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「ごめん、急に」
「こっちこそ、すみません」

本当にいいの?黒尾に何度か聞かれ、なまえはもう全然、わからなくなっていた。社内恋愛なんて無縁だと思ってー…いや、まぁ、黒尾のことは格好いいなぁと若干色眼鏡で見ていたので、なんというか、そんな感じなんだけれども。付き合えたらなぁ、というファンシーな世界に住んでいたというのに、あっという間に部屋に現れたのだ。まだ夢の中にも出てきたことがないのに。というわけで、もちろん、どうなってこうなったのかよくわからないからひたすらに困惑するのだ。だいたい、部屋に異性がいるのだって久しぶりなのに、相手はあの黒尾さんなのだ。どうしたらいいかなんて、例え説明書があったとしても、それを隅から隅まで読んだところで「え?で?結局どうすればいいんですか?」なんて言いかねない状況なのだ、今は。黒尾の右手にはコンビニのビニール袋。差し入れ、と手渡される。

「アイス、」
「食べられる?」
「好きです、ありがとうございます」
「棚ガラガラでさ。本当は期間限定のスイーツみたいなのが買えたらよかったんだけど」
「そんな、お気遣いなく。どうぞ上がってください、狭いですけど…」

おじゃましますと、黒尾はお決まりの呪文を淡々と唱えるが、内心は結構ドキドキしていた。好きな女の子の部屋に来るのって、なんだろう、なんでこんなに、ドキンドキンと緊張するのだろうか。こういったシーンは何回か経験しているはずで、あんまりキョロキョロオロオロしないように努めているのに、上手く立ち回ることができない。気難しいことで有名な取引先に挨拶に行く方がまだ、慣れている気がする。

「なんの匂い?」
「匂い?」
「いい匂いする」
「…なんだろう、ルームフレグランスかな?でもかなり前に買ったやつだからもうほとんど匂いしないと思うんですよね」

大人になると適当に嘘がつけるようになって、嬉しいような悲しいような。でも、このくらいの小さな嘘だから許してね、と。女はそう思うのだ。黒尾がこの家に向かっている間、なまえはなまえで色々、やることがあったのだから。

「つーか、まじごめんね、急に」
「謝らないでください、その、…大丈夫、なので」

大丈夫って、一体全体何が大丈夫に当てはまるのだろうか。なまえは数十分前にお気に入りのボディミストを部屋に振りまいた自分を褒め称えつつも、もうそれどころじゃなくなっていた。さっきの電話を思い出す。黒尾が何をしにきたかは明快だ。好きだと、それを言いに来たのだ。たった、それだけのことだ。

「なんか飲みますよね、コーヒーでもいいですか」
「え、いや、…うん、ありがとう」
「ソファ、座ってください」
「うん、ありがとう」
「アイス、いま食べます?後にします?」
「アイス…は、後にします」

ゴールデンウィーク明けの仕事もこんな感じだった。しばらく休んでいたせいでいつもの造作ない作業に一瞬戸惑ったり、まごついたり、こんなもんだろうと思ってたらそんなもんじゃなかったり。黒尾もなまえも、恋愛は久しぶりなのだ。今年の十連休どころか、もう数年遠ざかっている。だから、この変な空気は当然のことなのだ。しばらく恋人を保っていれば、きっと勘を取り戻す…と信じる他ない。

「ブラックでしたっけ?」

なまえはその問いの答えを知ってはいるのだが、一応建前で聞いておく。予想通りの返事。自分もソファに腰掛けた。距離感がわからない。近いような気がするのだが、元々このソファが小ぶりなので仕方がないような気もするし、もっとこう、そばに寄りたい気持ちもあるのだがまだ聞けていないのでそんなわけにもいかず。沈黙を埋めるようにコーヒーを飲むが、沸かしたての湯は熱く、ちびちびとしか口に含むことができないからなんの役にも立たなかった。

「さっきの、」

黒尾がなまえの方を向く。なまえはそれに気付いているが、身体が硬直しているので向き合うことができない。向き合ったらなんだか、様々な感情が溢れ出してしまって自分の身体の中に留めておける気がしないのだ。だからそのまま、もちろん興味などない連続テレビドラマを眺めつつ正面を向いて「はい」と、聞こえてますよという意味合いで返事をしたが、それはあまりにも細い声で、結局、黒尾に名前を呼ばれて。

「あの、ちょっといいですか」
「…はい」
「こっち向いて?」
「このままじゃダメですか」
「…いや、いい。俺が動く」

黒尾はすっと立ち上がると、自分の隣で腰掛けていたなまえの正面にしゃがみ込む。困ったような、泣きそうなような、照れているような、色とりどりの感情を少しずつ持ち合わせた表情。なまえの瞳が黒尾を捉え、あっという間に逸らす。拒絶されているようで、男は笑わずにはいられなかった。なまえの足元で、黒尾は柔い声を出す。

「ねぇ、そんな嫌?」
「いやとかじゃ、あの、床なんか座らないでください」
「じゃあこっち見てください」
「そんな…だって、」
「はい、一分でいいから。お願い」

元々、黒尾はなまえの上司だ。指示に従ってしまうのは致し方ないことのように思う。ゆっくり、男の方に視線をやる。ぱちっと目が合って逸らしたい衝動。なのに逸らせない。何を言っているかよくわからないと思うが、なまえもこの心理の真意などわからない。自分の住み慣れた部屋と憧れの上司が視界に収まっている。違和感はたっぷりで、未だにこの状況が飲み込めなくて。

「好きだから、」

黒尾は五文字を迷いなく発したものの、その後は言葉を詰まらせ、時間にするとだいたい時計の秒針が半周するくらい黙って。頼れるかっこいい上司でいたいのに、好きな女を前にするとちゃんと頭が真っ白になるのだ。幾つだよ、と自分で自分を嘲笑う。

「ごめん、まじ…ちょっと待って」
「…何がですか」
「ここ来るまでに、なんかこう…いい感じの台詞考えてたのに全部飛んだ」
「え?」
「そんな真っ赤な顔されたら何も言えなくなるわ、可愛くて」
「…黒尾さんがこっち見ろっておっしゃったんじゃないですか」
「いや、そうね。これ言い訳だね、ごめん」

黒尾と食事に行くからってだけでシルキーなピンク色で爪を彩ったが、こうやって触れてもらえるなら幾らでも色を付けようと思った。マニキュアなんて塗るのが面倒だし落とすのも面倒だからあまり好きじゃないのに。指先が触れ合う。絡んで、キュッと繋がる。好きな男の体温はなまえにとってとても心地よいものだったし、もちろん黒尾にとってもとても良いものだった。

「いいな〜って思ってたから飯とか誘ってて…で、最近やっぱり好きだな、と」
「いいな〜って思ってらっしゃったんですか」
「らっしゃったんですよ」
「…ふざけてます?」
「え?いや、全然。結構真剣なんだけど」

約束の六十秒はとっくに過ぎ去り、アディショナルタイム。繋がった指先を眺めていた二人だが、黒尾が沈黙を破る。ねぇ、って女に声を掛けて、まだ頬が赤いままのなまえに、なんのひねりもない言葉を。

「ごめん、結局こんなことしか言えねぇわ。俺と付き合ってもらえませんか」

でも、それでじゅうぶんだった。だいたい、やたらと凝った言葉で伝えられたって反応に困るものだ。理解するのに時間もかからないし、わかりやすくてとてもいい。数度頷いて、よろしくお願いしますって言うので精一杯な女には、ちょうどいい愛の告白だった。

2019/05/19