もう死んだ人間の話。



 私は彼をトヨ、と読んでいた。
 年の瀬のころ付き合いで行ったバーで飲めもしない酒を飲んでしまって、朦朧としながら帰った夜だった。朝起きると見知らぬ家のベッドで寝ていて、知らない男に悲鳴をあげたのが最初。聞けば道すがら前後不覚でフラフラと寄りかかられ、起こしても意識がはっきりしないので、自宅に寝かせてくれたという。
 一夜の過ちの記憶も痕跡もなく、そして彼にあまり―――"後ろ暗さ"を感じなかったので、私はあっさりとそれを信じた。お詫びを兼ねて昼でも奢ると行って、それからの付き合いだった。私達は妙に気が合って、いつしか互いの家を行き来するようになった。

 トヨは見た目からなにも推察できない男だった。顔はアジア系だがときどき英語を喋り、老けた20代にも若い40代にも見える。彼は職業や年齢、国籍や名前すらも明かそうとしなかったので、私は膨大な営業先を覚えるときのように彼にあだ名をつけた。駐車場に停めてある愛車のトヨタ86にちなんで「トヨ」。本人ははじめいくらなんでも安直すぎるとごねていたが、いつしか諦めたようだった。
 私は何度かこのミステリアスな友人の正体を暴きたくなったが、そうしなかった。下手に詮索してあの寂しさや孤独の食い込んだ横顔がいなくなってしまうのは、どうしても嫌だったからだ。

 私は家族がいない。
 おそらく彼もそう。
 仕事以外にやることがない。
 わかるよ、と彼も言っていた。

 長い間ずっと孤独に慣れていて、心の明け渡し方を忘れている。そういった者同士の恐ろしく鈍臭い関係だった。そこには燃えるような恋も激しい情欲もなく、秘密基地で会う名前の知らない遊び仲間のような、ただの親しさだけがあった。

「合鍵作っていいか」
「いいけど、なんで?」
「お前がいない間に他のところで時間潰してると、寂しくてつらい」
「アハハハハ! わかった、トヨんちのもちょうだいよ」
「どうせすぐ引っ越すのに?」
「引っ越すたびにちょうだい」
「………わかった」

 やってみて分かったが、合鍵をねだるのはけっこう勇気がいる。


 それからトヨは、私の家に居着くようになった。ほとんど同居といっていい状態だったが、相変わらず私たちの間にロマンチックな雰囲気が流れることは一度もなかった。私生活についても聞かない。仕事と家の行き来しかなく家族も友人もないトヨと私の私生活などたかが知れているので、お互いに興味を持つこともなかったのだと思う。
 あんまり無趣味だったので、なにか人間らしいことをしようと映画を観たりダーツバーやビリヤードに行ったこともあった。ドライブにハマったときにはトヨが私の自動車をうっかり半壊させて、冗談で「フェアレディにして弁償しろ」と言ったら本当に買ってきて驚いたのを覚えている。貯まった金の使い道がなくて困っていたからと弁明するのが可笑しくて、しばらく笑い転げた。

 トヨは徹底して仕事の話もしなかった。鍛えた体と端的な喋り方はなんとなく警察や自衛隊のイメージがあるが、そうでなければ犯罪者だろうと考えていた。秘密を抱えている人間は大なり小なり"影"の形が歪で、何かに覆われていたり囲いがあるような姿になる。
 私にとってはトヨがちゃんと生きてここにいて、寂しがってる私を必要として訪ねてくることが重要だったから、それでも構わないと思った。たった半年くらい。一人には慣れたはずだったのに、二人でいるとぜんぜんダメだった。
 幸せだったから。
 ひたすら穏やかだったから。

 その幸せを停滞させることに必死で、傷付くのが怖くて怖くて、なにもかも手遅れにしてしまった。




 5月14日、横浜の倉庫街。
 そこに車を走らせていたのは単なる偶然だった。営業先での会議を終えてから帰路につくとき、ひどい眠気に襲われた。しばらく忙しくて睡眠を削っていたからだろう。そのまま運転するのは危ないかと人目につかない倉庫の側に車を停め、少し仮眠を取ることにした。
 車体を軽くパチパチと叩く音がする。雨が降っているらしい。夢の中にいるようなまだ起きているような心地で、ぼんやりと薄く目を開いたままでいた。数十分経った頃に眠るのに飽きて、いつものようにトヨに電話してみることにした。履歴を上からなぞって3番目を選択して、何も考えずに発信する。

 ―――パンッ!

 画面が応答状態になった。
 乾いた音。どちらが先だっただろうか。やや離れた人気のない倉庫のほうでフラッシュのような光が散る。映画やドラマでしか聞かない音だ。この国では絶対に聞くことがないはずの銃声。破裂音は電話口と外の両方から聞こえてきた気がして、伸び放題になった草木とガレージの隙間からじっと目を凝らすが、暗くてなにも見えない。
 耳元でスピーカー越しに聞こえるコツン、コツンという音がとても不吉で、無意識に息を殺してしまった。どうしてか震えが止まらない。魂の底から冷え切ってしまったように、手足が言うことをきかなくなった。
 
『……結局、こいつがどこの犬かは分からねえままだったか……』
『グレイのやつ、昔から証拠隠滅は徹底してやしたからね。組織のデータベースからもごっそり情報が消えてたそうで』
『まあいい。これ以上我々の情報が外に出ることはない……主人も飼い犬のグレイ・ハウンドが任務に忠実でさぞかし喜ばしいことだろうよ』

