美しい女がこちらを見ている。
 滑らかな白い頬にかかる短い黒髪がいかにも艶やかで、跳ね上がったキャットアイラインがよく似合う涼しげな顔立ち。水色のネイルで彩られた指で顎をなぞった女―――稲葉真美は、鏡のなかの自分にうっとりと見惚れてしまった。自前の顔に別段不満はないつもりだったが、これほど美しくなれるなんて魔法をかけられたシンデレラの気分である。

「生まれつきこんな美人だったら永遠の美貌を手に入れたい気持ちもわかるな」
「つまり、永遠は欲しくないのね」
「終わらないほうが怖くない?」

 面影が残らないほど変装を施されても、後ろに立つ世紀の女優には足下も及ばない。その美麗さは骨格からなるものであり、奏でる声まで痺れるように魅力的だ。窓の外からは青い海が見えていて、スポンジケーキのように明るい壁の建物が立ち並んでいる。優雅な異国の街並みに相応しい彼女はクリス・ヴィンヤード―――組織(われわれ)の間ではベルモットという名が通っている。
 さて、突然だがここはモナコだ。
 モナコ公国。西ヨーロッパの立憲君主制国家。世界で2番目に小さい国で、フランスの地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置する、グレース・ケリーが王妃になった国である。

「ベルモットはまさにグレース・ケリーって感じだよね。そんで思うに……美女役はベルモットだけで良かったんじゃないのって思うんだけど」
「あの方の判断よ。貴方もついにハニートラップを覚える日が来たのかしらね?」
「バーボンの方が上手そう」
「あら……怒られちゃうわよ」
「やばい、内緒にしといて」

 ベルモットはクスクスと上品に笑い、ジンジャーのヘアセットを終えた。彼女はクリス・ヴィンヤードとしてここに赴いているためか、いつもの黒衣ではなく足元に美しいラッフルがあしらわれた華やかなピンクのサテンドレスを纏っている。その肉感的な曲線と輝くブロンドの光で、会場の視線を独占することだろう。対して今や別人となったジンジャーはU字に開いたフロントのラメブラックドレスで、首元にはチョーカーを着用している。
 モンテカルロSBMにチェックインしたあと、女優クリス・ヴィンヤードが招かれた「カジノ・ド・モンテカルロ」のパーティに潜入する作戦。もちろん現地SPは傍に控えるが、ジンジャーはその付き人役だ。

 今回の任務は―――広い意味では組織構成員の後始末だろうか。資金調達任務に当たっていた構成員が殺され、彼の管理していた隠し金庫の行方が分からなくなってしまった。殺した相手はどうやら恋人らしく、金を持ってここモナコ公国に逃走したというわけである。
 高跳びを許してしまった県警にも、処理が遅くなった担当の構成員にも手に負えなくなってしまった。モナコはまさに金持ちのための国であり、金さえ出せばなんでも揃い、女が宝石をつけて夜に出歩けるほど安全だ。それは方法を知っている資産家の犯罪者にとっても同じ。どんな方法で稼いでいても、この国では丁重に扱われる権利がある。

「私は今回手を出せないの。だから方法はアナタに任せるけど……」
「要は資金を取り返せばいいんでしょ。任せて、そういうの得意だから! そんで、全部でいくらくらいなの?」
「240万ユーロってところかしら」
「にっ」

 日本円に換算して―――3億円。
 こんな西ヨーロッパくんだりまで命がけで高跳びするのに値する金額だ。急激に肩と胃が重くなったジンジャーは、ベルモットに軽く後ろ腰を押されてぐっと上半身を反らした。首元のチョーカーについたダイヤモンドがキラキラと照明に輝いて揺れる。

「賭けに勝ちたいのなら、自分こそが勝利の女神だと思わなきゃあね……」
「は、はい……」

 耳たぶに掠めるような魅惑の声に、ジンジャーは思わず頬を赤くした。女に生まれたからには一度は憧れる美貌と振る舞いが、容赦なく鼓膜を震わせてくる。ここ数年でもこんなにドキドキしたことはないというくらいに動揺してしまったジンジャーは、本物の付き人のようにかしこまった口調になり、それを見てベルモットはまたくすくすと笑った。
 標的は14番テーブル、ルーレットのディーラー正面に陣取った男が、破滅への道とも知らずにチップを躍らせている。


 XXXX


 男はここ数日、カジノ・ド・モンテカルロで大立ち回りといっていいほどの勝利をものにしていた。大金が運と名声も運んできてくれたのか、何度危機に陥っても最後はプラスを取り返せる。オペラ座を設計したシャルル・ガルニエによる宮殿のように優雅な建築。金装飾にたっぷりと布を使ったカーテン、飾られた絵画と酒の味が、男を夢心地にしていた。
 その日は、入場してすぐに始めたルーレットであまり良いツキがやってこなかった。ブラックタイやドレスに囲まれて、ほんのりと焦りを覚えていたころ。カジノが黄色いざわめきに包まれ、数人が席を立って入り口へ吸い込まれていく。

