×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
2018.01.23 23:27

「結婚しない?」

同じ部屋に帰ってくるようになって、だいたい一年と少しが経過していた。他人と一緒に住む。松川にとってそれは未知の世界の出来事だ。元々、とてもマイペースな男だが、気が遣えないわけじゃない。寧ろ、とても気が回るせいで誰かと過ごしていると疲れてしまうのだ。しかし、そんな不安は何処へやら。この頃は「同棲などできるのだろうか」と、不安でいっぱいだったあの頃を懐かしむほどで。小学校の入学式みたいな、何とも形容しがたい緊張感を抱えていたはずなのに、もうすっかり彼女と一緒にいるのが当たり前になっていた。なのに「好き」という単純な気持ちは当たり前になることなどなく、異常なペースで募っていく。どこまで積んでいけばいいのだろう。終わりの見えないなまえへの愛情のようなものに、ちょっと困ったりするほどだ。
一方なまえはなまえで、自分があの、美容部員の松川一静と付き合い、同棲するなど思ってもみなかった。未だに彼と自分が付き合っているだなんて、信じられないのだ。信じられないし、信じられないくらい幸福で、信じられないくらいドキドキする。今朝だってそうだった。もう、こんなありきたりな朝は何度も過ごしているはずなのに、隣に感じる大好きな男の熱が愛おしくてたまらない。割れ物に触れるかのように恐る恐る頬を撫でれば彼の目がゆっくりと開く。起こしてしまったと申し訳なく思い、ごめんなさいと口早に謝罪をするものの、松川はそんなことは御構い無しという感じで微睡み、「おはよう」と挨拶をしてくれるのだ。まぁ、それだってなまえのことを愛しているからなんだけれども。ずうっと、心配だった。自分と松川は、上手くいくのだろうか。平々凡々な自分は、松川に嫌われてはしまわないだろうか。
一つ屋根の下の生活。二人ともそれにたっぷりと不安を抱えていたが、結果から言うと、この同棲は意外と、いいものだった。この生活がすっかり気に入った松川。ようやくほんのりと慣れてきたなまえ。夜も深くなり、あと三十分くらいで日付が変わろうというところ。いつものように洗面台の前で歯を磨くなまえにそう提案してみた。結婚しない?って。鏡ごしに見る歯ブラシを咥えた彼女の表情は、言うまでもなく、ひどく驚いていた。

「ひょっとはって、」
「うん」

ちょっと待って、と言われたと推測し返事をしたが、その解釈でよかったのかはわからない。言ってしまった。松川は例によって全く顔色を変えないが、内心は結構、ざわざわしていた。言おうとは思っていた。付き合ってからの年月とか、お互いの年齢とか、仕事のタイミングとか。色々考慮すると、そろそろだと思ったのだ。ただ、なんでいま突然伝えてしまったのかは、自分でもわからない。

「…どうしたんですか、急に」
「いや、うん、」
「何かあったんですか」
「何もないですけど」
「何もないんですか」
「何もなきゃプロポーズしちゃダメ?」
「いや、あの、違うんですけど、」

歯ブラシをいつもの定位置に戻し、洗面台の鏡とさよならをして松川と向き合う。男からの突然のプロポーズに、なまえがうろたえないはずがなかった。考えていないのだから、こんな展開は。結婚願望があるとかないとか、そういうことじゃない。松川と結婚なんて、自分にとっては夢のまた夢みたいな感じなのだ。付き合っていることさえも、これだけ時間が経ったというのに、信じ難いのだから。そりゃあ、いつか松川さんと結婚できたらいいなぁと思ってはいたが、それって、人魚姫が「いつか人間の世界へ行ってみたいわ」とうっとり嘆いていたのと同じような感覚なわけで。もっとも、人魚姫はあれよあれよと陸へ上がったが。いや、だから、論点はそこじゃなくて。

「俺が幸せだから、結婚してほしい」
「え?」
「なまえちゃんといると、俺が勝手に幸せだから…だから、一緒にいたいなぁって思うんだけど」

松川は多くを口にしない、物静かな男だった。なお言えば、仕事中はたくさん話さなくてはならないわけで、それも相まってプライベートではもっぱら、聞き手に回ることが多かった。でも今は言葉を出し惜しんでいる場合ではない。今まで経験したことのない、訳のわからない空気が松川となまえを取り囲む。

