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わかりきっていたことだが、夜が明けても銃兎さんの姿はない。くだらない朝が、今日も時間通りにやってきた。携帯に連絡が入っているはずがないからわざわざチェックしたりしない。今日遅くなる?という私の問い掛けは既読スルーによって息絶えているだろう。国家公務員ってのは、よっぽどお忙しいようだ。どうも、お勤めご苦労様です。知ったこっちゃないけれど。
キッチンのカウンター、冷蔵庫に保管したツーピースのケーキ。温室育ちのフルーツでカラフルに彩られている。それを皿に盛り付けもせず、手掴みで口に運び、むしゃむしゃと頬張った。紅茶でも淹れればいいのだろうが、湯を沸かすのが面倒で冷蔵庫にあった二リットルの緑茶を百円ショップのマグカップに並々注いだ。口の周りにクリームが付いたって気にしない。だだっ広い部屋にひとりぼっちだから。時計の短針は八と九の間。こんな時間から甘ったるいものを食べる趣味はないのだが、何か胃におさめたい気分なのだ。おさめなければ、気が済まないのだ。



「なんで?」

ちょうど、だいたい、一年前だろうか。鍵を渡された。この部屋の、銃兎さんの部屋の合鍵だ。欲しいとねだった覚えはない。彼の顔と手のひらに握らされたそれの間で、私の視線はキョロキョロと忙しなく動く。そんな様子を見かね、説明が必要だと感じたのか、何も言わなかった口が開いた。

「必要ありませんか?」
「…もらっていいの?」
「先日のように、鼻を曲げられると困りますので」

嫌みがたっぷり、込められた台詞だった。一週間ほど前の、あの日のことを言っているのだろう。如何にも私に非があるような言い方だが、お互い様だと思うのだ。だって、約束の時間を過ぎても銃兎さんは待ち合わせ場所に姿を見せず、おまけに連絡も寄越さなかったから。心配になった私は何度か着信を残し、メッセージを送ってみたが反応はなく。季節は冬、時刻は午後七時。しんとした空気、吐き出す息は白…くはなかったが、居心地が良いとは言えない気温の日だった。どこかカフェにでも入って暖を取ろうか。いやでも、単純に携帯の充電が切れたとか、職場に忘れてきてしまったとか、そんな理由もあり得なくはなくて、だからつまり、ここを離れることはできなくて。そんなこんなで、ようやく電波が私と彼を繋いだ頃には、だいたい映画一本分の時間が経過していた。じいっと大人しく、待ち合わせ場所でいい子にしていた私が「心配したんだよ」と狂ったように繰り返し、半分泣いていたせいか、銃兎さんは電話の向こうで困り果て、これでもかと呆れていた。すぐに行くからどっか入って暖かくしてろ。そう言って通話は終了。間髪入れずにメッセージが届く。待たせてごめん、と。そんなこと電話で言えばいいのに。私はそう思いながら銃兎さんの不器用な優しさが嫌いじゃなかった。むしろ、とても大好きだった。

「この間もそうでしたが、あてにならないので」
「時間?」
「時間も、予定も、約束も」
「国家公務員だから?」
「…馬鹿にしてんだろ」
「してません」
「お前の気が向いて、ここに来たいときに勝手に来ればいい」

俺がいるかはわからねえが、と。身支度を整えながら彼は言う。ネクタイを結ぶ指先まで綺麗で、ずるいと思ってしまった。銃兎さんはとにかく、うつくしいひとだった。じいっと見惚れてしまうことも多い。

「好きに使ってくれ」
「嫌じゃないですか?」
「あ?」
「国家公務員の銃兎さんが」
「さっきからそればっかだな」
「たっぷりこき使われて、疲れて帰ってきて、ひとりになりたいって時に私がいたら」

コートを羽織り、車のキーを持って、彼が部屋から出て行こうという時だ。ポツリとこぼした私の言葉が難解だったのだろうか。驚いたような、ぽかんとした表情で私を数秒見つめ、ふっと笑って。

