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「何でそんなキレんの」

肩を叩かれる。右耳のイヤホンを外して振り向いて、声も出せず。
暑くなってきた。五月の末、金曜日。明日と明後日がお休み。おまけに、コンビニエンスストアで生クリームがたっぷり使用されたスイーツをふたつ、購入した。ひとりでふたつを一度に食べてしまうのだ。小さな贅沢。そんな感じで、私は浮かれていたのだろう。今も昔も色褪せないラブソングが耳を擽る。三階、普段は健康のために階段を使用するが、今日くらいはいいだろうと思い、エレベーターを待った。これがいけなかったようだ。

「何でもないよ」
「何でもないってことはないでしょ」

四月から、新しい部屋で暮らし始めた。同棲をしていた、結婚寸前だった恋人と別れたからだ。結婚寸前だと思っていたのは私だけだったらしい。

「びっくりしてるの」
「久しぶりなんだからもうちょっと嬉しそうにしなさいよ」

無理難題を押し付けてくるスーツ姿の背の高い男。作ったような笑みを浮かべ、ヘラッと話す。

「同じマンションとはね」
「そうですね」
「うわ、日本とブラジルの距離感」
「え?」
「いや、他人行儀だなと」
「仕方ないでしょ、もう五年も会ってなかったんだから」
「引っ越してきたの?最近?」
「先月の頭」
「会わないもんだねえ」
「そうですね」

学生の頃に出会い、付き合っていた男だ。物凄く好きだった人。もう二度と会わないと思っていた人。それがいま、隣に立って喧しく話しかけてくる。不思議な感覚だ。理解できない感覚。同じマンションに住んでいるなんて、また引っ越しを考えなくてはならないのだろうか。うんざりする。もう、会いたくなかったのに。私なんか、彼に会わない方がよかったのに。

「仕事変わったの?」
「関係あります?」
「うわ、ひっどーい。流石に傷付くんですけどぉ」

鉄朗はケラケラと笑い、言葉とは裏腹に全く傷付いていない素振りを見せる。ちょうどその頃、到着したエレベーターに乗り込む。お姉さん何階?三階ですをくれてやる。え?俺も三階だよが返ってくる。思わず何の罪もない彼を睨み、大きなため息を吐く。

「そんな睨まないでよ、ため息もよくないねえ、幸せ逃げちゃうよ?ほら吸って吸って」
「……会いたくなかったの」
「いやまじで傷付くこと言うじゃん」

会いたくなかったの、本当に。会ったら甘えたくなるから。彼氏に振られたの、慰めてって言いたくなる。鉄朗は親切で優しい男だ。どんどん私をダメにするだろう。甘えても縋っても、包み込んでくれる。私はその熱が恋しくて、彼を求める、離れられなくなる。それなのに私は彼に何もしてあげられなくて、それが情けなくなって嫌になる。そんな感じだから、どうせダメになるから、早いうちに自分から別れを告げた。自ら絶ったのだ。だから再会なんてしたくなかった。心が、揺さぶられるから。

「なまえ」
「なに」
「今度普通に飯行かない?」
「……なんで」
「話聞いてほしくて」
「私に?」
「うん、なまえに」
「おかしくない?相手選びなよ」
「選んでますよ。昔から話聞くの上手いじゃない」

三階、ドアが開く。鉄朗がお先にどうぞと気遣ってくれる。私は彼の気遣いを放置し、小さな箱に留まってエレベーターのボタンを押し続ける彼の指を退ける。今度は私の指先で指示を出す。閉まる、を押す。

「鉄朗、明日仕事休み?」
「え、ハイ、休みですけど」
「この辺、美味しいご飯屋さんある?」
「定食……蕎麦屋もあるけど」
「お蕎麦がいい。いい?」
「え、あ、はい。今からっすか?」
「今から。だめ?」
「いや、いいんですけど」

まじで何でさっきからずっと怒ってんの?俺、なんかした?
鉄朗がぼやく。ごめんねと心の中で謝罪を。ごめんね、大好きだった人が突然目の前に現れて訳わかんなくなってんの。可愛くない元彼女でごめん。コンビニで買ったスイーツ、帰りにひとつあげるから許してね。

* * *


「話って?」

鴨汁蕎麦と天ざるを一つずつお願いします。
鉄朗が素朴で凛とした美しい女性に注文を告げる。私は沈黙が怖くて、彼女が去った途端に間髪入れずに言う。

「話?」
「話聞いてほしいんじゃないの?」
「うん、まぁ、そうなんだけど、そんな焦んないでよ」

おしぼりで手を拭く。俯いた彼をじいっと眺める。彼は学生の頃から大人びていたので見た目の変化はあまりないように思った。もちろん多少老けてはいるが、それは私も同じなのでいちいち突っ込んだりしない。

