ステップを降りたら、見覚えのない田園風景が目の前を過ぎ去った。人気のないバス停のベンチには簡素な屋根がついていて、万が一雨が降ったとしても大丈夫だろう。一体いつまでここに居るつもりなのか、自分でも分からないけれど。
 時刻は午後19時過ぎ。
 それを確認したきり携帯を閉じて電源も切った。誰の声も聞きたくない。ああ、一体私は何をしてるんだろう?


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 元々よく知っていたことだ。あの人が他人を慰めることや、柔らかく受け答えすることに長けていること。依頼人の中には、除霊が終わると怖くて泣いてしまう人も居るそうだから。細く震えて泣いている女性の肩を軽く叩いて、やや困ったように緊張を解そうとする顔にはきっと意図がない。
 とても見覚えがある。
 きっと私もそれだけの理由で、霊幻さんに優しくしてもらっている。だって私は彼にとって大事な依頼人だからだ。

 時刻は17時過ぎ。
 横断歩道を挟んで向こう側。眼鏡をかけるくらい視力が悪かったら良かったのに、生憎生まれてこの方視力検査には引っかかったことはない。
 バス停から降りていく人達はまばらで、まだ退勤のラッシュにはほんの少し遠いみたいだった。出発まで時間調節なのか、バスはドアを開いたまま傍らに停止した。

「………え、」

 冷静を装って髪の毛に触れた瞬間、今まで嗅いだことのないような香りがした。花からは程遠い、まるで熟し切って腐った果実のような、後ろ暗いにおい。
 咄嗟に手を覆っても、香りはどこまでも付きまとって隠せはしない。霊幻さんは、これは霊能者の意識レベルに関与すると言っていた。自分が霊能者だなんて思ったことはないが、感情に伴って香りが変化したことだけははっきりと分かる。

「ど、どうしよ……」

 バスのガラス越しに、依頼人と別れて歩いてくる彼の姿を見た。ポケットに手を突っ込んで気だるそうに頭を掻いている。
 嫌な汗が、じりじりと背中を伝って凍りついた。閉まりかけたバスの戸に身体を滑り込ませ、逃げるように乗車する。ほんの一瞬だけ霊幻さんがこちらを見た気がしたけれど、席の背中に手をつけて頭を低く低く項垂れた。
 やがてエンジンが唸り、バスは時刻表通りに発車する。あの薄青の白目が自分の姿をとらえることが、今は恐怖でしかなかった。


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 そして時刻は20時を回った。
 考え事をしていると時間というものは矢のように過ぎていくものだ。先ほども気付けば終点までぼうっと乗り過ごしてしまっていて、「もう回送です」と促され、下車したのがこのバス停。
 市バスかどうかも確かめず乗ってしまったので、もしかしたら市外かもしれない。降車時に払うバス代を差し引いたら、今日に限ってもうジュース一本も買えないお金しか残っていなくて驚いた。しまった、これでは帰ることができないじゃないか。

(………ああ、でもこれで言い訳ができるかな………)

 そう、心のどこかで考える。
 きっとこんな小狡いことばかり考えているから、漂う香りが悪くなってしまったんだろう。人気のない薄暗いバス停でぽつんと座り込んで一人、顔を伏せて音に耳を澄ませた。
 木のどこかで鳥が鳴いている。実でも食んでいるのか活発に歌声を響かせ、風が葉を揺らす音も耳に入った。遠くからエンジンの唸りも聞こえてくる。乗用車だろうか。確かめる気力もなくずっと丸く蹲っていると、プシューッという停車音が響いた。なんだ、また次のバスか。
 硬い革靴の底が砂を踏みしめる足音が近づいて、ゆっくりと私の座るベンチに影を落とす。それから一向に動かないシルエットにぱっと目を開き、顔を上げればそこには。

「よう、稚奈」
「……わ、……うわ、」
「オイコラ、逃げてんじゃねーぞ」

 何でよりにもよって!
 今一番会いたくない相手の登場に、心臓がゴムまりのように跳ねて反射的にベンチから逃げようと足を下ろす。だが彼はそれを許すほどのんびりした男ではない。あっさりとスーツに包まれた腕に捕えられ、どう見ても―――怒っている顔の霊幻さんに、肩がすくむ。
 なんで怒ってるんだろう、と回らない頭のどこかで疑問に思った瞬間、静かな夜道に怒号が響いた。

「お前なあ、携帯の電源くらい入れとけ!」
「う、」
「いつも時間守って来るくせに来ねーわ、連絡はつかねーわ、家にも帰ってないわで、ったく……どんだけ探し回ったと思ってんだ!!」

