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「やだ、待って、私、」

真っ赤な顔を見合わせる2人の心音がやかましくて、もう少しボリュームを抑えてくれよと言いたくなるほどだ。クレームが入ったって仕方ないくらい。

出会いは二口が月に一度くらい訪れる、おしゃれぶった空気をたっぷりと染み込ませたカフェだった。男は前々からここにはちょくちょく来ていたが、なまえの存在を認識したのは大学生になってから。二口は客で、冒頭で拒否の言葉を発したなまえは店員。出会った、というよりは顔を見合わせたという表現がしっくりくる。いや、二口が一方的になまえを発見しただけだ。本当にそれだけ。新人であるなまえは基本的には素朴で清潔感あふれるよくいる女だが、なぜかとても目に付いた。来店する度にじっくり彼女を目で覆ってしまう自分に二口だってもちろん気付く。声をかけないと後悔するなって。そんな恐ろしさから突然話しかけてみた。ニコリとマニュアル通りの笑顔を見せつける女に、一人きりで来店した二口は言う。何時までですかって。少女漫画かと思うだろう?そう、二口は意外と、ロマンチックなのだ。

「当店の営業時間でしょうか」
「お姉さん何時までいるんですか」
「…私、ですか」
「はい」

二口もわかっていた。自分の方が年下で、おそらく彼女はここで働き始めたばかりの社会人だろうと。そんな人から見たら大学生の自分は恐ろしいほど子供っぽく見えるに違いない。相手にされるわけもない。捨て身でアタックしているが、なまえはなまえでどきりとしていた。余計なことを話さない二口は、それなりに顔の整ったいい男だから。おまけに少々俯いて頬を綺麗に染めている。大抵の女がクラリときてしまうだろう。二口は自分の顔の点数が平均を悠々と越えることは自覚して生きているが、この時ばかりはそんな意識など微塵もない。リップグロスでちゅるんとドレスアップされた唇が動くのを、今か今かと待ちわびるのだ。

「あと、2時間くらいです、18時までなので」

怯んだら負けだ。「あの」とか「その」とか、狼狽えても負けだ。そうわかっている案外オトナな二口は間髪を入れずに言う。待ってますって。待っててもいいですか?とか待たせてくださいとかじゃなく、勝手に決定事項にする。必死な男は、格好をつけることをしなさすぎて逆に、かっこよく見えた。少なくとも恋愛経験皆無ななまえには、相性がいいようだ。

「…なんで、ですか」
「お姉さんのこと気になるんで」
「なんで、」
「そんなに追求されても困るんですけど」
「あっ、ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいです別に」
「…連絡先、」
「え?」
「あの、連絡先教えてもらえませんか?待たせるの申し訳ないので、改めて連絡します」

真っ当な対応。あぁもうと焦れったくなったし、周りの視線が集まっているのを感じてもうギブアップ。やり切れなくなり提案。少々早口なのは単純に焦っているからだ。

「…お姉さんの連絡先教えてくれませんか。俺、本気なんで」

店内は混雑していない、人がいないわけでもないが土日や祝日に比べれば閑散としている。新作のフラペチーノが発売されていないからだろうか。なまえはぐいぐいと言葉を返してくる二口に戸惑っていたし、単純なのでドキドキもしていた。本気なので、か。本気だったらこんなナンパまがいのことをするだろうか。ううん、多分二口は本気だから、ナンパをしたんだ。縮まらない距離に苛立って、客と店員というありふれた関係に腹が立って、どうにもならない想いを抱えてここでこうして声をかけている。どう考えても恥ずかしいので他者からの視線はなるべくシャットアウトしている。もちろん全ては捨て切れないけれど。気にしたら負けだから。

「だってお姉さん、俺が連絡先教えても電話くれないかもしれないから」

必死そうな二口になまえが母性みたいな何かをくすぐられたのも事実。11桁の羅列した数字を二口に向け唱えると男は満足そうに笑って。

「ありがとうございます、19時頃連絡しますね」
「…はい」
「俺、二口堅治って言います。ハタチ。すみません順番おかしくて」
「ふたくち、くん」
「仕事中にすみませんでした。またね、なまえさん」

