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お昼休みもあと十分程で終了。五月の終わり、気温は少しずつ上昇。カラリとした空は清々しい気分を誘う。年度が変わってもスキンケアやファンデーションをアップデートしなかったせいか、ここのところ化粧崩れが気になり、女子トイレへ。大きい会社だからだろうか。百貨店の化粧室のようにパウダースペースが設置されているのが有難い。先客の、新入社員の女の子たちが、きゃあきゃあ楽しそうに話している。話題はどうやら、茅ヶ崎さんだ。私に気付いた彼女たちはお疲れ様です、と楽しそうな余韻を残したまま挨拶をしてくれる。私も同じ言葉を彼女らに届け、ポーチからいつものメンバーを取り出した。ファンデーションの修復は結構面倒くさい。ちゃちゃっと適当に重ねるとムラになってしまい、余計に汚くなってしまう。いつもならティッシュペーパーで余計な皮脂と浮いたところをおさえる程度だが…。チラリ、腕時計を確認する。あと、八分。どうしようか迷って、私は滅多に使用しないスポンジを手に取る。わざわざ小さな容器に入れ替えて持ち運んでいる(と言うか、今日だから持ってきたわけだが)乳液をよれた部分に薄く伸ばし、お役御免なファンデーションを拭きとる。あーあ、面倒くさい。でも、仕方ないのだ。可愛い女の子たちはまだ話している。私が今日、食事に行く男のことを、まだ、楽しそうに話している。

「すみません、お待たせしました」
「いいえ、行こうか」

茅ヶ崎さんとふたりきりで食事をするのは、今日で三回目だった。とても簡単に言うと、王子様のような人だ。ような、という言葉が必要なのかどうかもわからないくらい、それに近かった。昼休みの女子トイレ、新入社員の女の子たちの口からは彼のことを賞賛する言葉がたっぷり。私ももちろん、彼女たちに賛同していた。そんな、女子社員憧れの茅ヶ崎さんと私が数度、こうしてふたりきりで食事をしているのは、やはり、どう考えたっておかしかった。おかしかったが、こんなありがたい誘いを断るのはもっとおかしな気がして、私は誘われるがまま、こうして三度目を迎えた。格好いい男の人を見ながら美味しい食事で胃を満たせるのだ。こんな贅沢を断るのは、やっぱり、絶対おかしいもん。

「いつもすみません、お店まで予約してもらって」
「とんでもない。俺、店決めたりするの苦手だから助かるよ」

食事をする店を決定するのは私の仕事だった。毎回茅ヶ崎さんが三件ほどピックアップした店の中から選ぶ。つまり、私は三択から一つ、選択するだけだ。予約をするのも会計を済ますのも茅ヶ崎さん。私は彼が指定した駅に指定された時間に行く。そうすると彼が待っていてくれる。同じ会社に勤めているから一緒に出て一緒に向かえばいいだろうと言う意見はそっと胸にしまっておいてほしい。平々凡々な私とオフィスの王子様である茅ヶ崎さんがふたりきりで…なんてシーンを見られるのはごめんだ。彼は「誰かに見られたら嫌でしょう?」と言葉にすることはなかったが、こういう待ち合わせの仕方をし、会社からほどほどに距離のある店ばかりチョイスするので、なんとなくは汲んでくれているのだろうと判断した。

「今日、色々ありがとうね。資料の修正とか」
「あ、いえ、あれくらい、全然」
「おかげさまでギリギリ定時に上がれました」
「茅ヶ崎さん、いま仕事量多いですよね?できることがあったら言ってください。私、この時期は比較的余裕あるので」
「ふふ、ありがとう。月曜からじゃんじゃん頼るね」