「嫌なら鍵渡したりしねえよ」

銃兎さんは意外と、ちゃんと言葉をくれる。好かれている自信はあまりないが、嫌われているとも思わない。どちらかといえば私を気に入ってくれているような気はするが、確証はない。恋人になる契約を交わした覚えはないから。ふわっと始まってふわっと終わる関係かもしれないし、私は銃兎さんと違って大人じゃないから、その辺のことはよくわからない。一緒にいたいから一緒にいる。今は目の前のその事実だけでじゅうぶんだったし、それでもかなり贅沢をしていると思うのだ。玄関まで彼を見送る。いってらっしゃい、気をつけてねって、いつも通りのテンプレートな台詞。ぐちゃぐちゃな私の心を見透かす特別な能力が彼に備わっていると思っていたが、単純に私が顔に出やすいだけらしい。これは後から知ったことだが。靴を履いた彼に「もっと一緒にいたい、行かないでほしい」なんて無理な願いを心内に秘め、振り返った銃兎さんの横顔を綺麗だなぁと思いながら瞬きでシャッターを切り、瞳にしっかり、焼き付けていた時だ。彼の手が私の髪を撫でる。行ってくると言った後、なだめるように笑って、呆れたように言った。

「もう少し、自惚れてもいいんじゃないですか」
「え?」
「私に好かれていると、自惚れたらどうです?」

バタン、と扉が閉まる。私はそれをすぐに開き、彼の名を呼んだ。背を向けたまま手を上げて行ってしまう彼の背中にぶつける。好きですって、なぜだか声に出していた。銃兎さんから甘ったるい言葉は返ってこないが、上げた手のひらがゆらゆら揺れたから、ちゃんと聞こえたんだって、安心した。受け取ってもらえたのならそれでいい。私たちは好きでもない人間と時間を共有するほど、暇じゃないのだ。



そうだ、ハッキリと思い出した。あれは冬がやってきた頃で、今は五月の末。イコール、私たちは一年と半分が経った今も、恋人っぽい関係を続けている。おめでたいんだかなんなんだか、よくわからない。可愛らしいケーキは、いくら食べ進めてもこれっぽっちも美味しくなかった。いや、きっと味はいいのだろう。評判の良い店のものだ。ただ、ショーケースの中からこれを選んでいる時に思い描いていたシーンと、今現在のこの状況が全く異なるから。こんな風によく味わいもせず、誰とも言葉を交わさずに口にするとは考えてもみなかった。私の想像力が足りないのだろう。こんな展開は初めてじゃない。何回も経験しているし、この程度でいちいち気分を落としたくもない。少し前までは、私も頻繁に落ち込んで、その度に銃兎さんは優しくしてくれた。元々彼は結構親切で、感情を読み取るのが上手いのだ。機嫌を取ろうと贈り物をしてきたり、ごめんなって謝ってくれたり。ただ、それはなんだかおかしい気がして「もうやめてくれ」と釘を刺した。今日だってそうだ。私が使う以外は出番のない彼の家のキッチンで、腕をふるって料理を拵えたのだって、頼まれたわけじゃない。私が勝手にやったことだ。ラップを被ったそいつらは冷蔵庫の中で延命措置を受けている。一口も食べてもらえていないのに、不満を漏らすことも暴れ狂うこともないので、ずいぶん利口だ。見栄えをよくしようとやたらとでかい皿に盛りつけたので、スペースをとってしまい、邪魔で仕方なかった。

「…なんですか、その顔は」

手袋と腕時計を外し、続いてネクタイを緩めながら、彼はキッチンでひとり、ケーキを貪る私を見て言った。おかえりなさい、と言いたかったが言えなかった。ひどく驚いていたのだ。鍵を開ける音も廊下を歩く音もいつもなら聞こえるのに、今日は聞こえてこなかった。それほどぼおっとしていたのか。いや、ひどく落ち込んでいたからか。

「口、付いてんぞ」

口に含んだフルーツとスポンジ生地を飲み込むこともできず、状況の理解もできない私は、うつくしい銃兎さんをじいっと見つめた。うつくしい指が私の唇の横に触れる。うつくしい指が生クリームで汚れる。彼のうつくしい舌がそれを舐めとる。甘いな、と当たり前の感想を彼のうつくしい唇が紡ぐ。

