美容部員松川 | ナノ
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松川は自身の携帯のアラームで目を覚ます。その瞬間から違和感を感じ、不安が募ったからかいつもより身体と脳がリンクするのが早い。そしてそのよくわからないもやもやとしたものは間違いでも気のせいでもなくて。
昨日交じり合った女が消えているのだ。松川はあまり狼狽えたり焦ったりするタイプではないが、この時ばかりは途方に暮れた。隣にあるはずの温もりがなく、おまけにシーツだって冷たい。ずいぶん前に出て行ったのだろうか。部屋のどこかにいるなんて、そんな希望は持てなかった。朝は2人でゆったりと目を覚まし、はにかみながら朝の挨拶をすると思っていた。フランスパンとベーグルが美味しい近くのパン屋に彼女を連れて行こうと、眠りに落ちる前にそう頭の中で段取ったというのに、これだ。
でもなんとなく、松川はこうなることを予想していた。もしかしたらいなくなるかもしれないと、そう思ったから昨晩はなまえの手を握り、離さないと誓い目を閉じたのだ。昨夜、なまえが泣きそうな顔で眠ったのをしっかりと見ていたから。でも、どうやらほどいてしまったらしい。

女は1人、始発電車で最寄駅まで来たはいいものの、もう色々と限界で動けなくなっていた。気持ち的にも、体力的にも。
後悔をしているのだろうか。それさえも曖昧だった。自分はお客で彼は販売員だと、何度も言い聞かせたがそれよりも欲の方が強かった。そばにいたいと、抱かれたいと。
彼と朝を迎えたらもう戻れなくなる気がした。多分、もっともっと好きになる。今だってほら、もう。
溢れる涙はどこに向かっているのかわからないが、彼に見せるべきではないと思うのだ。自分だけがこの虚しさを知っていればいい。手に入れたいという醜い独占欲が、嫌で嫌で仕方なかった。自分のものになんてならないとわかっているのに。

しばらくなまえは松川を避けて、あの百貨店に行くことはしなかった。休日になったって、松川から選んでもらったそれらを自分に使うこともしない。彼を思い出すとあの夜を思い出して胸が熱くなってしまうのだ。松川との色っぽいキスを、艶やかな瞳を、柔く強い指先を、手のひらを、ぜんぶ。
夢だったんだ、と言い聞かせたが、自分の想いに舵をとることさえできなかった。いくら押さえ込んでも溢れてくるこの想いが、なまえは鬱陶しくて仕方なかった。なんでこんなにも好きなんだろうか。
それでも彼のことをどこかで忘れられないからだろう。なぜかメイクに夢中になり、美容雑誌を漁るように読んだ。今まで挑戦しなかったようなテクニックも、自分なりに勉強してみる。綺麗になれば、彼を忘れられるだろうか。綺麗になって、誰か他の人から想いを寄せられれば、あの松川という男の存在を消しされるだろうか。そんな想いからだった。

「ひゃ、」

腕を掴まれたのは、あの駅だ。そして腕を掴んできたのもあの男だ。

「捕まえた」

男はすこぶる機嫌が悪そうで、その声色からも表情からもそれが簡単にわかった。腕に込められた力は強く、自然になまえの身体も硬直していく。

「綺麗なお姉さんだなぁと思ったら、なまえちゃんだった」
「…なんで、」
「こっちの台詞。なんで勝手にいなくなってんの」
「だって」
「だって、とか…そういうのいいから」

松川は女の手をぐっと引いて自分の胸におさめる。背の高い男に吸い寄せられたなまえは、その熱にくらりとした。ほら、予想通りあの熱が戻ってくる。

「ちょっと、松川さん」
「なんでそばにいないの」
「…それは、」
「寂しいじゃん」
「…寂しいとか、思うんですか」

思うよ、と男は笑い、あぁ確かに自分にもそんな感情が備わっていたんだと安心する。寂しいなんて言葉を口にしたのはいつ振りだろうか、と記憶を遡らなければならない程だ。

「朝、いちゃいちゃしようと思ったのに」
「ちょ、こんなところでそんなこと言わないでください…!」

ふふ、と楽しそうに笑った松川は大好きななまえの唇を撫でる。その唇にのせられた色は自分で選んだ色ではなくて、なんだか妙に嫉妬してしまう。目を引く、派手なプラムだ。リップラインも綺麗にとってあり、口角まで色がムラなく、綺麗に乗っている。少し毒々しいそれと、ピュアな印象の淡いピンクが瞼を煌めかせている。まつげは美しく曲線を描き、マスカラが丁寧に塗られていた。チークは瞼と同じカラーで、入っているかいないかわからないくらいのほわほわとした発色だ。松川の好きな、なまえの唇が強調されたそのメイクは、全て自分が施したものではないし、全て自分が選んだ色でもない。独占欲も自分には備わっているのか、と感心する。