「クリスだ……!」
「クリス・ヴィンヤードが来るって、本当だったのね。ぜひご挨拶したいわ!」

 ヒロインの輝く美貌は、離れた席からでも光を放っているかのように視線を釘付けにする。映画撮影以外ではあまり公の場に姿を見せないアカデミー女優に群がった人々に、クリスは小さく微笑んで返し、隣にいた黒髪の女になにか囁いた。その女はゆっくりと人混みから離れ、携帯でしばし話したあと一人になる。
 男がその付き人に目をやったのは、単純に彼好みの女性だったからだ。昔からどうも豊満な曲線よりも折れそうな手足や細い背に惹かれてしまう性質で、あまりギラついていないドレスも良かった。視線を注ぎすぎたのか目が合うと、彼女は少し迷う素振りを見せたあとゆっくりと男へと近づいた。

「やあ」
「ハイ、英語でも平気?」
「構わないよ」
「貴方はなんだか慣れてるのね」
「モンテカルロは初めて?」
「ええ、マカオとラスベガスには彼女の付き添いで行ったことがあるけど、モナコはね……ルーレット、勝ってるの?」
「いいや、今日はツイてないな」
「じゃあポーカーでもどうかな」

 静かな美しさを持った女が微笑み、ポーカーの席に移動したのがちょうど一時間前。
 大きな賭けに不慣れな女とギャンブラー気取りの男の勝負は大いに盛り上がり、ベットの桁数が跳ね上がるプライベートルームにまで転がり込んだ。身元の保証されたディーラーがあざやかにカードを切る大一番。他の人間は既に勝負から降りている。
 ギャンブルの興奮、美女の注ぐアルコールが喉を通る熱さ、鼓膜を揺らす音楽と勝利の声が男を狂わせていた。それこそ、手を付けるつもりのなかった金庫の小切手を切ってしまうほどに。

「「ストレート!」」

 2人が同時に手札を開いた。ストレート同市の場合、最もランクが高いカードを持つプレイヤーが勝利となる。男の手札はK、Q、J、10、9の「K-ハイストレート」、対する女の手札ははA、K、Q、J、10の「A-ハイストレート」、通称"ブロードウェイ"。女の勝利をディーラーが宣言する。男は悲鳴を上げそうになった喉を押さえ、興奮して持ち上げていた腰を呆然と椅子に下ろした。
 このポーカーはノーリミット(no limit)、ベットやレイズができる額の上限が設定されていない。チップや身に着けているアクセサリーまで持ち出したオールインスタイルで、青天井となった男の負け越しは信じられないことにざっと―――550万ユーロ。
 地の果てまでの転落だ。
 ギャンブラーは意気消沈し、手で額を覆う。ディーラーがチップやカードの片付けをしている間、男の思考回路は泥の浸かったように黒いものになりはじめていた。さっきの勝負を取り消せとディーラーと女を殴りつければモンテカルロの屈強な警備員に引き渡されるだけだ。ならここでいったん別れ、"前のように"ホテルで襲えば……。

「ねえ、今のは分けにしない?」
「え、」

 耳元で魅惑的に吹き込まれた言葉を、男はすぐに理解できなかった。ポーカーの勝負で引き分けは存在しない。ディーラーに聞こえないようボリュームを絞った声は、まるで恋人への愛の囁きのように甘い。

「なんだって?」
「あんまり大金でなんだか、怖くって。貴方みたいなお金持ちなら慣れてるかもしれないけど、私はクリスみたいなセレブじゃないんだもの……だって550万ユーロなんて!」
「しかし、賭けは賭けだ」
「十分楽しかったわ」

 先ほどの勝負が分けになれば今までの負け越しを差し引いても200万ユーロは手元に戻ってくる。それだけあればモナコで豪邸に住みながら、F1の試合をシャンパン片手に観戦できるだろう。
 女は涼やかな顔には少し似合わない、明るい笑みを浮かべている。甘い香りは飲んでいたカクテルのせいか、救世の女神のごとき彼女に目が眩んでいるからなのか。もちろん半分でも大金なのは変わりないが、破滅の絶望に足を踏み入れていた男には、それが最も美しい献身にすら見えた。
 すっかり魂を掴まれた熱っぽい目をして、彼はうわごとのように呟く。

「君の名前……」
「ダメよ、秘密」
「どうして!?」
「後で揉めたくないし……そうね、きっとこう言うべきかな。
 "A secret makes a woman woman."(女は秘密を着飾って美しくなるのよ)」