 怒鳴り声に身体が硬直する。
 探してくれてたんだと、それだけで少しだけ舞い上がってしまう自分の浅ましさだとか、滅多と見ない吊り上った眉を見て、ああ怒らせてしまったなとか、自分の未だに取れない嫉妬の証拠がない交ぜになって、瞳からあふれ出てしまった。
 泣いて許しを乞うもらうつもりなんてなかったのに、涙は釈明のように頬を落ちて行く。霊幻さんはぎょっとしたように目を見開いて、わざとらしく腰に手を当てて咳払いをした。

「い、いや、まあ俺はともかく親も心配するだろ、なっ!泣くな泣くな」

 優しく肩をさすってくれる手は少し冷えていたけど、じんわりと暖かさが移る。不思議なことに、涙というものは慰められるとさらに出てきてしまうものなのだと、彼は知らないのだろうか。声だけでもかみ殺そうとすればするほど、喉の奥はひきつって酷い嗚咽になった。
 カラスがこんな夜中に泣いている私を馬鹿にするように鳴き声を上げる。だって仕方がないじゃない、勝手に溢れてくるんだもの。自分の身体なのに思い通りにならない涙も香りも憎たらしくて、ついに子供みたいに泣き喚いた。

「わ、わたし、私っ、もっと早く生まれたか、った……!」
「お、おお?」
「ひっ、ぐ、もっと、大人で、そしたら、もっと大人だったら、霊幻さんに、ちゃんと……っ」
「……ちゃんと?」
「ちゃ、んと……す、す、好き、って」

 言えたのに。
 涙声の中に最後の言葉は消えてしまった。最低の形で言ってしまった告白は、もう取り戻そうとしても手遅れ。大人。大人って一体何なんだろう。子供ぶるにはもう大きすぎるのに、まだ私は幼すぎる。大人なら、大人なら、そんな言い訳を探しているところがきっと一番子供なんだろう。
 霊幻さんは何も言わない。
 もう呆れられてしまったんだろうか。恐る恐る顔を上げたら、顎から涙が滴り落ちる。するとそこには、全く「大人」とは言い難い、少年のように顔を真っ赤にした霊幻さんがいた。

「………っ」
「…………」
「……………れ」
「いいッ!!皆まで言うな、俺のことは俺が一番よーく分かってる!!……まあ、何だな……お前の気持ちはよく分かったし、泣く必要もない。分かったか?分かったら帰るぞ」
「わ、分かんな、い……です」

 必死に隠すように手で顔を覆い、まくし立てるようにして私の返答を阻止しようとしている。それが分かってしまったから、いつもなら絶対に従ってしまうのに、足は気持ちのままに全く動こうとしなかった。
 彼の後頭部と背中に向かって、息も絶え絶えに声を絞り出す。拙くてもいい。今しかない。今じゃないといけないと思った。

「もっと、分かりやすく、言ってください……!」
「……あのなあ、俺は今どんな気分だと思う?自分より何歳も若いって女子高生に、しかも女子高生だぞ?!泣きながら告白なんぞされた日にゃ、俺はな……あー………」
「霊幻さん、好き」
「…………」
「好き、です」

 懇願するように繰り返す。聞きたい。今だけは言葉で聞きたい。平素なら絶対にしないことばかりしていて、頭が破裂しそうでも、人生で一度きりのチャンスかのように強く掴んだ。
 霊幻さんはやっと顔をこちらに向ける。薄闇の中でも分かるほど火照った頬は、私の心臓の鼓動を早める。やがて薄いくちびるが開いて、絞り出すように。

「………俺も」

 目の前で。
 星がぱちんと弾けた。
 頬が熱すぎて、自分がどんな顔をしているかなんて知りたくもなかった。きっと好きな人に向けるべき可愛い顔なんてしていないのだけは確かだから。
 今が夜だなんてことを忘れてしまうほど目の前がチカチカしていて、今日の出来事何もかもが報われたような気がして、力いっぱい霊幻さんのスーツを握る。ああ、誰かに夢じゃないと照明するために叩いてほしい――――

「あの〜、それで……乗られますか?」

 現実はすぐに追ってきた。
 二人揃って呆然と顔を向けると、そこにはフロントライトを煌々と照らし、既にドアを開け放った状態のバスが待ち構えていた。運転手が申し訳なさそうに苦笑いする声も遠く、ここがやっとバス停であることを思い出すと同時、体中から血の気が引いた。

「あっはははこりゃどうも!はっはっはっは大人二人で!」

 霊幻さんが羞恥を誤魔化すように大声で笑い、私の腕をぐいぐい引っ張って乗り込んでいく。不幸中の幸いだったのは、他に誰も乗客がいなかったことだろうか。それでも最低なことには違いない。
 相思相愛になった余韻もなく、奥の席に押し込まれて縮こまっていたら、肩に少しだけ触れた。途端に溢れた香りがいつもより甘い甘い花の香りで、それはあまりにも明け透けだったので、そのバスでの帰路が揃って死ぬほど恥ずかしかったことは……言うまでもない。


バス停より愛をこめて





A-mollさん相互ありがとうございました!




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