「ケーキだからね」

事態とケーキを飲み込んで、何か言わなければと思ったのだろう。彼に負けじと当たり前のことを口にして、付け足して。

「銃兎さんのお誕生日ケーキ」

一口残っていたそれを自分の口内に。銃兎さんがいっしゅん驚いた顔をしたような気がしたが、気のせいかもしれないし、よくわからない。四分の一くらい残っていた緑茶で全部流し込んで、やっと「おかえり」と言えた。大好きな声で「ただいま」が返ってきた。それだけで、泣いてしまいそうだった。

「それ、私の分だったんですか?」
「二つ買ったのでどっちか選んでもらおうと思ってました、好きな方。銃兎さんがなんのケーキが好きか…いや、そもそも甘いもの好きなのかどうかも全然わからなくて」

甘味たちがずらっと行儀よく並んだショーケースの前で、私は随分頭を悩ませたのだ。私たちはいったい、今までどれくらい時間を共有し、どの程度の情報を交換してきたのだろう。知らないことが多すぎて、いざ彼のために何かしようと思っても、何もわからない自分がいて。ぐしぐし、鼻を啜る。落ちそうになる涙をどうにかこぼさないようにする。寂しくて、虚しくて、悔しい。銃兎さんはそんな私に気付いているだろうが、何も言わなかった。おもむろに冷蔵庫を開ける。そのまましばらく黙って、声を出した。

「なまえ」
「はい」
「これ、食べてもいいですか?」
「え?」

銃兎さんは冷蔵庫を占領していた料理を取り出しながら言う。私の返事など気にしていないようだ。

「お腹空いてるんです」
「…いいけど、」

冷蔵庫で息絶えるのを待っていた料理を食べてもいいか、という質問内容だ。せっせと拵えた手料理たちだ。このまま死にゆくだけだとタカをくくっていただろうに、思いがけぬ出番がきたので嬉しそうである。

「冷めてるよ」
「冷蔵庫に入ってましたからね」
「あっためるよ」
「構いませんよ」

ジャケットを脱いで椅子の背もたれに。着席しようとする彼の身体はきっと、食事なんかよりも睡眠を欲しているはずだ。朝方に帰ってきた銃兎さんはたいてい、シャワーも浴びずに自分を締め付けるものだけ取っ払ってベッドに倒れこむように沈み、そのまま気絶するように眠る。こうやって私を構うのは珍しいことだった。

「銃兎さん、着替えてきて。あっためておくから」
「いいですよ、面倒でしょう?」
「私がそうしたいから、そうさせて」
「…ありがとう」
「どういたしまして」

キッチンなんてこれっぽっちも使用しないくせに、なぜ三口のコンロがある物件を選んだのか甚だ理解に苦しむが(全く気にしていないだけだと思うが)こうなるとそれがありがたかった。電子レンジにも頑張って働いてもらう。そうこうしている間にラフな格好に着替えた彼はキッチンにやってきて、何か手伝うことはないかと問う。もうすぐできるから座ってて、と指示を出せば若干不満そうにしながらも大人しく椅子に腰かけた。料理をテーブルに並べ「どうぞ」と声を掛ける。銃兎さんは洗いたての手のひらを合わせ、いただきますと呟いた。こうやって向き合って食事をするのはー…正確に言えば私は既に栄養の偏った朝食を済ませたので彼の食事シーンを見守っているだけだが、とにかく、こうやって対面するのは久しぶりだった。ありきたりで、遊び心のないメニュー。なんせ、銃兎さんの好物なんてろくに知らないのだから。

「美味い」

独り言だろうか、それとも私に気を遣ってきちんと感想を届けようとしているのだろうか。よくわからないので返事をしそこねたが、温めたポトフを口にした辺りで次の言葉をくれる。

「料理、上手いんですね」

カルパッチョを皿によそいながら銃兎さんは私を賞賛する。本音かどうかはわからないが、それでも嬉しくて、「人並みだよ」なんて返してみるが、内心は嬉しくって、嬉しくて。

「食べないんですか?」
「さっき、ケーキ二個も食べたし」
「美味しいですよ、少し食べたらどうですか」
「無理しなくていいからね」
「無理?」
「全部食べなくていいから」

