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- ナノ -
2016.12.31 20:32

及川徹というこの男は、結局この年下のさしてパッとしない女から離れられないようだ。あの日、2人テーブルを囲んで及川特製のビーフシチューを胃におさめ、また何気ない日常を数日味わいあっという間に年の瀬。ようやくなまえの仕事も落ち着き、過ごす時間に余裕が生まれる。そういえば以前ふらっと旅行に行きたいなんて言っていたのを思い出し、2人でどこかに行こうかと提案してみたが、女は首を横に振り、慣れた家でゆっくり過ごしたいと答えた。穏やかな声だった。

「1年って本当、早いね」

昼間、買い出しに行った品ぞろえの豊かなスーパーマーケットは恐ろしいほど混雑していたが、年末なんてどこもそうだと割り切る他ない。山積みにされた食材はいったいどこへ消えていくのだろうか。そうぼんやり考えもするがそんなことにさして興味はないのだ。それよりもすき焼きが食べたいというベタななまえの提案により、色の美しい牛肉を購入。あとは少し高価なワインと、遠くの国からやってきたチーズを数種類。出会った頃に比べなまえはアルコールに耐性ができていた。及川徹というこの男のせいだろうか。単に年齢を重ねたからだろうか。

「そうだね、今年は早かったかな」

男の問いかけに女は同調する。ぐつぐつと音をたてる鍋からは非常にいい香りがして、自然と食欲がわいた。2人向き合い鍋をつつく。テーブルはそろって足を運んだインテリアショップで購入し、とても気に入っているものだ。サイズ感がほどほどで色味が少し変わっていて、あぁこれにしようとすぐさま意見が揃ったのだ。わりと珍しいことなので互いによく覚えている。

「俺はここ数年、毎年恐ろしいほど早いけど」
「うーん…まぁ、確かにそうだね、早いよね」

なまえは思っていた。及川が隣にいなかった1年は、恐ろしく長かったと。会おうと強く思えば会えなくはない距離にいる。地球の裏側にいるわけじゃないし時代は平成。近代の文明の力を借りれば数時間で彼の体温を味わうことができる。できるのに、できない。会わないことにしようと、愛する男に言われたからだ。言えば多分、会いにくる男だ。それも何となくわかる。だから、絶対に言ってはいけない。今はもう、そんなもどかしい思いはしなくていい。会いたいなんて思っても思わなくてもそんなことは関係なく家に帰れば彼がいて「おかえり」って出迎えてくれる。それはいったい、幸せ以外のなんだというのだろうか。なんと形容すべきなんだろうか。

「あのさぁ」

誰も見ちゃいない年末のテレビ番組は賑やかで華やかでいかにもいまこの時期だということをしみじみと感じさせる。女は少量のアルコールを口にしていたが、まだまだこれからというところである。決して酔っぱらっちゃいないのに、及川の方は思わずにはいられなかった。酔っているだろう、と。

「年明けたらさ、会社の名刺、申請しなきゃなんだけど」

急に何の話だろう。及川は箸を動かすのを止め、女の表情を確認する。なまえはいい色にそまった牛肉を口に含み咀嚼、飲み込むとごくごく自然に言葉を発した。

「及川でしちゃだめ?」
「え?」
「年明けに名刺の申請するんだけど、及川なまえでしてもいい?」

訳のわからない質問だが、及川だって一応エリートと呼ばれる男だ。頭の回転は悪くない。それはつまり…?と察しはするが、いやいやそんなはずはないと、まっとうな神経が判断をくだす。彼女はジョークを言っているのだ。

「酔ってる?」
「ううん」
「酔ってるでしょ?」
「まだ平気」

及川は耳が遠い訳でも、女の話を集中して聞いていないわけでもない。なまえの言っていることがよくわからないのだ。なんの脈略もないその提案は、藪から棒という言葉がぴったりで、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような、そんな表情にならざるを得ない。いやはや昔の人間は頭がいいな。こんな状況にしっくりくる諺を作っておいてくれるのだから、なんて一周まわって呑気にそう考えてしまうくらいに及川は驚いていた。

