無糖ラムネソーダ


いつもより湿気の酷い朝だった。噴出すような汗がシャツを濡らし、全身に纏わりついて気持ちが悪い。シャワーでも浴びようか、そう思いながら携帯に手を伸ばして驚いた。画面に表示される『08:05』。

「〜〜っうそだろ!!」

思わず声に出して急いで携帯をベッドへ放り飛び起きた。この時間だとシャワーどころか朝飯だって食べている暇も無い。一気に覚醒した脳は俺の足よりも早く動いているようで、どうにかして8時15分までには全ての支度を終えて玄関で待機する計算式を叩き出す。といってもただ動くだけなんだが。ハンガーで引っ掛けていた制服を引き抜き、音を立ててシャツを羽織る。急ぎすぎて縺れる手で慌ててボタンを留め、スラックスに手を伸ばしたところで家に響くインターホン。しまった間に合わなかった。
何故なら今週から、

「静雄ー!きたぞー!」

門田が、来てくれるから。


夏休みの最難関、課外授業。俺の学校では期末考査の点数が悪かった者のみが夏休みに課外授業を強制受講される。国語と数学と英語の3教科中、俺は全教科受けなければならないのだが、門田は数学だけ。頭が良いように見えるけど、本人曰く理系は苦手らしい。まあそれでも俺よりも出来ているのは確かなんだろうけどな。
数学は一時間目。夏休みだと言うのにいつも通りの時刻に登校しなければならないのが面倒だ。せめて国語や英語だけならもうちょっと遅寝出来ると言うのに。しかも参加しなければ単位をくれないというのも卑怯だ。いや点数が悪かった時点で単位が危なかったのは事実だから、むしろ救いではある。だから8月に入るまでには俺は寝坊をしないで毎日学校に来なければならない。出来るかどうか悩んでいた時に、『門田君が毎朝俺の家に来て一緒に行ってあげれば』と眼鏡の馬鹿が提案してきた。それが事の始まりだ。

「わり、遅くて」

「いやまだ間に合うからゆっくりで平気だ」

「まじか」

「まじだ。良かったな。だからこの間みたいに汗だくで駆け込む必要はないぞ」

食パンを銜えてぼろぼろになったスニーカーを履いて駆けだそうとする俺の腕を引いて、苦笑しながら制止しようとする。

「ってそういえばシャワー浴びてねえから腕掴むな!汗やべーから!」

「いや俺も手汗酷ぇからな〜てか女子かよ」

「だっ…て…!!!」


そりゃ好きな人に触られるならこんな汗べったべたの状態じゃ嫌だろ?なんて、死んでも言えるわけがない。門田には、永遠に内緒にするつもりなんだから。
じりじりのくそ暑い中、門田と普通に登校するこの僅かな時間が俺は大好きなんだ。

「食パンだけって腹減らないのか?」

「でもこれしか無かったし…3時間目までもたないのは承知で」

「不健康だな。伸び盛りなのに」

「門田って親みてーな」

「お前な…心配されてることに気付け」

再び苦笑され、腕から手を離される。掴まれたところから熱を帯びて、変な気分になった。

特に何をするわけではない。ただ門田が俺の家に迎えに来て、そのまま歩いて教室に向かって、終わり。それだけの毎日。勿論数学の課外が終わると門田は帰ってしまうからそれが1日の中で一番悲しくて、でもまた明日も会えることを考えると少し嬉しくなる。この連鎖が俺は好きだった。特別なことなんて何も無くて良い。日常が、俺の幸せ。




「門田…ごめん、ここわかんねえ…」

数学の授業が終わり、門田は帰るために鞄に教科書を詰めていた。その時を狙って、俺はいつも門田に先ほどの授業の質問をする。分からないから半分、少しでも帰したくないていうのも半分で。下心満載だ。ずるいよな。そんなこと分かってる。

「…あー、ここは最後にxとyを代入して方程式をすれば解けるぞ」

「…!そういえばそんなのもやったな!」

「おお、覚えてるじゃないか!方程式から教えていた努力が実ったな」

「門田のおかげで数学できるようになったかもしれない」

「ははは…あ、じゃあそろそろ国語始まるっぽいし、またな。明日の小テスト、勉強忘れんなよ」

「……おう…また、明日」

「居眠りすんなよな」

「うっせーよ」

次の国語の授業の準備をする頃に、窓から門田が歩いて門から出て行く姿が見える。わざわざ引いているカーテンを捲って、その背中を食い入るように見つめてしまう。こうしてずっと見ていても門田は振り返ることはない。ここは2階なのもあるし、上を見ない限り気付く筈がない。俺はずるいからこういう方法でしか門田をずっと見ることは出来ない。日差しで視界が妨げられて目がチカチカしてくる。日常が好きとか言いながらも、いつか一度で良いからこの隣を歩いて帰りたい。そんなことを考える気持ち悪い思考の自分に泣きたくなった。心臓の奥が何かが詰まったように苦しい。ほんと、馬鹿みたいに、好きなんだ。
なのに行動も何も起こさない、ただ黙って傍にいて、勝手に満足する。門田は俺のことただの友達だと思っているだろうけど、その隣で俺はー…気持ち悪いよな俺。こんなに俺に好かれてるだなんて気付いたら、迷惑だと思うに違いない。だから、これ以上何も望んではいけない、のに。

「……またな、京平」

小さく呟くと、まるで聞こえてしまったかのように門田が振り向いて、こちらに手を振ってくれた。
嬉しい筈なのに目頭に熱が篭り、ここが教室だというのに涙が零れた。泣いていることを誤魔化す様に大きく手を振り返す。

明日も明後日も会える筈なのに、苦しくて苦しくて仕方ないのは、なんでだろうな。





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企画さまに提出した門静をちょこっと手直ししました