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震えるスマートフォンを睨んだ。でもまぁ、元はと言えば私が悪い。魔がさしたのだ。約二ヶ月前、同級生が、オリンピックに出場していたのだ。連絡くらいしたくなるだろう。
同級生で、元恋人なら、尚更だ。
同級生で、元恋人で、未練たらたらなら、もっと、尚更。
それで、ほとぼりが冷めたであろう今日、もうひとつの理由を重ねて連絡した。それとこれを合わせれば、短いメッセージを届ける理由になるだろう。

「もしもし」
「もしもーし、なまえ?」

返事ができなかった。心臓が楽しそうに高く、跳ねるから。

「ごめん、忙しかった?いま大丈夫?」

そんな未練たらたらな私は、たっぷりゆったり着信音を鑑賞し、きっと彼が「出ないな、切ろう」と思う直前で会話を繋いだ。出るならさっさと出ればいい。光太郎が電話を掛けてきたのは、私が連絡を入れたからだ。
誕生日だよね、おめでとう。
オリンピックも見てたよ、今更だけど。
その二つのメッセージに、彼は電話を寄越した。ありがとうなら、文章でいいのに。そんな格好悪い強がりを心の中で抱き、心臓を煩くした。久しぶりの光太郎の声で、耳が蕩けそうだった。

「うん、へいき。ごめん、出るの遅くなって」
「んーん。さっきありがとう、嬉しかった」

つーか久しぶりだね、元気にしてる?
あたたかい声が、じわじわ沁みる。会いたいと思って、その次の瞬間には、それを声にしていた。変な沈黙が、静かな時間が、私を冷静にした。

「っ、ごめん、そうじゃなくて、」
「え、会いたくないの?俺いま、行こうとしたんだけど。いや、なまえの住所知らないからまずそこからなんだけどさ」

光太郎はとても普通に、そう言った。私が会いたいなんて溢したことを、不自然だと思わないのだろうか。だって、高校を卒業してから、会っていないのだ。連絡さえ取っていない。

「そうじゃないなら、こんな思わせぶりなことしないでよ。期待しちゃうから」

急に、久しぶりに連絡くれてさ。電話出てくれて、会いたいなんて言われたら俺、勘違いしちゃうって。
光太郎は笑って、どこか寂しそうに言った。
きっと彼女、いるだろう。いないにしたって、恐ろしくモテるだろう。バレーボール日本代表の木兎光太郎なのだ。さんねんいちくみの、木兎光太郎じゃない。私の知っている、彼じゃない。でも、この人は、嘘を吐いたりしない。それはわかる。知らないけど、わかる。

「……こうたろう、」
「ん?なーに?」
「光太郎、ごめん、会いたい。いま、会いたい。住所送るから来て。ごめん、お願い」

で、彼も覚えているとしたら。
私はこうやって、急に連絡をしたりしない。会いたいって言ったりしない。わがままも言わない。
そんな女が、こんな、あと時計が二周すれば日付が変わる時間に強請ったりしない。
光太郎は数秒、何も言わなかった。沈黙が怖かったが、言わなかった。さっきみたいに「ごめん、違うの」って、言わなかった。

「わかった、今から行くね」
「……いいの?」
「うん、いいよ」

俺もなまえに会いたいから。じゃあ後で。
そうやって電話を切る。このまま消えてしまいたいくらいに恥ずかしくて、でもやっぱり会いたいから、ただの情報をぴゅんと送信し、バタバタと洗面台へ向かった。何も纏っていない肌に薄付きのファンデーションを塗る。えぇと、チーク……それにリップも、淡いカラーのものを使おう。アイシャドウ……まで塗るとやり過ぎだろうか。睫毛を上げて、透明のマスカラを塗るくらいは許されるだろうか。大人になった木兎は、そんなことを気にするだろうか。あ、部屋着。ロクなものがないな。どうしよう、大きめのスウェットにショートパンツでも履いておけばいいのだろうか。もう全然、わからない。それに、テレビでしか見ていなかった彼がこの部屋にやってくるなんて、やっぱり信じ難くて、私はもう一度スマートフォンを確認する。変なキャラクターのスタンプが送られてきていた。ありがとうと感謝の気持ちが込められている。本当に来るの?と問いたかったが、毛先を緩く巻いてヘア・ミストをつけようとしたところでインターホンが鳴った。はやっ、もう来たの。思わずひとりで、声に出してしまった。はぁい、と。精一杯可愛い声を出す。画面に、彼が映る。大きな手を楽しそうに振っている。私の知っている、木兎光太郎だ。

