美容部員松川 | ナノ
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雨が降りそうだ。もわもわとした空気と、あの独特な香りを鼻で察知してなまえはそう思った。夏のむわりとした空気が立ち込めるが、目当ての百貨店の中は程々に冷やされており心地がいい。向かう足取りは軽いが、心臓はうるさく、なんというか、変に緊張していた。

「みょうじさん」

店内は平日ということもあってか、前回訪れた時とは比べ物にならないくらいにガラリとしている。松川の他に店員は2人いて、3人体制だがお客の相手をしているのはその内1人だけだった。1人は書類を眺めていたし、松川は商売道具であるブラシを洗い、整えている。
なまえは気を良くしていた。10日前にたった一度会った男が、自分が入店するや否や駆け寄り、名前を呼ぶのだ。それも、ただの男じゃない。かなりの色男が、である。悪い気はしない。

「こんにちは。雨降ってませんか?」

なぜ覚えているか?
胸が高鳴っているなまえに告げることはできないが…この男は元々賢く、記憶力もいい。お客の名前を覚えるのが得意なのだ。なまえのことを特別に覚えている訳ではなくー…お客だから、覚えている。それだけだ。
この男は“特別”をつくったりしない。みんな、平等に公平に。だが、どうだろう。大抵の女は勘違いするのだ。
「私は、特別」だって。

「降ってないです。降りそうですけど」
「そうなんですね、ずっと室内にいるとわからなくて」

松川は比較的自然な笑顔を見せ、ようやく本題に入る。なにかお探しですか?と。そこでようやくなまえも本題を思い出した。

「この前の、これ」

松川のサラサラとした文字で書かれているのは先日来店した際に試したアイシャドウとチーク、そしてリップの品番だった。松川から施されたそれらはとてもなまえの好みで、その日クレンジングをするのが勿体無いと、そう思うほどだった。

「あぁ、どうでした?」
「すごく、気に入って、やっぱり欲しくて」
「本当ですか、ありがとうございます。他にも色々ありますが、よろしいですか?」

せっかく来てくださったんだし、と松川はいつかのようになまえを着席させ、じぃっと目を合わせてくる。なにか考えているようで、時折ぶつぶつと言葉を発しているのがわかった。

「ちょっと、やってみたいことがあって」
「…やってみたいこと?」
「はい。この秋のトレンドなんですけど」

まだ猛暑と言われる日々が続いているというのに、なぜ次の季節を意識しなくてはならないのか、イマイチ意味がわからなかったが、女は男に逆らえるはずがなかった。惚れているからだ。

「ファンデーション、落としてもいいですか」
「えっ」
「やっぱり嫌ですか?」

松川はしゅんとしたような…なんとも言えない表情でなまえの顔色を伺う。この女は現在松川に同調するということしかできないようだ。大丈夫です、と言った後にしおらしく言い訳をする。

「私、肌、綺麗じゃないから」
「…肌にお悩みがない方なんていないですよ」

松川は自身の大きな掌をアルコールで消毒すると、なまえのメイクをクレンジングオイルで浮かせていく。その手つきは美しく、慣れていて、ぼおっと見つめてしまうのだ。

「何が1番気になりますか?」
「…最近、冷房のついた部屋にいることが多いから、なんとなく乾燥するような気がして」
「あぁ、そうですね…今時期はどうしてもそうなりますよね」

ひたり、ひたりと松川の指の腹がなまえの頬や鼻先に触れる。肌の水分量をみているだけなのだが、女は勝手にどきりとするから、本当に勝手な生き物だと思わずにはいられない。松川の掌は成人男性の平均と比べてもかなり大きく、指だってごつりと長い。なまえの顔の大きさなんてそれこそ平々凡々であるが、それさえもふわりと包み込むような、そのくらいの大きさなのだ。

「頬はやっぱり乾燥しますね」
「そう、ですね」
「まずはしっかりクレンジングをして、メイクと肌の汚れを落としてあげることですね。そうすると化粧水の浸透力も違ってくるので」

松川の話はピンとこないが、その低く落ち着いた声はなまえの脳内をとろんと溶かしていた。そしてかなり近い顔の距離に思わず頬を赤く染めてしまう。適当に相槌を打つので精一杯で、まともな応対なんてできやしなかった。

それから松川はなまえの肌にしっかりと水分をいれ、素肌感を生かしたようなベースメイクを施し、色をのせていく。少しくすんだようなパープルのアイシャドウは粉ではなく、スフレのような柔い質感のものだった。繊細なパール感が美しく、淡い、ほわりとした発色だ。目尻にだけパキリと色のつく、同色のアイライナーでぴりりとしめ、頬にチークは付けずにシェーディングとハイライトだけでしっかりとした立体感を出す。仕上げの口紅で、松川の手が一瞬止まる。

「やっぱり僕、みょうじさんの唇がすきです」
「…え?」
「素敵ですね、魅力的です」

どこがだ、と思ったがそれを聞く勇気さえなまえは持ち合わせていなかった。松川はリップペンシルでなまえの唇の輪郭を整え、ブラシで一度馴染ませる。少ししっかりとした色が褒められた唇で色づく。

「何色でも似合うから、色々試したくなってしまいます」
「…松川さん、嘸かしモテるでしょうね」
「…え?僕ですか?」

松川はリップブラシにたっぷりと口紅をとりながら、少し驚いたようにそう言った。全然ですよ、という謙遜の言葉を聞いてなまえは若干ではあるが苛立つ。

「うそ」
「いえ、本当に」
「こんなにかっこいいのに、ですか?」

なまえの言葉を聞いて、松川はポカンとし、その後声を殺して笑っていた。変なことを言っただろうか、と不安になるなまえだが、自分の言葉を思い返しても決してそのようなことは口にしていない。

「みょうじさん、面白いね」
「え?」
「そんなのお客様に、こんなにストレートに言われたの初めて」

松川はまた砕けた話し方になり、こみ上げる笑いを抑えながらなまえの唇にしっかりと色をのせた。それが終了すると満足そうに笑い、艶を出すためにグロスを重ねてくれる。できました、となまえの背後に回って、鏡越しに仕上がりをチェックし、ケープを外す。

「うん、かわいい」

目元の淡いパープルに、口元はプラム系のピンク。チークはいれていないから、その2つのカラーがより目立って、自分では施したことがないようなお洒落なメイクだった。内側からつやつやとする肌は、とりあえずファンデーションを塗った、みたいな仕上がりになる自作の化粧とは全く違っていて。

「みょうじさん、お肌も綺麗だからそんなにファンデーション塗らなくていいですよ。いま、クッションファンデーションがとっても流行っているんですけど、それ塗って、パウダーファンデーション軽く重ねるだけで十分」

綺麗だの似合うだの、この男の口から発せられる言葉たちはなんでこんなにも真っ直ぐで私の心を揺さぶるのだろうか。お世辞だとわかっているが、どうせまた私はこの言葉を聞くためにこの店にくるのだからなお馬鹿馬鹿しい。

2016/08/30