「1年に1回しかないんだよね、申請。なんでだろ」
「ちょっと待って、なに急に」

慌てふためく及川を他所に、女は呆れたように話す。はぁ、とめんどくさそうでもあった。

「だって及川さん、全然プロポーズしてくれないから」
「…していいの」
「なんでしないの」
「なんでって」

“プロポーズに渋っています”
いつかのあの4人での飲み会で何げなく言われた一言が鮮烈に脳裏をよぎる。渋っている訳じゃない。彼女に喜んでもらいたい。特別なものにしたい。そう思うがあまり、完全にタイミングを失っているのは事実。だからってこれはないだろう。これじゃあ俗にいう“逆プロポーズ”じゃないか。こんなの、あいつらに言えるはずがない。絶対にからかわれて笑われる。瑞々しい水彩画のように鮮明にその様子が浮かんで恐ろしくなる。及川はすっかり、年越しどころではなくなってしまった。

「ちょっと待って、今の一連の流れの記憶抹消して」
「ちょっと待ってってそればっか言うね」
「俺が言うから、俺から言うから」
「いいじゃんそんなのどうだって」
「よくないでしょ」
「申請していい?」
「だから抹消してって」
「コンピューターじゃあるまいし、無理だよ。ねぇ、いいの?だめなの?どっち?」

狼狽える及川をよそに、女は淡々と話を進め、微笑む。慌てる及川がおかしくて仕方ないのだ。今日この日のことは一生忘れないと思う。半泣きで「俺にチャンスをくれ」という男のことを一生好きでいると思う。そう確信してまた少し笑うのだった。

「なまえちゃん、」
「言っておくけど、職場の人にも言われるんだからね。お前名刺まだみょうじなまえでいいのかって。飛雄にまで言われるんだから」
「は?トビオってあの可愛げのないバイトの?」
「それ昔の話でしょ。今は飛雄目当てのお客さんだっているくらいだからね。及川さんよりかっこいいよ」
「それはないでしょ」
「あんまり自惚れない方がいいと思うけど」
「つーかまだ会ってんのあんなガキと」
「たまにね。今は店舗違うから、ほんとたまに」

年末のテレビ番組よりも賑やかで華やかなデュエット。部屋にたっぷりと響き、そして静粛。赤ワインを一口飲んだ及川は女の目を見て言うのだ。

「いいの」
「ん?」
「及川で、いいの」
「岩泉でもいいかなぁとは思ってる」
「ねぇ、ちょっと」
「嘘、及川じゃないといや」
「…結婚、してくれるんですか」
「うん、いいよ、よろしくね」
「…軽くない?」
「やっと言ってくれたね」

結構待ったよ、と。なまえは薄く涙が張った瞳で及川を見つめ、そう呟いた。あぁ、待たせてしまったんだなと、情けない男はそう痛感するのである。申し訳ないことをした、と。

「幸せにするから、俺、」
「いいよ、そんなの」

私、勝手に幸せだから、及川さんといると。
そう愛おしい声で言われれば男の方はもうやるせなくて。どうしようもなく目の前の女を抱きしめたくなるのだ。

「…年明けたらちゃんと花束と指輪、」
「いいよそんなの、前にもらったし」
「でも、」
「いい、いらない」

そのかわりしばらくは好きでいてね、と。女はまた牛肉を頬張りながら言うのだ。わりと良い雰囲気だったような気がするのに、プロポーズよりもすき焼きの方が大切なんだろうかと少々不服ではあるが、それでも。

「100年くらい好きでいればいい?」
「何歳まで生きるつもり?」
「俺、死んでもなまえちゃんのこと好きだと思うよ」
「ごめん、それはちょっと重いかな」
「ドライだねぇ、相変わらず」

どうやら及川とこの女は結婚するらしい。まぁ及川があの3人にどう報告するかは悩ましい問題ではあるが、最終的に祝福され、妬まれるだろう。わかりきった新年会が楽しみで仕方ない。
それにしても婚姻届ってどこに貰いに行けばいいんだろう。役場だろうか。そもそもこの時期って営業しているのだろうか。あぁ新年は慌ただしくなりそうだなんて、及川徹は最高に幸せな悩みを抱えたまま新しい年を迎えるのだ。

2017.03.15