 XXXX


「真顔で言うセリフじゃないわ」
「貴方、女優に不向きみたいね」
「だろーね。モナコまで来て取り返したのが350万ユーロだから、ええと……4億5000万弱かな。諸々差し引いても1憶ちょっとの利潤! わーお過去最高かもよ、美貌パワー素晴らしいね!」
「気に入った?」
「だいぶ。これ何時までもつ?」
「フライトは長いし、一度落としておきなさい。空港に入る前に変身させてあげるわ」
「ハーイ」

 モナコ公国から車で小一時間、フランスのニースから旅客機へ。席に案内されたときは気絶するかと思ったが、世界の大女優クリス・ヴィンヤードが乗るのならスイートクラスが当然なのかもしれない。付き人用として用意された個室はもはや家のように豪華だった。ベルモットと別れて鏡を目にすると、やはり黒髪の美しい女がこちらを見ている。
 さて、なぜああも上手く勝てたか?
 ポーカーは基本的に運と駆け引きだ。影の揺らめきで相手の企みが「視える」身としては、手札と照らし合わせれば役のランクは自然と分かってくる。そうなれば後は絵柄の見えている神経衰弱のようなものだ。

(一晩で4億スって懲りたならもうちょっと長生きできるだろうけど……)

 彼は殺人の味を覚えてしまったから、無理かもしれない。どんな罪もきっかけは容易く戻りは困難なものだ。いや、終わった任務のことを考えるのはやめておこう。変装をパックのように顔から剥がすと、触れなば落ちん風情の美女が見慣れた顔になってしまった。残念だが落ち着くのはやはりこちらの顔だ。
 果実のような甘い香りがする。
 不意に―――足首に薄っすらと黒い霧が抜けた。息がひきつって止まる。音もなく近付いた鏡のシルエットに、振り返るのが恐ろしくなるような濃い影が背中から這い上がってくる。首筋にかかる細い指が、チョーカーを優しくいたぶるように滑った。これは悪意なのか、それとも殺意なのか?

「ベルモット?」
「貴女の恋人は嫉妬しているんじゃないかしら。他の男の首輪をつけられて、いいように使われているなんて……」
「……死者は妬まないよ」

 死者は恨まないし、憎まない。同様にして喜びや悲しみもない。何も成すことはできず、何も関与できない。だからそれは、意味のない問いだ。
 はっきりと明瞭な声で答えると、後ろ首を撫でていた手が止まった。黒髪のウィッグがするりと外れ、見慣れた赤茶色の長い髪がこぼれていく。化粧の乗っていない目元は印象が薄く、果たして自分はこんな顔だっただろうかというような、虚脱した表情が鏡越しに見ていた。
 焼けつく影の妖しい気配を打ち払うように、ぱっと体ごと振り返って朗らかに笑ってみせる。彼女は少し意外そうな顔をした。

「あいつは生きててもそういうタイプじゃないしね!ていうか、ヤキモチはベルモットの方なんじゃないの〜?」
「あら、なぁに急に」
「ほら、元カレが女に首輪なんてつけるから牽制してるのかなって。大丈夫だよあたしジンは怖すぎてそういう目で見れないからさァ」
「"マティーニ"の噂でも聞いたかしら?相変わらず耳が早いこと……」

 ベルモットは笑みを浮かべて離れ、その見事なブロンドをくゆらせて去っていった。足元を柔らかくさらっていた影も消える。添乗員に顔を見られては困るので扉には鍵をかけ、表情筋から力が抜けて―――そのままへたりと床に座り込んだ。

(いや、ベルモット、怖すぎ……!)

 どっと吹き出る汗を手で拭い、扉を背にして足を投げ出す。これでもずっと他人の影を見続けてきたつもりだ。後ろ暗いことを隠す者や精神異常者、殺人者の影も見たことがあるが、彼らの悪意や殺意が滾った姿は今にも切れそうな刃に似ている。ジンなんて近くにいるだけで常に首に縄がかかっているような感覚すらあった。
 だが、彼女はさらに異常。
 ベルモットの影は、人生で見たことがないほどの不気味さを放っていた。闇が薄いベールのように幾重にも波打ち、彼女のシルエットすら覆い隠してしまっている。まるでベルモットという人物そのものが"生まれたときから偽りだ"と言われているような薄気味悪さで。

(バーボンも似た感じだったけど……)

 ―――けれど彼は、少し違う。
 所詮影は影だ。心の有り様がすべて分かると言えば嘘になる。彼も得体の知れない恐ろしさを持った人物だが、厚い影の中にはどうしてかいつも希望の光があった。近寄りがたく腹の立つ男だが、少なくとも救いようのない悪人ではない。
 それも根拠のない話かと、息を整えてやっと豪華なシートに寝転がる。食事もシャンパンも届けられなくていいから、ただ泥のように眠りたかった。ニース・コート・ダジュールのきらきらと輝く海と空が見える。それらもきっと寄る辺のない遠い夢の話なのだ。


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