彼は軽やかにそう言ったが、実際、誰かに助けを求めることはないと思う。ルックスが隅々まで整っているだけではなく、仕事もできるからこそ、彼は社内で一目置かれているのだ。茅ヶ崎さんが自分の先輩でよかったと安心するほどである。こんな後輩がいたらたまったもんじゃない。私たちの入社年度は一年しか変わらないはずだが、三つ…いや、五つくらい離れているのではないかと疑わずにはいられないくらい、彼は大人びていた。尊敬する先輩に「大人びている」なんて言葉を使用するのも失礼な気がするが、違和感を覚えるくらいに落ち着いている。二十代前半って、もっとはしゃいだり騒いだりしてもいいような気がするし、実際、私の同期の男の子たちはそんな感じで…そう、彼らは「男の子」だが茅ヶ崎さんは完全に「大人の男性」なのだ。なんか、とにかく、そんな感じだ。加えて、これだけ端麗な容姿を持ち、一応大手と言われる会社で優秀な成績を納めるエリートで、人当たりが良く、おまけに浮いた話を聞かない。女の子と遊び放題でもおかしくないし、私が茅ヶ崎さんだったら寄ってくる女の子で良さそうなのがいれば…と思ってしまうところだが、そういうのさえもなく、プライベートな彼は謎めいているというか、ミステリアスだ。そこもまた、よかった。店に入ってからも相変わらず茅ヶ崎さんは茅ヶ崎さんだ。適当に、こちらの意見も尊重しながらメニューを選び、仕事のことを話しつつ、私が問えば所属している劇団の公演のことを教えてくれたりする。グラスに入った液体が少なくなれば次何にする?とドリンクメニューを寄越し、私がちょっと酔っ払ってしまったなと思ったちょうどその辺りでお水を頼んでくれたり。

「茅ヶ崎さんて、モテるじゃないですか」

二時間程度の食事を終え、帰り道。いつもなら駅で解散するのだが、酒に酔った女を優しい茅ヶ崎さんは放っておけないらしく、私を家まで送り届けてくれるらしい。脈絡なく話し出した私に、彼はほんのり驚いているようだ。聞き苦しい言い訳だが(言い訳に聞きやすいも聞きにくいもないが)今日は金曜日で、つまり明日は土曜日だから仕事は休みで、目の前にはオフィスの王子様がいて、五月の末の夜はこれでもかってくらいに心地いい温度で、そしたら当然、これくらいのことは聞きたくなってしまうわけで。

「そうだね。みょうじさんの同期たちよりはちょっとモテるかも」

もっとうんざりした顔で返答されると思っていたのに、意外にも楽しそうで朗らかな声が耳に。その声色に安心した私は、相変わらずの調子で会話を続ける。

「私の同期となんて、比べ物にならないですよ」
「うーん、でも、みょうじさんが思っているほどはモテないと思うよ。だいたい、好きな人に好きになってもらえないと、どうしようもなかったりするでしょ?」
「茅ヶ崎さんのこと好きにならない女なんかいませんよ、みんなすぐ、好きになっちゃう」
「みんな、ねぇ」
「そうです、みんな」

茅ヶ崎さんと恋バナ的なものをするのは初めてだった。今更ながら彼女がいるのかいないのかもわからないし、茅ヶ崎さんが私にその辺の話を振ってくることもなかった。茅ヶ崎さんの、彼女。きっと肌が透き通るくらいに白くて綺麗で、瞳や髪の色素が薄くて、鼻はツンと上を向いている、か弱そうで可憐な彼女がいるんだろう。浮いた話がないのも、その可愛らしい彼女を大切にしているからかもしれない。勝手な妄想を繰り広げ、そして気付く。じゃあ、今日のこの私と茅ヶ崎さんのふたりきりの時間はいったい、何を目的としたものなのだろうか。男女がふたりきりで食事をするなんて、大抵、下心があってのことだ。私と茅ヶ崎さんは、職場で特別仲が良いわけでもない。もちろん悪いわけでもないが、普通という言葉で表現するのがピッタリな関係だと思う。他の社員たちとなんの変わりもない、ごくごく普通の間柄。私は他の女性社員が彼に抱く感情を抱いている。かっこよくて優しい、憧れの茅ヶ崎さん。だから、誘われれば喜んで食事に行く。じゃあ、彼が私を誘う心理は?酔っ払っているから考えてもわからないのかと思ったが、おそらく酔っていない時に考えたって導き出せないと思う。食事をしたのは三度目だが、相変わらず彼のことはよくわからないから。完璧すぎて、何も見えてこないのだ。

「そのみんなって、会社の女の子みんなってこと?」
「はい。まぁ茅ヶ崎さんだったら私、同じ会社じゃなくたって、…例えば、偶然電車で同じ車両に乗り合わせただけで好きになっちゃいますけどね」
「…褒めたって何も出ないよ?」
「褒めてるわけじゃなくて、事実をお伝えしているだけです。ぜったい、好きになっちゃいます」