二人で食べることを想定して作ったのだ。一人で食べるには量が多いだろう。何度か言っているが、銃兎さんは結構優しくて気が利くタイプだ。おまけに腹が減っていると言ってもまだ時刻は午前九時で、きっとこの食事は朝ご飯に分類されるもので、朝食にしてはヘビーなラインナップで。だから気を遣ってそう言ってみたが、銃兎さんはあぁ、と。そんなことですか、とでも言いたげなのだ。これは些か、可笑しかった。

「こう見えて結構食べるので」
「嘘」
「どんな嘘ですか」
「だって、二人前ありますよ」
「お腹空いてるんですよ」
「いや、だからって」
「だから、結構食べるんですって、私」

確かに、茶碗の筍ご飯はもうほとんどなくなっていた。男子高校生みたいな食べっぷりに、やっぱり無理をしているんじゃないかと心配になるが、見た感じ、嫌々食べ進めているようには思えない。まぁそれだって演技かもしれないし、とにかくわからないのだけれど。

「ご飯、まだあるけど」
「もらえますか?」
「どのくらい?」
「今と同じくらい」
「え?そんなに?」
「えぇ、そんなに」
「…お酒は?ワインあるよ、飲む?」
「いや、いい。今度飲む。料理があれば充分だ」

私から茶碗を受け取るとお礼を言い、食事を再開する。彼の食事のペースはまだ落ちない。正気だろうかと、いよいよ不安になってくる。ガツガツと綺麗に食べ進める彼から、私に質問が飛んだ。

「言ってくれねえのか?」
「…おめでとうって?」
「わかってるなら言えよ」

苦笑しながら発せられた言葉に、私はやっぱり、なんのひねりもないつまらない言葉を渡す。もっと色々、言いたいことはあるのに。

「おめでとうございます」
「ありがとうございます」

辞書でも開けば、見つかるのだろうか。私が彼に伝えたいのはこんなことじゃ…勿論、おめでたいとは思っている。それはそうだが、それ以外にも、たくさんあるのだ。たくさんありすぎて、もう全く、わからないのだ。私がそうやってあれこれ考えている間に、銃兎さんは料理を全て平らげた。男の人って、みんなこれくらい食べるのだろうか。銃兎さん以外の男の人と食事をする機会のない私には平均が全くわからない。デザートのケーキはもう私の胃の中なので、若干申し訳なくもなるが、彼は箸を置き、再び手を合わせ、律儀に九文字の言葉を発した後、謝罪の言葉を寄越した。聞く必要のない謝罪だ。

「すみません、せっかくこうやって」
「銃兎さん」

続く言葉の予想はできた。だから遮る。そんな言葉が欲しいわけじゃないし、だいたい、この一連の行動は私の自己満足だから。謝ってもらう必要など、どこにも、少しもないのだ。

「謝らない約束でしょう」
「貴方の誕生日も、まともに祝ってないですし」
「そんなことないですよ。プレゼントくれたじゃないですか」

呼ばれてもいないのに、わざわざ自分の誕生日に銃兎さんの部屋に行くのはなんだか図々しい気がして、自宅でぼんやり、何をするわけでもなく、時間の流れに逆らうことなく、年を一つ重ねていたあの日。宅急便で荷物が届いた。送り状のご依頼主の名前を見ただけで満たされた。大好きな人の名前だったから。

「じゅうぶんです、それで。私なんかの誕生日を銃兎さんが覚えてくれているのが、私は嬉しいから」
「…あの日にも言いましたが」

銃兎さんが言う「あの日」が「どの日」なのかわからなかったのは、本当に一瞬のことだ。すぐにわかって、よく覚えているなぁと感心した。さっきまでじんわり思い出していたあの日のあのシーンを、また再生する。瞳に焼き付けた、あのシーン。

「いや、あの日はもう少しと言いましたが、もっともっと自惚れてください」

何もしてやれない、してもらってばかりの恋人で悪いな、と。彼はそう謝った。何より嬉しい謝罪だ。私たちはちゃんと、恋人同士らしいから。

「私に好かれていると、自惚れてください」

2019/04/27