 組織?犬?グレイハウンド?
 全身の神経が鼓膜に集中したように、意味を理解しないまま二人の男の会話が頭に刻まれていく。こんなに音に結び付くほどの闇深い影は感じたことがない。トヨにかけたはずなのに彼の声がしない。携帯を預けているのか、それともこの二人に奪われてしまったのか。
 酷い予感にガンガンと目の前が点滅する。やがて耳元の携帯から、長さが一定でない独特のアイドリング音が聞こえる。ポルシェの水平対向エンジンだ。そう一瞬で頭に浮かんだのは職業病だった。タイヤが地面を踏みしめて音は去ってゆき、人の気配は消え、私はほとんど祈るように、通話口に向かって話しかけた。

「トヨ……?」

 沈黙が重く落ちる。
 雨がいつの間にか止んでいて、雲間から月の光が射していた。そこに浮かび上がったシルエットに酷く見覚えがあって、見えない誰かに喉を押さえつけられたように苦しくなる。

『………つなが、ってたのか』
「……!」

 生きてる、彼はまだ生きてる!
 私の抱いた一縷の望みを打ち消すように、トヨは弱弱しい声で『悪い』と言った。それは英語だった。彼が焦ったり余裕を失ったときにこの国の言葉で喋るのを忘れてしまうことを、私は知っていた。スピーカー超しに彼の呼吸が細くなるのが分かる。どうして私はここに木偶の棒のように座ったままなんだろう。今すぐ車を降りて駆け寄って、何か手を打てばもしかしたら。
 どうして体が動かないの。
 どうして、どうして、どうして。

『こんな、こと、お前に言うのは……ひどいってわかってる……』
「あ、喋っちゃ、だめだってあたし、救急車呼ぶから、待ってよ……」
『でも、怖くて仕方ない』
「嘘だよね、ねえ、ねえ……」
『わるい』
「だめ」

『Forget-Me-Not(俺を忘れないでくれ)……』


 ドン、と重い音。

 発信源はもしかしたら通話していた携帯だったのか、爆音はスピーカーから届かなかった。切れた通信。小規模な閃光。爆風がわずかに車体を揺らす。炎がすべて燃やしてしまう。通話の切れた画面がなにもかもが台無しになったことを知らせている。血の通わない肌を冷えた汗が伝って、それが私の意識を繋ぎとめた。
 頭が追い付かない。
 手のひらで額を覆い、ふ、ふ、と引きつった息が喉を抜ける。目の前で起こった現実離れした出来事に、ただ真っ白になって、逃げたしたくて堪らなくなった。ここから離れて遠くへ、ただ遠くへ。衝動的に踏み込んだアクセルが恐ろしいスピードを出し、倉庫街から弾丸のように飛び出た。
 Forget-Me-Not?
 忘れないでなんて、そんなこと。

「そんな、そんな、だってあたし!!」

 あんたの名前だって知らないのに!
 締め切った車内で絶叫し、私は自分の怠惰を激しく呪った。ほとんど反射でハンドルを切っていてよく事故を起こさなかったと思う。私は彼を何も知らない。どんな生まれでどんな考えを持っていて、どうしてあんな危険なことをしていたのかも知らない。知ろうともしなかった。世界でたった一人の友達の、最後の願いすら満足に叶えられない。
 ゾッと背筋が寒くなる。
 生きている人間の記憶から消えてしまったとき、人が本当に死んでしまうのなら、彼は一体何人の記憶に残っているのだろうか。あの徹底して何も残そうとしなかった「顔のない男」が死んだことを、私以外に誰が知っているのだろう?

「………あいつ……」

 ―――ぽつりと声が車に響いた。
 脳裏に浮かんだのはポルシェ356Aを足に持つ、不気味な靴音と、這いずるような低い声の主。離れていても肌を舐める巨大な闇を纏う男たち。
 家の傍に車を止め、一人深海の底にいるように冷え切った体を縮める。肌が白くなるほど握り込んだ両手を唇に当て、震えを少しでも抑えようとした。今からでも遅くはないはずだ。方法はある。他の誰もできなくても―――"私"なら。

(ああ……そんな……今更………)

 辺りはすっかりと夜になっていた。星が銀色に輝く空で、大きな月が明るく輝いている。帰りを待つ人のいない家。それほど嫌っていない仕事。繋がらない電話。小さくて寂しくて愛おしい、自分のすべてだと思っていた世界。
 でも、もういい。
 今は追わないといけない。
 私はそのとき冷静ではなかったのだと思う。家を顧みずアクセルを踏み込んだ瞬間、情緒や躊躇いのような、大事なものも一緒に砕いてしまったのかもしれない。もう方法は何だって良くて、誰でもいい気分だった。彼にも一度も話したことのない忌まわしい方法で、私は目的を遂げようとしていた。

 どうして人は最悪からもがき逃げようとして、より深みに転がり落ちてしまうのだろうか。呪いに満ちた月の夜をいくつも越えて、耐えがたい孤独な朝をいくつも数えて、そして。

「死んだ大事な人の仇をとるためにこの組織に辿り着きました。勘は良いし仕事はできる方です。損はさせませんので、どうぞここに置いてください」

 私は"ジンジャー"に、成った。




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