ひらひらと大きな手のひらが揺れて、唖然としている間に仕事は終了。二口は19時を5分すぎた頃、ものすごく緊張しながらなまえに電話をかけたし、19時になる5分前から携帯を握りしめていたなまえはものすごく濃密で心臓に悪い10分間を過ごして電話に出た。そんな2人が付き合うのに、たいして時間はかからないものだ。そしてこのシーン。

「…ダメ?」
「だめ、じゃないんだけど、待ってよ」
「待つってどんぐらい?5分くらい?」
「わかんないしそういうことじゃない、とにかく待って」

彼が来るとわかっていたから、なまえは一刻も早く仕事を終えて家に帰りたかったのに、こんな時に限って残業。キチンと定時で上がれるようにいつもよりも1日のスケジュールをしっかり組んだというのに。神様を恨んだってどうにもならないことはわかっているが、最後に来たやたらに上から目線で注文の多いお客と帰り際になって「そういえば相談したいことがあるんだけど」と話しかけてきた上司のことを恨むのは許してほしい。そうでもしないと、やってられないから。付き合ってだいたい1ヶ月が過ぎた。初々しいなまえと二口は、控えめに言ってもとても可愛らしいのだ。今だってなまえは顔と言葉遣いの美しさが比例しない男のことばかり考え胸を弾ませながら家に向かっているし、その比例しない男は愛しい女の家の前でしゃがみこんで帰りを待っていた。お留守番を頼まれた5歳児のように、いつ帰って来るのかなぁと不安げな様子だ。合鍵が欲しくてたまらないが、まだそんなことを発言できる立場じゃないと、結構冷静に、客観的に自分を分析できるらしい。

「ちょっと唇くっつけるだけじゃん」
「…もう、そんなこと言わないでよ。私の方が年上なのに恥ずかしいじゃん」
「俺も恥ずかしいって」
「嘘つき」
「嘘じゃねーし」

おかえりって笑った二口に、なまえはごめんねと何度も謝る。ごめん、ううんいいよ、ごめん、仕事でしょお疲れ様って、可愛らしい二口はそこまで。鍵を開けて部屋に入るやいなやぐっと迫られる。社会人1年目のなまえの部屋はほどほどにコンパクトだ。もちろん玄関も同様。壁に追い込まれるような状態だがそこまで、狼狽えない。毎回こうだから。もうお決まりのパターン。キスがしたくて仕方ない二口と、それが恥ずかしくて仕方ないなまえ。非常にハッキリとしたコントラストだ。男子校から解放された二口なんて、煩悩の塊なのだ。仕方ないしやむ終えない。ちょっと唇をくっつけるそれが、したくてしたくてどうしようもない。

「まだダメ?」
「…1分くらいしか経ってないよ」
「なまえは俺としたくない?」
「っ、その聞き方ずるいよ…」
「何とでもどうぞ」
「だって私キスなんかしたことないもん」
「うるせぇな俺だってねぇよ」

だからするんだろってそう言ったところで男の瞳と女の瞳が互いを捉える。なまえもそんなに賢いわけではないが察する。逃げられないなって。二口はゆっくりのんびり距離を縮めている…ように見えるが目の前で顔を真っ赤にした大好きな女が少し震えながらギュッと目を閉じているのだ。あ、やばい、可愛い。そう思ってずっと眺めたくなってしまう。実際もう欲望の赴くままなのでしばらく眺め、そうしていると下唇を舐めたくなって、ほら。舐めたいなぁと思った数秒後には実際にそうしていた。当たり前だが驚いたなまえは目を見開いて可愛い声を出す。二口はもう何だか、色々諦めていた。理性にサヨナラを告げる。

「…いま何したの、」
「キス」
「キスじゃなかったよ、なんか」
「したことねぇくせにわかんの?」
「…それは」
「わかんねーんだろ?」

じゃあもう一回。
やっぱり、この二口という男は嘘つきなんだ。もう一回と言いながら数え切れないくらいに、狂ったように口付けを落とすのだから。酸素を求め、目にたっぷり涙を溜める女の口元はご自慢のリップグロスではなく、どちらのものかわからない唾液でいやらしく光り、それはもう、とても、綺麗だった。

2017/06/08 title by 草臥れた愛で良ければ