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選択に追われている。いつだってそうだ。朝起きてこのままベッドから抜け出すか、それともスヌーズを使ってあと5分うだうだするか。朝ごはんをしっかりと胃に収めるか、簡単に野菜ジュースで済ませてしまうか。現代文の授業中仮眠をとるかとらないか、自動販売機で買うのは冷たいココアかいちごオレか。週末友人の誘いにのって今月ピンチなのにファミレスで身にならない時間を過ごすか断ってギスギスするか。
さてそして、この状況。如何なものか。そして選択はすぐそこまで迫って来ている。なぜならこのスマートフォンの持ち主は私から遠ざかってエスカレーターを上ろうとしているし、私が乗り込んだ車両に声が響いている。アナウンスだ、間も無くドアが閉まりますって。あぁ、もう、私って結構いい人なんだな、放っておけばいい。なんで乗り込んだ電車からまた駅のホームに降りて、すみませんって大きな声を出さなきゃならないんだろう。学校と部活おわって疲れているのに、なんで。

「すみません、あの、すみません」

襟ぐりが詰まったベージュのTシャツは袖がわりと長くてもう5センチ伸ばせば肘が隠れそう。そこになにか刺繍が入っていたが、私には何のブランドなのか全くわからなかった。いいやつなんだろうと勝手に想像して勝手に満足した。ブラックのパンツに同じカラーのローファー。ボストン型の眼鏡は伊達なのかどうかわからなかったがよくお似合いだった。おしゃれなお兄さんだ、なんの仕事しているんだろう。サラリーマンでないことはすぐに判断できた。

「はい、」

きょとん、とされていた。しかし私の右手に握られている己のものに気付いたようで。

「あの、これ」
「っ、え?それ、」
「電車の、席に、落ちてて、スマホないと困るだろうなぁと思って…」

シンプルなスマートフォンだった。なんの面白みもない黒のハードケースを着たそれを差し出してやるとお兄さんはあからさまに困った顔をした。同時にごめんね、という声が耳に届く。

「電車」
「え?」
「さっきのに乗って帰る予定でしたよね、」
「あ、はぁ、まぁ」
「すみません、僕のせいで」
「いや、こっちが勝手にしたことなんで」

あからさまに私の方が歳下なのに、丁寧な話し方をするなぁと感心した。かと思えば本当ごめんね、と見た目とは裏腹のとろりとした親しみやすい声も降ってきて、こちらもどう話したらいいのかわからなくなってしまうのだ。

「次の電車くるまで待ってるよ」
「いや、大丈夫ですよそんな」
「ううん、そうしたいからそうさせて。本当助かった、ありがとう」

あぁ、と思い出したように彼は鞄をあさり、紙切れを私に。怪しい人っぽいけど違うからねと冗談まじりに言った。私でもなんとなく知っている会社名は化粧品を取り扱っている企業だが間違い無いのだろうか。松川一静という名前がそこに印刷されていた。白い名刺にネイビーで。

「松川です、ありがとう本当に」
「…みょうじなまえ、です」
「なまえちゃん?」
「はい、」
「高校生だよね?」
「はい」
「大変だね、こんな遅くまで。部活?」
「そうです、」

盛り上がらない会話を絵に描いたような、そんな会話だった。何が好き?と松川さんはそばにあった自動販売機を指差して言う。財布を手に持っていた。

「そんな、私」
「何が好きって聞いてるだけよ?買ってあげるなんて言ってません」
「…ミルクティー」
「なるほどね」

ガチャン、ガコン。買うんじゃねえか、と口に出しそうになったが飲み込む。はい、と手渡されたそれを無言で受け取ってしまってモヤモヤした。ありがとうございますって言いたいのに、このよくわからない雰囲気とよくわからない彼に普段の自分を見失っている。

「スマホないの全然気付かなかった、どこにあった?」
「…松川さんが、座ってらっしゃったところに」
「隅の席のところか。立った時に落ちたのかな…ポケット入れたと思ったのに」
「そう…なんですかね」
「よくわかったね、俺だって」

勘だ、と言ってしまえばそれまでだが、私が乗り込もうとしていた車両から降りてきたこの人はよく目立っていたから。電車がついた瞬間、扉近くの席に座る彼は背も高いしがっしりとしていて、おまけに身につけているものがおしゃれで、もう1つおまけにいい香りがした。かっこいいお兄さんだなぁってそう思ったから。そんな単純明快な理由である。本人を前に伝えることでないと、そのくらいわかっているので伝えたりはしないが、それが実際のところだった。

「あの、」
「ん?」
「名刺、の会社って、」
「仕事?怪しいもんね、俺」

聞いてもいいのだろうか。そう悩んで問いかけたそれに対して、彼は自虐的に笑うから。そういうことじゃなくてと、咄嗟にフォローはいれてみたが、彼はそんなことを気にしている様子ではなかった。私のリアクションに左右されることなく、躊躇うことなく話してくれる。

「会社は化粧品の輸入輸出とか販売とか…製造も勿論してるし、俺はメインでショーとかコレクションとかの裏方かな。たまに店頭にも立つけど」
「…すごい、ですね」
「あはは、聞こえはいいかもね。そんなにすごくはないけど」

なまえちゃんは部活なにやってるの?休みの日は?今の高校生ってどんな音楽聴くの?
松川さんは見た目とは裏腹に、一切興味なんてないであろう私にたくさん質問をしてくれた。この時は緊張というか、気が動転していてその理由を考えるまでに至らなかったが、いまならわかる。すごく気を遣ってくれていたんだろうなぁと、そうわかる。1つクレームをつけるのならば、やたらにこちらをじいっと見て話すのだ、彼は。私は視線をどこへやったらいいのかわからず、うろうろと泳がせるばかり。そんな風にしているとアナウンス。間も無く電車が来ると、そういう趣旨のものだ。

「ごめんね、帰り遅くなって」
「いえ、数分なので…」
「駅からお家近いの?」
「はい、10分くらい」
「家着いたら連絡して。心配だから」
「え?」
「え?嫌?」
「嫌とかではないんですけど…大丈夫ですよ、そんなに心配していただかなくても」
「心配なのよ、なまえちゃん可愛いから」

どきん、と単調だった心臓が賑やかに3連符やスタッカートで演奏を始める。なに、可愛いって言われただけだし、松川さんはおはよう、おやすみくらいの気持ちしか込めてないって、それはわかるけど。彼の醸し出す妙な雰囲気に結構やられていた。慌てて立ち上がって扉の前へ。

「本当はお家まで送ってあげたいけど通報されそうだからやめとくね」
「誰もしませんよ」
「可愛い女子高生と俺みたいなおっさんが並んでたら結構やばいんだって」

けらけらと笑って、おやすみまたねって手を振ってくれる松川さんに疑問しかなかった。またねってなに?と思うが、それもすぐ解決する。あの人の声が聴きたくなった私は、帰宅してすぐに彼の携帯を呼び出す。「着いた?」と柔和な声が耳にとろんと届いた時に思ったのだ。もう一度だけでいいから会いたいと、そう思ってしまうのだ。

「あの、」
「ん?」
「ミルクティー、ごちそうさまでした」
「いいえ、こちらこそスマホありがとうございました」

もうちょっとお礼がしたいんだけど部活忙しい?そう問われてまた胸が弾む。とってもいけないことをしている気分だった。高校生活最後の夏は、ほんの少しだけ延長でお願い。

2017/08/30