のろのろと歩いていた。隣に、秀麗な男の熱を感じながら。その熱が手のひらをぎゅっと包む。茅ヶ崎さんが私の手を握っていると、それに気付いて、なぜか私は衝動的に、口早にすみませんと呟いた。間違えて私が握ってしまったのかと思い、すぐに離さなくてはならないと思う。高貴な茅ヶ崎さんに触れるなんて、下々民の私が、勘違いも甚だしい。だが、それは離れなかった。間違い無く、茅ヶ崎さんが意図的に握ったのだ。私のような愚民の手を。

「…それは、何?ちょっと、…計算なの?それともマジで気付いてないの?」
「え、あの、すみません」
「怒ってるわけじゃないんだけど、」
「あの、茅ヶ崎さん、手…」
「嫌?」
「嫌じゃないんですけど、茅ヶ崎さんは嫌じゃないんですか」
「…俺から握ったんだから、嫌なわけないでしょ」

街灯がぼんやり、夜の街と私たちに光を与えてくれる。そんな曖昧な光に照らされた茅ヶ崎さんの顔は相変わらず美しくて、いったいどこの誰が彼の容姿をこんなに整えたのかは知らないが、その知らない誰かを褒め称えたいくらいだった。彼の薄っぺらい唇が迷い、そして音を発する。

「普通、気付かない?デート、三回目だよ?」
「デート」
「男女がふたりきりで良い感じの店で食事したら、それはデートでしょ」
「…だって、茅ヶ崎さんと私ですよ?」
「俺とみょうじさんはデート対象外なの?」
「え、いや、ちょっとよくわからないんですけど」
「俺もよくわかんないよ、なんなの?本気なの?ふざけてるの?」
「ふざけてはいないです。茅ヶ崎さんの前でそんな、ふざけたりできないです」
「まだわかんない?俺がみょうじさんのこと、好きだって」
「好き?」
「どう考えてもそうでしょ。うちの職場で、みょうじさん以外を俺が食事に誘ったって話、聞いたことある?」
「ないですけど」
「わかるじゃん、なんか…わかるよね?察するじゃん、そういうの」
「だって、茅ヶ崎さんですよ?私も茅ヶ崎さんじゃなかったら、好かれてるのかなぁくらいは思いますけど」
「何?俺が悪いの?」
「悪いとかじゃないんですけど、茅ヶ崎さんなんですもん」
「茅ヶ崎さんはダメってこと?」
「いや、ダメとかじゃなくて…ダメとかじゃないんですけど」
「いいの?」

いいの?と問われたが、それはいったい何に対して「いい」のだろうか。訳がわからない状況とイマイチ話の本題が掴みきれないせいで、その言葉を境に黙ってしまう。そんな私を見て、大人でスマートな茅ヶ崎さんは手の力を抜いた。左手が解放される。彼に初めて触れたそれは、じんじんと熱く、興奮していることだろう。自分の身体ときちんと繋がっているはずなのに、彼に触れられたところだけ自分のものじゃないみたいに感じた。

「ごめん、急に。いい加減そろそろ察しているだろうな、と思ってしまいました。申し訳ない」
「え、いや…あの…すみません、何も察していなくて」
「手、繋いでもいい?」
「え?」
「本当は初めてふたりで食事した時からそのくらいしたかったんだけど、ほら、アレでしょ。セクハラです!って言われたりすると困るし」
「そんなこと、誰も言わないですよ。茅ヶ崎さんですから」
「その茅ヶ崎さんだからって何なの?このご時世、何がどうなるかわからないでしょう」
「茅ヶ崎さんは茅ヶ崎さんです」
「そんなこと言ってるとキスしちゃうよ」
「別に、いいですよ。茅ヶ崎さんですもん」

ゆっくりと歩き始めたのに、私たちは数メートル進んで立ち止まる。いいの?と許可を求められ、律儀だなぁと思いつつ頷くと彼は柔く、口付けてくれる。唇と唇がくっつくだけの、ただそれだけのキス。一度しただけで彼は私の左手を包み、歩こうかと提案。私はまた首を縦に振るだけで、やっぱりのろのろ、夜道を進む。茅ヶ崎さんの手は、そんなに熱くなかった。彼と触れ合っている私の手が、勝手に熱くなっているのだ。もうすでに欲しがっていた左手は再び彼の熱に包まれて嬉しそうだが、一瞬触れただけの唇はものすごく、不満そうだった。
きゅん、と胸が鳴いた

2019/03/16 title by 草臥れた愛で良ければ