「…どうしたいの」
「言いたいことがあって」
「なに?」
「俺、嫌なんです」
「なにが、」
「こそこそ付き合うの、嫌です。でも、みょうじさんが怒ってるのも嫌です」
贅沢言ってすみません、と最後に付け足される。なんでお前が泣くんだ、ってちょっと呆れて、その後にたっぷり見惚れた。こいつ、こんな風に泣くんだ。というか、そもそも泣くんだ。ぽろん、と落ちる涙がきらりとひかって見えるくらいだった。美しくて、どこか儚くて…目が離せなくなる。
「なんで赤葦くんが泣くの」
「…別れようって言われるんじゃないかって思ってました、ここ数日。みょうじさん何も話してくれないから」
「仕事の話ししたじゃん」
「そうじゃなくて、この間喧嘩して…そのままじゃないですか。帰ってきてくれないし」
「だって、」
「俺、みょうじさんのこと好きだから」
もう離さないです。
そう言った彼はぎゅうと私の手首を掴む力を強めた。いたい、と思うくらいだ。子どもみたいな彼が、とても珍しくて。つい忘れがちだが、この男は私よりも歳下で、つい半年ほど前にようやく社会に出てきたのだ。そりゃあまだ子どもだ。私だってまだまだ子どもなんだから。
「…ねぇ、いつまでこうしてるの」
「みょうじさんが、許してれるまで」
「じゃあ、もういいから。帰ろう」
濡れた瞳でこちらを見つめられればまたとくんと弾む胸。とろりとした視線。もう、なんか、全部どうでもいいと思えた。
「ねぇ京治くん、帰ろう。私疲れちゃった」
少しの贅沢。公共交通機関を使わずにタクシーを一台呼び止めた。後部座席で彼の癖のある柔い髪を撫でてやる。私の肩に頭を預ける彼が愛おしいと感じるから、やっぱり私はこの男にやられているのだ。
2016/03/22