時計の針が深夜の12時を指した瞬間、「水族館」に鐘が鳴り響いた。後ろ頭だけで音を聞きながら、汚らしい差し歯の男から金を受け取る。結局のところ一晩に及んでしまった取引は男の清々しい笑顔で終わりを告げた。
 消灯がとうに過ぎた深夜、豆電球がぼんやりと照らすだけの暗い石の廊下を、ラフなサンダルが機嫌のいいスキップで歩きだす。そして朗らかな気分の中で彼はふと、果たされなかった昨日の約束を思い出した。

(ま、さすがに帰ってンだろ)

 抱えていた在庫も処理できた、金払いも上々、新しい顧客もできて万々歳。順風満帆とはこのことだ。一瞬浮かんだ懸念を忘れ、鼻歌混じりで通り過ぎようとした礼拝堂になぜか揺れている蝋燭。弾んでいたドレッドヘアが止まる。
 いや、そんなまさか。
 ハルイチが予感に駆り立てられて覗き込むと、そこには見覚えのある人影が、端で本を広げていた。

「マジ?」

 届いた声に男が振り返る。「遅かったな」と、普段と全く変わらない声色は凍えて白い。黒い瞳には非難するような色はなく、いかにも嬉しそうに微笑んで不誠実な男を歓迎した。
 その視線にハルイチは一気に居心地が悪くなり、煙草のフィルターを噛んで笑った顔をやや引き攣らせた。サンダルをペタペタとだらしなく引きずって歩み寄る、その速度はいつもより少しばかり早い。

「プッチさあー……」
「いや、大体想像はつく。馬鹿だと言うんだろう?別に意地になっていたわけでもないんだが、ただ、特に予定もなくてね……」

 教誨師が暇なものか。
 刑務所に勤める職員には休みなどというものはほとんどない。いつ何時トラブルが起こるかも分からない―――よりにもよって約束を破ってここに来た男を、下手な言い訳までして何故こんな寒い礼拝堂で長々と待っていたのか、その答えを彼自身持たないようだった。
 ページを捲る指は寒さにぎこちなく震える。なんじゃそりゃ、と言った声がいまいち茶化すことに成功していないことを自覚し、ハルイチは溜息をついて無造作に隣へ腰を下ろした。

「正直に申し上げます」
「ああ」
「忘れてたわけじゃあないんだぜ。ただ、まあ、とってもオイシイ話があってさ〜……」
「そんなことだろうと思った」

 プッチは怒りもせずに軽く呆れたように笑った。それは罪悪感などではなく、しかし注がれる視線の真意を考えただけで彼の虫の居所を悪くした。わざとらしく溜息をついたあと、礼拝堂は禁煙であることを思いだして煙草を握りつぶした。
 ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎は肌に熱を移すことはない。馴染まないオレンジ色の光をつぶさに見つめながら、ゆっくり口を開く。

「俺の約束を、待たなくていいよ」
「そうか」

 でも私は待つよ。
 真っ直ぐに向けられた無条件の「信頼」の類(たぐい)に、火傷のある左瞼がピクリと引き攣った。見せるべき笑みの種類を間違えたわけではない。ただこれにはさすがに札付きの百舌も参ってしまって、いつもよりも無理に軽薄にあげた笑い声は滑稽だった。

「大事な神父様を風邪ひかせちゃ、神様に悪ィしなァ」
「君は無宗教なんだろう?」
「ああ〜〜!!悪かったよ、もうすっぽかして破らないって、なあ」
「そんなに必死にならなくてもいいだろう?君に比べたらほんの、イタズラ程度だ、ふふふ」
「ひっでェ」

 褐色の手指が本を閉じる、横顔には楽しげな含み笑いが浮かんでいる。その表情にガックリと首から俯いて項垂れ、男はもう白旗を上げるしかなかったのだった。





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