恋愛ってこんなに難解だったっけ。スマートフォンに視線を落としながら、答えの出ない問いを自らに。しばらく恋とか愛とか、そんな生ぬるい世界から遠ざかっていたせいだろうか。短いメッセージひとつにひどく時間がかかってしまう。制服を纏っていた頃は、言えたのに。会いたいとか、好きだとか、声が聞きたいとか、するっとさらっと、言えたのに。
「もう家?」
「はい、いま着きました」
既読をつけたはいいものの、どの言葉を組み合わせて文章を組み立てたら良いのかわからず、そんなこんなしている間に着信。ちょうど部屋の明かりを灯したところだった。黒尾さんは、たまに私を食事に誘った。妹みたいでほっておけない。そう伝えられたことがあったが、それはつまり恋愛対象外宣言なのだろうか。確かに彼の隣にはすらっとした黒髪の、アイラインを長めに引いた背の高い美人がとてもよく似合うわけで、私なんて全くしっくりこないが、でも好きになってしまったし、この気持ちを何処かに投げ捨てる方法なんて知り得ないし。
「ごめんね、遅くまで付き合わせて」
電話越しにノイズが聞こえた。彼はまだ家に着いていないようだ。なんで電話くれたんですか?そう聞いたら「心配だからに決まってるでしょう」と返ってくることが簡単に予想できたので聞いたりしない。とんでもないです、と当たり障りのない本心を届ける。言いたいことはもっとたくさんあるが、どれを言ってもいいのか、言わないほうがいいのか、うまく判断できないから。
「楽しかったです、」
「本当?言わせてる感すごいんだけど」
おちゃらかすように彼は笑う。本当に本当のことなのに、うまく伝わらない。もどかしくて、じれったい。
「言わせてるなんて、…そんなことないです。本当に、楽しかったです」
「じゃあ良かった。ほら、なんか無理やり付き合わせてるんじゃないかな〜とか思っちゃって」
春から、社会人二年生になった。年度始めということもあって部署内のメンバーに若干の変動。黒尾さんは社内でも比較的有名…というか、目立つわけではないのだがなんとなく一目置かれている存在…みたいな。うまく言えないのだが、こちらに移動して来る前から彼のことはふわっと知っていて、でもちゃんと話したり目を見たりするのは初めてで、私は勝手にぐんぐん惹かれていって。絶妙な優しさを持った、フラットな人だった。連休前のドタバタとしたせっかちで喧しい空気もなんのその。後輩の指導もフォローも上手いのに上司のご機嫌取りもお手の物で、媚び諂うのもお茶の子さいさい。器用で、大体のことが平均以上にできる、そんな人だった。
「無理やり、じゃないです」
「嫌だったら適当に理由つけて断っていいからね」
「嫌じゃ、」
「ないです?」
「…はい、」
ちゃんと、見透かされている。つまり、だから、恋愛も平均以上に経験しているんだろう。たどたどしい私とは真逆の、一枚も二枚も上手な対応。年齢なんてそこまで変わらないはずなのに、なんでこうも違うのだろうか。
「じゃあ、また誘うね」
「はい、」
「眠い?」
「いえ、なんか、」
「ん?」
黒尾さんの言葉全部に、過剰に反応してしまう。彼が思いつくままに発している全てがまっすぐ積み上げられて、愛おしいって感情が募って。
俺、一緒に居たいと思う子しか誘わないよ?みんなに優しいわけじゃないからね。今度いつ時間ある?再来週は?俺もすげえ楽しかった。ごめん、声聞きたくなって…五分でいいから話せる?
今日までに彼がくれた言葉たちはどれも特別で、どれも愛らしい。物覚えが良いとは言えない私だが、こればっかりは全部を鮮明に覚えている。しかし、彼のことだ。他の女の子にも同じようなことを言っているのかもしれない。そう考えると、喉の奥がじくじくと焼けるように痛む。嫉妬という感情は醜くて汚くて悍ましいとわかっているが、「好き」と一緒にくっついてくるのだから仕方ない。多分、きっと、ハンバーガーとフライド・ポテトみたいなものだ。
「黒尾さんて、こういうの聞かれるの好きじゃないと思うんですけど、聞いても良いですか」
「何?すげえ気になるんだけど」
「みんなに言うんですか?」
「何を?」
電話だから、言えるのだろうか。それとも今日黒尾さんが連れていってくれたお店のワインが美味しかったからだろうか。そんなに酔っ払っていないと思っていたが、酔っているのだろうか。それさえも判断できないということは酔っ払っているのか。まぁ、もう、どっちでもなんでもいいけど。
「そういう、女の子をきゅんきゅんさせる感じの」
「きゅんきゅん?」
「きゅんきゅん、」
「俺と話してて、きゅんきゅんするの?」
「しますよ、そりゃあ」
「酔ってる?」
「わかんないです、もう」
酔ってるのかどうかも、黒尾さんが何考えてるのかも。
私がそう言うと彼は暫し黙った。静粛。街の雑音もなくなった。部屋に着いたのだろうか。なんで私は言わなくていいことを口走ったのだろうか。ぐるぐる、余計な感情が巡る。扉の閉まる音、彼の愛おしい声。
「好きな子にしか言わないよ」
「…ほんとう、ですか」
「本当です」
「本当に?」
「本当に本当」
「もう一回、言ってください」
「えぇ、どうしようかな」
「…ダメですか、」
「いや、言ってもいいんだけどさ…酔ってる時、記憶飛ぶタイプ?」
「…そこまで酔ったことないですし、いまもそんなに酔ってないです」
「じゃあちゃんと覚えててね。明日覚えてないとかナシよ」
忘れられるはずがないだろう。じくじくと耳が熱い。好きだよって、魔法の言葉が私の身体中にじわじわ溶け込んでいく。
「…つーか、ちゃんと言うわ」
「え?」
「行っていい?今から」
「…どこに、ですか」
「みょうじさんの家」
ダメ?って、今度は彼が私に問う。答えは決まっている。決まっているが、電話越しだ。声が出ない。頷いたってそんなこと、黒尾さんに伝わりやしない。
「…さっきも言ったけど、嫌だったら適当に」
「いやじゃ、ないです、」
「いいのよ、無理しなくて」
「してないです、私、黒尾さんのこと、」
「あぁ、いいから…じゃあ今から行くわ。着いたらまた連絡入れる」
「…わかるんですか」
「ん?」
「私が、何言おうとしたか、」
「あぁ、うん、どうだろう…ちょっと自惚れてるから、いま、俺、」
好きとかそういうのは、ちゃんと直接言いたいし聞きたいタイプなので。
黒尾さんはそれだけ言い残すと、静かに通話を遮断した。また、スマートフォンと睨めっこ…している場合じゃない。彼が今からここにやってくるのだ。干しっぱなしの洗濯物を急いで取り込んだ。
2019/05/07