「いま開けるね、ちょっと待ってて」

今更だけど部屋、まぁまぁ散らかってる。洗い物、そのままだ。あと十分くらいかかると思っていたのに。見慣れた部屋でおろおろとする自分は情けなかった。エレベーター、混んでいればいいのに。部屋に散らばった生活感をどうにか見えぬように誤魔化してみるが、全てを誤魔化す前に光太郎はやってきた。玄関のドアの前で大きく息を吸って、吐く。どんな顔をすればいいのかわからなかった。ガチャリ、開ける。

「久しぶり」

マスクを外し、ニカっと笑った彼が眩しくてクラッとした。ごめんね、急に。そう謝りたかったのにやっぱり声が出なくて、代わりに涙が溢れそうになった。鼻の奥がツンと痛い。唇を噛む。俯く。

「……なまえ?」

したのに、シミュレーション。
ごめん急に呼んで。来てくれてありがとう。外寒くなかった?昼は暑いけど朝晩だいぶ冷えるよね。ていうかほんっと久しぶりだね、テレビ見てたよ、凄かったね、格好良かった。
そうやってサラッと、大人みたいに、言うつもりだった。でもここに居るのはさんねんいちくみのみょうじなまえなのだ。光太郎を前にすると、ぜんぜん、これっぽっちも大人になっていない私だ。

「すき、」
「すき?」
「ごめん、好き、好きなの。まだ好き。光太郎のこと、好き。おかしいよね、でも好きなの」

ごぽごぽ溢れて、留めておけない。こんなの、出会い頭に言うことじゃない。彼をリビングに招いて、温かい飲み物でも飲んで、別に興味もないバラエティ番組を流して、思い出話とかして、ふと目が合った時に言うことだ。わかる、わかるけど、ずうっと心の奥底にあったものが、こうして彼を前にすると、溢れてくる。何処に仕舞ってあったのか不思議に思う。どこにこれを抱えて生きてきたんだろう。自分でも全く、わからなかった。

「……それ、いま言う?」

知らない香りを纏った光太郎は、もうあの教室にはいなかった。私だけ取り残されていて、余計に虚しくて。とても自然に、ふわりと抱きしめてくれる。それに甘えて、彼の胸でしとしと泣いた。せっかく睫毛、上げたのに。無意味だ。シンクの食器を洗うべきだった。くしゃり、髪を撫でてくれる。指先が優しくて、もっと泣きたくなる。

「急に別れようって言われた時もわけわかんなかったけど、今もかなりわけわかんないね」

光太郎はひとりごとのように、譫言のように。
確かに別れを告げたのは私だったが、急じゃなかった。もっと大事にしてよを、いやらしく散りばめていたのに、光太郎が気付いてくれなくて、他の女の子と話すし、下級生からキャアキャア言われれば鼻の下を伸ばすから、嫉妬してしまったのだ。きっとこの感情は光太郎にはわからないだろうと諦め、自己嫌悪に陥る前に別れたのだ。一緒にいたら、惨めだから。キラキラ光る彼の隣に、私は不釣り合いだと思ったから。

「泣かないでよ、そんなつもりで来たんじゃないから」

手のひらが背中を摩る。とんとん、優しく叩く。そしてまた、優しく、とても優しく摩る。
呼吸が落ち着いた頃で、私は昔みたいに、悪態を吐く。

「どんなつもりで来たの、」
「どんなって……会いたいから来たよ。久しぶりに話したかったし、顔見たかったし」
「今更だけどごめんね。こんな時間に、急に、誕生日なのに」
「いーって。暇だったし、嬉しかったし」
「……うれしい、の?」
「俺もさぁ、何回か連絡しようと思ったんだよね。なまえの誕生日とか、テレビ出る時とか」
「……なんで、」

なんでって、そんなわかりきったこと聞く?なまえ、もうわかってるでしょ?
光太郎が私の頬を大きな手で包み、くいっと顔を上げさせる。パチっと目が合う。きらきらの瞳に吸い込まれそうで、また泣きそうになった。

「俺もまだ好き。すげえ好き」

そろそろ上がってもいい?
光太郎が困ったように笑う。何度か頷いてやる。そうすると彼は靴を脱いで、揃えて、私の手を引いて、また包んでくれて。

「あとさ、キスしていい?」

来て早々ごめん。
そう付け足されたが、謝らなくていいよと言う前に唇が重なった。

2021/09/20 title by bacca
happy birthday !!
May your future shine.