粗雑に積まれた書類の中から、一枚の写真が床に落ちた。
 その中で一人の東洋人が、まるで家族で記念撮影をする際のような、気楽な笑みを浮かべている。テレビのリモコンを操作しながら、ポケットに札束を詰め込んだ看守は、その写真と書類にライターで火を付けた。
 ジジ、と紙の焦げる匂い。籠る煙を吸うと、看守は途端にすこぶる気分が良くなった。そして鼻歌でも歌いそうになりながら、変わり者の囚人のことなどすっかりと忘れてしまったのだった。


▲▼


 囚人番号はMA40011、罪状は強盗。2009年に一度収監された時よりも桁がひとつ増えている。撮影の際、持たされたプレートに書かれた氏名は、二度目の収監で男が札束と引き換えにつけた名前だった。しかし結局あまり気に入らなかったのか、現在はハルイチ、と名乗るようになっている。冷たい鉄と石の牢獄にいながら、彼は"シャバ"にいる時よりもずっと自由に生活していた。

(やっぱ「水族館」はいい!)

 ここは確かに檻だが、見ようによっては鉄壁の城である。外で危ない組織を敵にしながら商売をするよりは、安全な上に買い手も多いここ「G.D.st刑務所」を拠点にするほうが冴えている。そのことに気付いてから、男がここに飛び込むまでそう時間はかからなかった。
 ここは彼の好む人間の吹き溜まりなのだ。
 欲しいままに与えられる幸福に、すぐに飛びつくような人間。疑り深い者でも一度甘い薬の香りを嗅げば、自ら金を抱えて傅かずにいられない。勿論薬に手を出すのは全く「賢い」ことではないが、聡明な人間が幸福を得るとは限らない。だから男は愚かさそのものを愛し、共存することを望んでいた。


 だから、ということはないが。
 欲を律して自らを縛り付ける宗教家は、ハルイチという人間と対極に位置する者と言っていいだろう。太陽に透けるステンドグラスだけならば、単純に美しいとは思うけれど。
 礼拝堂には似つかわしくないサンダルの底が、よく磨かれた床にペタペタと気の抜けた音を立てて進む。大きな十字架の下に跪く黒衣に、まるでやっと気が付いたように白々しく目を丸くした。

「神父さん、気分でも悪ィの?」
「………ああ………いや、」

 ぽた、と顎から雫が落ちる。
 視線が虚ろなのに気付いて、これは深刻だなとハルイチが片眉を上げる。苦しげに上下する喉を見て、「気の毒だな」と考えたのは決して嘘ではなかった。
 自然に腕を取られ、背中を労しげに叩く手に神父は一瞬身体を固くしたが、すぐ腰掛けに凭れさせられて身体の力を抜いた。浅黒い肌にはじんわりと汗が滲み、閉じた瞼は疲労からか震えている。

「君は……囚人か?」
「酔ってる間にやらかしちまったみたいでね。金はあるから少々は勝手をさせてもらってる……顔色悪いなァー、ヘーキ?」

 浅い呼吸を横目に、男は礼拝堂の燭台を一つ拝借した。それからあれでもないこれでもない、とポケットから片方だけのピアスやら、コインやら……たっぷりと布を使ったズボンにはまだ何か入っていそうだ。
 視線を感じてハルイチは少しばつが悪そうに笑い、一等深いところから細長い箱とライターを取り出した。

「……ここは禁煙なんだが」
「分かってる分かってる。そんな野暮なモンじゃねえよッ!ホラ、いい感じだろ」

 男の手元では、銀色の燭台に薄茶色の香が焚かれていた。彼の故郷のものなのだろうか、細長い円錐の形をしたそれは彼には馴染みのないものだった。
 朦朧した意識の前に、ほんの少しの煙と、森林や木々に近い香りが漂ってきた。しかしさほど強いものではなく、柔らかみと深みが伝わる。すっきりと呼吸が清々しくなり、深呼吸のあと天井を見上げるように瞳をゆっくりと開けた。
 ステンドグラスから降ってくる光を、薄く微笑んだ背の高い男が遮っている。神父――エンリコ・プッチの胸には不思議な幸福感があった。

「……ありがとう」
「ン?」
「だいぶ気分が良くなった」

 男は少し目を丸くしたあと、胡乱に笑って向かいに腰掛ける。逆光で見えなかったが、男の顔には左目を覆うぎょっとするほど酷い火傷の跡があった。瞠目したプッチを気にすることなく、むしろ人差し指を眼前に立てて顔を近づけ、目だけは商売人の強かな光を帯びる。

「初回限定サービスだぜ、神父さん。商品なんだ、次からは一本からお代を貰う」
「……なるほどな、君もしっかりここの住人らしい」
「タダほど高いモンはないだろ?ま、今日は本当に体調が悪そうだからってことで」
「ふふ、有難く受け取っておくよ」

 男の軽口を受けながら、神父は深く椅子に身を沈める。堅い木の感触はあたたかみを帯びていて、漂う香りによく合っていた。プッチが再び瞼を閉じるのを見て、ハルイチは目を愉悦に細めた。
 最初ただ、禁欲の楔を胸に刺す神のしもべも薬をやるのか―――それだけが彼の興味を引いたのだ。心底からリラックスしたような表情に、喉から溢れだす笑いをかみ殺すのに必死だった。

(あんた素質あるよ、神父さん)

 何かに縋るという点では、なるほど似通っているのかもしれない。
 結局、あれは涙だったのか違ったのか、男は確かめることをしなかったけれど。


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