短編小説 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
とても大袈裟に言うと、絶望していた。
先週はお気に入りのティーポットを割ってしまった。この間の日曜日は黒尾さんと紅葉を見に行く予定だったのに、見事な土砂降りで中止。今朝はおろしたてのストッキングがビィっと伝線して大きなため息を吐いた。
おまけに終業前、部長に言われた。みょうじさん、昼間に貰った資料だけど、これデータ間違ってるよ。去年のじゃなくて、一昨年の引用してない?
え?それ、私、部長からもらったデータで作成したんですけど。メールで送っていただいたデータ。そっちが間違えたんですよね?を飲み込んで、申し訳ございません、いただいたデータで作成したのですが……と、なるべく柔い口調と表情で伝えた。目の前の彼女はいっしゅんキョトンとして、ムッとした顔で言った。データ、確認しなかったの?作成日、記入してあったよね?気付かなかった?と。多分そんな感じのことを言われて、はぁ、なるほど、と思い、次の瞬間には頭を下げていた。一ミリも申し訳ないを込めずに、大変申し訳ございませんでした、と声に出してやる。
それなのに「本当に悪いと思ってるの?」が飛んできて、驚いてしばらく、声が出なかった。あーあ、お腹空いたな、なんて考えながら言った。はい、反省しております。以後必ず確認いたします。明日の昼までに作り直します。誠に申し訳ございませんでした、と。
それから時計を睨み、エンターキーにとめどない憎しみを込めて、正しい資料を作成。とりあえず完成させた。明日、出勤したらすぐに確認してもらって……あぁ、信じられないだろうが、まだ火曜日だ。その事実を受け入れられず、私は駅のホームで倒れ込みたくなった。目を開けていることも辛くて、ゆっくりと瞼を閉じた。街の音を遮断するために耳に届いていたお気に入りの音楽のボリュームを上げ、わざとらしく鼓膜を震わせたが、特になんの効果もない。でも、もう大人だ。喚いたり、わあっと泣き叫んだりしない。でも、でも。ちゃんと、しっかり落ち込んでいた。よくないスパイラル、みたいなものにどんっと突き落とされたのだろう。ここ最近、ろくなことがない。スマートフォンのディスプレイを眺める気にもならなかった。そのままホームに突っ込んできたいつもの電車に乗って、いつもの駅で降りる。何も考えずとも帰宅できて、安心する。考えると、だめだ。余計に元気みたいなものが吸い取られて、自分が萎んでしまうから。何も考えないでおく。ただ、部屋のベッドに倒れ込みたくて、無心で足を動かす。

「なまえちゃん」

イヤホンを外して、聞こえた声。会いたいけれど会いたくなかった人。どんな声で「ただいま」を言おうか迷っていた人。その人に言う。くろおさん、と。ひとりごとのように、うわごとのように。

「スマホは?」
「え?」
「スマホ。返信ないし、既読もつかないし、おまけに帰ってこないから心配で」

バッグの底に沈んでいたそれを発掘してやる。私は大抵、定時で帰宅するし、会社を出る前に彼に一言連絡を入れる。あまりにも落ち込んでいたせいか、そのルーティンをすっかり忘れていた。今度はちゃんと、感情を込めて謝罪する。この人、いつから待っていたのだろう。最後の着信は一時間前だ。

「……ごめん、連絡するの忘れてた」
「んーん、全然。残業?お疲れ」

「珍しいね」なんて言って、彼はそのまま流れるように私のバッグを奪う。空いた手を結ぶ。お疲れ様、大変だったねもくれる。

「ご飯まだ?」
「うん」
「まじ?お腹空いたでしょ、コンビニ寄る?スーパー?」
「……ううん、へいき」

震える。声が出しにくくて、彼の普通の、いつも通りの優しさがじわじわと染みて、泣きたくなってくる。こんなどうしようもない私を、丁寧に扱ってくれる人がいる。それが嬉しくて、奇跡みたいに感じて、瞳がじんと熱くて、焦げてしまいそうだった。

「……なんかあった?」
「ううん、だいじょうぶ。ごめんね、連絡しなくて。待ったでしょ?寒いのにごめんね」
「いや、いーって。ねえ、まじ、なんかあったでしょ?」

黒尾さんは、優しい。私が寄りかからないと、怒る。でも私は、彼がいなくなってしまったら何もなくなるから、だめな部分を見せたくない。迷惑もかけたくない。ちゃんと「いい彼女」でいたい。嫌われたくないから、謝るしかない。

「なまえちゃん?」
「ごめん黒尾さん、そんなに優しくしないで」
「優しくしてないよ、別に。なんかあったかって聞いてんの」
「何もないって言った」
「じゃあなんでそんな泣きそうな顔してんの」

つーかもう泣いてんじゃん。
彼が私の顔を覗き込み、滲んだ涙を拭う。そんなに話したくないですかね、と呆れたように言うから、思った。お願いだから嫌いにならないで、なんて。とんでもないわがままをたっぷり抱いた。

「ねぇ、誰が俺の可愛い彼女泣かしてんの?」
「……ちがう、」
「違くないでしょ、まじどうしたの。会社でなんかあった?」
「くろおさんが、優しいから」

黒尾さんが優しいから、嬉しいの。
スマートフォンに溜まった数件のメッセージ、着信がニ件。いつ帰ってくるかもわからない私を改札で待っていてくれる彼。くたくたの私を、上っ面じゃない言葉で労ってくれる彼。

「……どうするつもりだったの?」
「なに?」
「私、帰ってこなかったら」
「あー……あと三十分待って帰ってこなかったら会社電話しようと思ってた。めっちゃ嫌がられるだろうけど」
「しないでね、そんなこと」
「そんなことさせないために連絡してね、まじで心配だから」
「……ごめんなさい」
「謝んなくていいって。帰ってきてくれてよかった」

ぎゅうっと、強く握られた手のひら。で?何があったの?と問われる。私は言う。黒尾さんからもらったティーポット、先週割っちゃったの。日曜日もデートできなくて悲しかったから、今度の休みに一緒にお買い物行こう?と。彼は言う。お安い御用ですよ、と。それ以上は何も聞いてこなかった。多分もう、あきらめてくれたのだろう。ただ、やや不服そうではあったので、言ってやる。「あとね、今朝、ストッキング伝染したの。おろしたてだったのに。ほんと最悪」と、とても不機嫌そうに言った。

2021/11/10
title by bacca