「なまえ、綺麗になったね。一瞬わかんなかったわ」
「……怒ってないから、機嫌取らなくて大丈夫ですよ」
「いや、別に機嫌取るつもりとかないですけど。まぁ昔から綺麗だったけどさ」

趣のある湯飲みに注がれた冷たいお茶をひと口。私もそれを真似た。返す言葉が見当たらなかったからだ。キンと冷たい。ぺたりとした身体が洗われるようだった。

「あ、たまご焼き食いたい。食べる?」
「え?」
「あれば食べるっしょ。すみません、追加で注文いいですか」

好き勝手話す鉄朗に、私は引っ掻き回されていた。緩められたネクタイ。暑さでお役御免なのだろう、ジャケットは椅子で休憩。捲られたワイシャツの袖、大きな手のひら。

「ねえ」
「はぁい」
「なんなの?」
「え?何が?怒んないでよ」
「怒ってない。鉄朗、なんか変」
「あ、バレました?」
「バレたって何が」
「俺がソワソワしてんの」

だって普通に一緒に居たいから飯行こうって言ったら来てくれなさそうだったじゃん。あ、話聞くの上手いって言ったのは嘘じゃないよ。
鉄朗はそう付け足して、ダサくてごめんねと謝罪を寄越す。どういうこと?聞きたかったが、聞けるはずもない。私もソワソワしているからだ。五年。千八百二十五日ぶりに向き合った男が、思っていたよりも格好良くてメイクも直さずに向き合っているのが恥ずかしくて、どうしようもなかったから。

* * *


「いや、だから何でキレてんの」

今度の理由は明確だった。鉄朗が、私が出した二千円を無視したからだ。「俺が誘ったから」と言ったが、記憶を辿れば誘ったのは私だったし、お蕎麦が食べたいと提案したのも私だった。どこをどう切り取れば自分が誘ったと捏造できるのか、甚だ理解しかねる。店員の前、会計でゴタゴタ揉めるのはみっともないと思い、一旦引き下がったが、店の外に出たら怒りがふつふつ込み上げる。ありがとう、ご馳走様と微笑むのが正解だというのに、私ときたら。

「お金」
「いいって。引越し祝い」
「……別に、祝ってもらうような事情で引っ越したんじゃないもん」

彼氏と別れて、それで仕方なく引っ越してきたの。
二千円を彼のジャケットのポケットに突っ込みながら言った。まもなく六月がやってくるらしい。初夏のようにカラッと晴れたり、まだ梅雨入りしていないというのにじめじめしたりと、空が様々な表情を見せる時期だ。今日はどちらかと言うと前者で、しかし、陽が落ちるとほんのり肌寒い。洋服を選ぶのが毎朝面倒な時期だ。

「よかった」
「……どこが」
「結婚すんのかと思った」

言葉を失い、戸惑う。よかった、どこが?結婚するのかと思った。この言葉のやりとりが何を意味しているのか、わかるようで、でもそんなはずはなくて。

「……鉄朗、まだ時間平気?」
「え、うん。何もないよ」
「部屋、こない?二つあるから、ひとつ、」

ようやく出番がやってきた、生クリームたっぷりのスイーツ。昨今のコンビニエンスストアはどこの誰と競っているのか知らないが、やたらとレベルが高かった。商品開発部の人間はさぞ苦労をしていることだろう。クオリティの高さにお礼を述べたくなる。

「…………こっち、貰っていい?」
「え、うん。いいよ」
「今日はやめとく。また会える?」
「……やめとくの?」

断られると思っていなかった私は、自分でもわかるくらいにしょんぼりしていた。振られることに怯えているのだろう。三ヶ月前に味わったあの焼失感が、まだたっぷり、身体の中に残っている。鉄朗はそんな私に気付いているのだろう。あぁ、違うよって、こちらを慰めて。

「まだ好きだけど婚約者がいるって噂の元恋人と再会して、その人が自分と同じマンションの同じ階に住んでるってわかって、一緒に飯食って、その上彼氏と別れたらしいし」

もう今日は大丈夫、その代わりまた会ってよ。愚痴聞く係で大満足なので。
鉄朗はそう言うと鼻歌なんて歌いながら夜の街を歩く。振り返って言う。携帯変わってないよね?私は黙って、頷く。

「鉄朗も番号変わってない?」
「え、俺の番号まだ登録されてんの」
「え、うん。あるよ、消してないもん」

あぁそっか、そうなんだ、よかった。彼が嬉しそうに、幸福そうに笑む。

2021/06/01