殴られるのは嫌いだ。
 まあ勿論殴られるのが怖くない奴はいても、好きな奴はそうそう居ないだろう。身体はかなり丈夫な方だが、警棒でここまでしこたま殴られては流石に参ってしまう。口の中の違和感を吐き出したら、奥歯が血だまりにひとつ落ちた。あーあ、と眉を下げて溜息をつく。
 頑強な鉄格子の中、石の床を眺めてぼうっと手足を刺す寒さに集中する。ぽた、と落ちる血だけが妙に暖かく、殴られた頬はまだ火のように熱を持っていた。

「さて、どうしようかな……」

 今回の敵はそう簡単ではない。
 ある看守が―――それも数週間前まで自分のヘビーユーザーであった看守が、突然反薬物委員会でも発足したのかというほど自分を攻撃し始めたのである。「手のひらを返す」とはこのことだ。あの手合いにいくら札束を積んでも無駄なことだろう。金で解決できない相手は厄介だ。

 幸いなことに金も「商品」も無事なようだが、それが彼の折檻をさらに加速させたというわけだ。独房の中でご丁寧に手枷まで付けられて、ああきっと今が人生で最悪の時間だ、とオペラ座も真っ青な嘆きを零した後、自分の声に笑ってしまった。柄じゃない。

 まあ仕方がない。
 暫く大人しくしていようと壁に背中を預けていると、階段を下りる硬い靴音がゆっくりと近づいてきた。
 湿った紺青の闇がこびりついた石壁をランプが照らす。そのシルエットがあの警棒を振るうのが大好きな看守ではないことに気付いて、ハルイチは思わず鉄格子に芋虫のように身体を近づけて喜んだ。

「そこにいるのは神父サマ?」
「ハルイチ!」

 オレンジ色の眩しい明かりに照らされた顔に、神父はぎょっとして鉄格子にすがり付いた。東洋人特有のスッキリした彫りの浅い顔は、傷と腫れによって見る影も無い。火傷にも未だ乾かない血がてらてらと光っていて痛々しい。悲鳴を噛み殺すような表情に、思わず男は苦笑いをした。

「そんなにひでぇの?」
「酷いなんてものじゃない!ああ、可哀想に」
「あらら、泣くなよォ」

 神父の頬から零れ落ちたものを、動揺に細かな光が照らしている。全くこの男は、いつからそんなに俺のことを心配してくれるようになったんだろうか。そう仕向けた本人であるハルイチは、手錠のついた汚れた両手を鉄格子に向けて伸ばす。

「こっちおいで」
「……平気なのか」
「ヘーキ、ヘーキ」

 手錠の鎖はガシャンと一本の鉄格子に阻まれ、狭苦しい体勢で両手が神父の頬に触れる。泣くなよ、ともう一度言うと、頷きとともにまた一粒落ちた。全く世話が焼ける男だな。

「今にも死にそうなところだったが、こうして神の使いが来た。俺の命運はまだ尽きてないってことだよなァ」
「……傷が痛むのか」
「もうどこが痛いのかも分かりゃしねえよ」

 濡れた瞳がチラチラと炎を照らす。輝きを取り戻したはずの彼の黒目は、盲目さながらに自分だけを見つめる。薄暗いこの独房こそ楽園とは、全く皮肉なものだ。幸福を見つけられたのは誰なのか。全くこんな未来は神様も予想しなかっただろう。
 隙間からどうにかこうにか唇を合わせ、鉄と錆びの情緒もクソもないキスをする。

「頼んだぜ、エンリコ」

 とびきり柔らかな声で紡がれる、名は麻薬よりも悦楽を含んだ毒の罠だ。男はゆっくりと頷き、口元に滴った血潮を眉を潜めて拭った。

「私は便利屋じゃあないんだぞ」
「でも、やってくれるだろ?な、君しかいないんだよ」
「……君は卑怯だ」


 それは君もご承知のとおり。



end




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