一体何時からだろうか?
 気付けばもう既に甘い香りが衣服に染み込み、肌にすら馴染んでいる。常に纏わりつくそれは、エンリコ・プッチが自分の異変に気付いた頃にはすっかり取れなくなっていた。

 例えば聖書を読んでいるとき……囚人の「罪の告白」を聞いているときも、食事のとき、ベッドに身体を横たえるときもそうだ。微かにではあるが残る香りに頭が囚われる。その事実に気付いてから、プッチは寝床で香を焚く習慣を断っていた。
 「天国へ行く方法」。
 自分の力が必要だと彼に教えられた方法は、一冊のノートに記されていた。1989年の遠いエジプトの地で失われた使命を取り戻す、それこそが自分の天命であるのだ。

 なのに今になって。
 闇夜が恐ろしいと、子供のように毎夜震えているなんて。用意されたベッドから見える窓から、ある時は石壁の隙間から後ろ暗いものが押し寄せてくるように思えるだなんて、臆病なティーンエイジャーではあるまいし。
 教誨師としての仕事は確かに果たせている。必要なのはただ運命を待つことだ。だがここにきて、自分の決意は揺らいでいる。ただ待つことしかできなかった20年間すら乗り越えてきたというのに、夜眠りにつくまでの時間を永劫にすら感じる。澱みが生まれたのだ。

 思い当たる原因は一つしかない。


「やあプッチ」
「……やあ」
「前買ってくれた香はどうかな。気に入った?新しいのを持ってきたんだけど」

 とん、と軽い音を立てる。
 すっかり彼の姿が馴染んだこの懺悔室で、プッチは幾度となく香を買った。しかし前回購入したそれは殆ど使われることなく、キャビネットの奥深くへと仕舞われている。ほんのりと香る嗅ぎ慣れた匂いに、殴られたように頭が揺れる。
 背の高い男が、神父と視線を合わせるために少し屈む。左目を覆う火傷。黒のドレッドヘアに、東洋人の容姿。倒錯する。若く美しく、しかしまるで何百年も生きているかのような風格を持つかの親友とは、似ても似つかないはずだというのに。

 ―――ああ、DIO!

 神父が死者に囚われるなどと、人は笑うかもしれない。それは或いは冒涜と呼べるのかもしれない。しかし彼の言った「天国へ行く方法」がどうしても知りたいのだ。喉がひどく乾く。舌が咥内で張り付いて動かない。全てを覚悟して生きること。それは幸福に違いない。予期せぬ親しい者の死は人の心を蝕んで絶望に落とし、弔うことすら忘れてしまう。一つの綻びもない、強固な意志だったはずだった。
 だがこの穏やか極まりない時間を過ごすとき、プッチは今は亡き親友を強烈に思い出しながら、その深淵でドロリと白く濁っていく感覚すら味わっていた。

「プッチ?」

 彼の声がする。
 聞きなれた煙草でしゃがれた低い声ではない。それは心の隙間に冷たく寄り添うような、それでいて酷く甘い、深い安心を約束するような声。思わず瞬きを繰り返して、目の前の光景に戦慄いて震える。

「プッチ、具合でも悪いのか?」

 そこには微笑む親友の姿があった!
 思わず額に手を置き、突然苦しくなった呼吸を懸命に繰り返す。いいや、と笑い返して見せようとして、代わりに涙が頬を伝う。何故だ。ああ。君は私を咎めているのか?それとも許そうというのか?切迫した心が次から次へと頬を滑り落ちて止まらなくなる。
 白く透き通るような手が、傍に来て背を擦る。熱を持った身体に彼の肌は冷たくひんやりとしていて、労わるような仕草に袖を濡らす。

「横になるか?」
「いいや、いいや、ああ、すまない、違うんだ……何が変わってしまったのか分からない……私は……」
「良いんだよ、プッチ。君は何も悪くない。苦痛には耐えられても、幸せは我慢できない――人間ってものはな」

 「幸福」を覚悟することはできるだろうか?ではそれを失うことは?
 白と黒が頭の中で交錯する。涙で滲んだ視界で黄金が揺れる。苦しげな嗚咽が肺呼吸を侵し、何か言い知れぬ不安が、神に捧げたはずの身体を支配する。神父はすぐ傍にあるものに縋るように震える手を伸ばした。

「寒くてたまらないん、だ」
「震えてるな。可哀想に」
「香を、焚いてくれないか、頼む……」

「ああ、もちろんだとも!」

 火傷男が満面の笑みを浮かべる。
 友の頼みごとを快く受け入れ、慣れたように香に火をつける手指は日焼けしている。甘い香りが広がった瞬間に、神父の表情に安堵が広がった。けれど涙が止まることはなく、目を閉じて、されるがままに揺られる。まるで手を取ってダンスでも踊るように神父を慰める、男の顔は愉悦に唇を吊り上げていた。
 


 ―――彼は夢を見ている。

 死者に囚われ、自らが作り出した亡霊に執着するのは、紛れもなく香に混ぜられた薬による幻覚症状。正気を失い、過去の幻影に縛られ、自ら快楽を所望した彼はもう立派な中毒者(ジャンキー)になってしまった。
 禁欲の楔を胸に刺す神のしもべも薬をやるのか?最初にハルイチを突き動かした好奇心の種は、やがて哀れな神父の中で見事に芽を出して花を咲かせる。そうして彼の与える水を吸って、時間をかけて腐っていった。


 神父が再び男の元を訪れたのは、それから三日後のことだった。

 



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