「…誰の為にそんなに綺麗になってるの」

松川は答えを知っている。知っているくせに、やっぱりこの男はずるいんだ。松川から離れようとしても、何だかんだ離れられないなまえのこともわかっている。こうやって少し触れられただけでどくりどくりと心臓が弾むのだ。艶やかな黒い瞳に捕らえられるともうなまえは自由がきかなかった。

「ずるい、」
「ずるい?」
「好きになっちゃいけないのに、なんでそうやって」
「好きになればいいじゃない、俺はもう好きだよ?」

松川の突然の告白になまえは驚き、目を丸くする。声なんてもちろん出ないので、なにも言わずにいると松川は笑って。

「そんな驚く?」
「…だって、」
「愛を込めて抱いたんだけどなぁ、俺。伝わってなかった?」
「ちょ、だから、松川さん…!」
「誰も見てないよ」

誰も見てない、と松川はもう一度その言葉を繰り返す。実際を言ってしまえば駅のホームで長いこと抱き合っている2人はそこそこに目立っていたし、道ゆく者はちらちらとそちらを観察していた。松川の背丈はよく目立つのだ。

「なにそんな気にしてんの」

女の気持ちがよくわかる男だ。大抵の男はいわゆる“女心”なんて一生かかっても理解できないというのに、だ。女が同じような靴やバッグばかり買うのも、砂糖をふんだんに使ったスイーツに馬鹿高い金額を使うのも、女子会と題して悪口パーティーを開催するのも、全然わからない。
でも松川は、なまえの想いを、その大きな両手に溢さずに掬い上げる。ぽたりと雫をこぼすこともなく、だ。

「だって、私…」
「俺のこと好きかどうかって、それを聞いてるんだけど」

そんなに難しい質問じゃないでしょう、とまた笑う。そんなことはわかっていると、なまえはベソをかくしかなかった。これ以上好きにならないようにと、精一杯我慢した自分がバカみたいじゃないか。一緒にいてもいいなら、それなら。

「すき、です」
「誰のことが?」
「松川さんの、こと」
「…俺の名前覚えてる?」
「っ、いっせい、さん…の、こと…すきです、すごく」
「百点」

松川は子どもをあやすかのようになまえの頭をぐしゃぐしゃと撫で、そのままの勢いでキスをしようとする。なまえは、さすがに人前でそんなことはできないと松川の行動を阻み、真面目な顔で言う。

「…私、で大丈夫なんですか」
「ん?」
「松川さんの彼女で、大丈夫ですか」

彼女の問いがよくわからない松川だが、それでもわかることもある。不安で不安で仕方ないといったなまえの表情に、一言だけ声を掛けてやる。

「俺にこんな綺麗なお姉さんは勿体無いと思うんだけど、なまえちゃんは俺で大丈夫?」

松川は照れることも頬を赤くすることもなく、平然とそう口にする。その言葉を聞いたなまえはぶわりと泣き出し、何度もなんども首を縦に振った。松川はそんな彼女に驚いたが、それより何より愛おしいという、これまた久しぶりな感情が自分から溢れていることにも驚いた。
しばらく背中をさすってやると、少しずつ呼吸の速度が元に戻り、うるうるどころがぐしょりとした瞳でこちらを見つめる。ほとんど崩れていないアイラインとマスカラはウォータープルーフなんだろうか。まぁいまはそんなことはどうでもいいと松川は思っていた。

「すきになった?俺のこと」
「…初めて会った時から、すきです」
「あら、そんな前からすきなの」

だったら尚更、今日も電車乗り過ごしていいよ、となまえの目を見てにっこりと笑う松川はなんとも艶っぽく、なまえは勝手に心臓をどきりとさせた。

「その代わり、ちゃんと朝までいてね」

ちょうど良く電車がホームに到着し、いつかのように2人で同じ車両の同じ席に腰を落とす。松川は小さな頭をなまえの肩に預け、狸寝入りをするんだ。まったく、ずるい男だ。

2016/09/16 (end)