「わがままかな」
「ううん、」
「ごめんね、急に。絶対幸せにする、なんて誓えないんだけどさ…いや、もちろん幸せにしたいなぁと思うよ」
「…松川さん、」
「とにかく、…好きだから、本当に。あぁ、あと…正直言うと、他の奴にとられるのが怖いってのもあるんだけど…いや、結婚したらとられないのかって、そういうことを言い出すとキリがないんだけどさ」
「誰もとらないですよ」
「わからないですよ、それは」
「私だって、」
「…俺はもう、なまえちゃんだけだから」

そんな、寡黙な松川が、もがくように言葉を選び、好きだ好きだと伝えてくれる。それがなまえにとっては、何よりも嬉しかった。もちろん「結婚しよう」というふわふわとした夢のような言葉も喜ばしいが、なによりあの松川が自分を好いているらしいのだ。混雑する百貨店のコスメフロアにいた、しっとりとした色男が。そんなことってあってもいいのだろうか。もっと彼に似合う女性がいるであろうに、自分でいいのだろうか。

「俺と結婚してもらえませんか」
「なんで…」
「ん?」
「なんで今、言ってくれたんですか」
「歯磨きしてる時にね、ご不満?」
「不満とかじゃなくて、」
「んー、なんでだろうねぇ。なんか、ふと、好きだなぁって思って」
「…結婚式の日、」
「ん?」
「メイク、松川さんがしてくれる?」

いったい何を言われるかと思いきや、そんなことかと松川は一安心。そんなことでいいなら毎日するよ。いや、毎日はちょっと無理だね。これから二人で歩んでいけば、今日はもう何もしたくないってくらいに疲れている日もあるだろうし、くだらないことで喧嘩をして口を聞きたくない日もあるかもしれない。でも、それでいいんだと思う。君と一緒なら、それで。
白いウエディングドレスに身を包んだなまえを頭に描く。相変わらず愛おしくて仕方ない彼女の唇を、どんな色で染めようか。今から楽しみで仕方ない。

「そんなことでよければ喜んで」
「…私でいいの」
「うん」
「私、」
「なまえちゃんは、俺でいい?」
「松川さんがいい、です」

男は石鹸の香りを漂わせる女をほわりと包み、背中にきゅっと力を込めて、そこに「愛してる」も詰め込んで。ぐしぐしと鼻をすする音が聞こえるが、もしかして泣いているのだろうか。そういえば松川も、自身の鼻の奥が少々ツンとしていることに気付き、明確な幸せがごぽごぽ込み上げて。声が震えないうちに少々冗談でも言わないと本格的に泣いてしまいそうだったので、ちゃんと演じる。大人で、余裕のあるダンディな松川さん。今日くらいは、彼女の理想通りでいたいのに、感情を操作するのは意外と難しいようだ。震わせた声帯からは、いつもよりも情けない自分の声しか出てこなかった。

「今更だけどそのマツカワサンってのやめない?夫婦になるわけだし」
「…努力します」
「はい、よろしくお願いします」
「松川さん、泣いてます?」
「はい?」
「初めてみた、松川さん泣いてるの」
「…だから、名前で呼びなさいって」

一静さん。確認をするように男の名を呼んで、小さく、柔い手が男の少々乾燥した頬を包む。伝う涙を指で掬う女は、目の前の愛おしい男ならなんだってよかった。余裕なんかなくなっていい、子どもっぽいところがあったとしても全く、これっぽっちも問題じゃない。ゆっくり重なる唇、ゆっくり離して松川は言う。次、休み被るのいつだっけ?なまえは頭の中でカレンダーを描き、少し考え込んでから答えた。

「来週の…日曜じゃない?休みだよね?」
「…うん、そうだね、そうだ、日曜ね」

指輪買いに行くから空けといて。
耳元で囁かれた言葉、なまえの耳は瞬く間に真っ赤に染まる。小さくイエスの返事をするのが精一杯だか、松川はそれでじゅうぶんだった。どうやらプロポーズは成功したらしいし、さて、それじゃあ、改めてキスの続きをしよう。あいつらには…来月の及川の結婚式で報告すればいいか。今はちょっと、それどころじゃないのだ。

2019/01/18