叫び声で目が覚めた。
 ふ、ふ、と軽く息が上がっている。髪が額に張り付くほど汗をかいて、部屋の空気はこもって息苦しく、全身が泥にまみれているように重い。悲鳴は自分だったのか、あるいは死んでしまった誰かなのか、夢なのか分からなかった。
 ブラインドが朝日でほんのりと光っている。天気は曇りらしい。寝室には色を置かないのが好きで、ベッドもシーツも白や薄いグレーを使っているから、一瞬自分が天国にいるのかと思うほど明るい。吊り下げている丸鏡にひどい顔が映る。どうやら昨日眠れなくて無理に流し込んだ酒が、眠りを悪いものに変えてしまったようだった。

「いて……、」

 頭を動かすとズキンと痛みが走る。こうした不甲斐ない朝には胃薬と水を差し出してくれた人がかつてここにいたが、今はいない。しんとした部屋の静寂が、やはり汚泥になって体にのしかかる。
 これでも前よりはマシだ。
 真美は目覚めるたびに、どうしてこんなことをしているのかと自分でも不思議になる。彼が死んだことに対しては、怒りよりも悲しみの方がよっぽど深い。だというのに人の死に触れるたびに、どうかこの人を失って悲しむ人がいませんようにと身勝手に祈っている。信じたこともない神に許しを請うている。私は止まれません。どうか罰で殺すのはもう少し後にしてくださいと。

「……アホくさ、風呂はいろ」

 口に出してやっと動く気になった。脱ぎ散らかした服を拾って酒瓶を仕舞ったら、バスルームに飛び込んで熱いシャワーで目を覚ます。タイルに足をつけ、体を清潔にするとやっとまともな人間の形になれた気がしてホッとした。
 服を着替えていつものように化粧を施すと、口角が勝手にあがる。ここ最近でそんな癖がついてしまった。笑っていないと愛想がなさすぎると言われたのをまだ気にしているせいかもしれない。女に生まれて良かったことの一つは、こうして顔色を偽れることだ。
 活動しはじめるととたんにお腹が減ってきた。冷蔵庫には何もないので買ってくるか食べてくるかしようと、家の鍵を閉めて外に出る。明るい曇り空だ。雨の気配はなく、少し歩くと早朝のランニングに勤しむ若い男とすれ違って―――ぱっと振り返った。

「あ、バレましたか……」
「いやそりゃ、分かるよ。目立つもん。えーと……安室さん?」
「はい、稲葉さん」

 ばつが悪そうに笑う男を見てると、なんだか目眩がしてくる。何故ここにいる、と詰め寄る元気がなかった。曲がりなりにも犯罪組織に所属する男が爽やかに早朝ランニングをしている様を見せつけられるとは思っていなかったので、対処に困っているともいう。
 正直言って、苦手な相手だ。才能があって仕事は完璧で疑り深く秘密主義。歩み寄れというほうが難しい男である。だからこそ朝の空気にこの男がいて、着慣れたようなウィンドブレーカーに身を包んでいる姿が信じられず、真美は何度も瞬きをしてこれが現実かどうか確かめてしまった。

「実在してたんだね」
「存在を疑われていたとは……」
「夢かと思った。ええと……同僚に偶然会ったときの対応としては……『どうですか、食事でも』とか?」
「おや」

 安室は大きい目を丸くして意外そうなリアクションをした。そんなに驚かれほど愛想を悪くしていたつもりはないのだが、顔に出ていただろうか。確かに苦手な相手だが一緒にいて不愉快になるタイプでもない。そういう気持ちが伝わったのか、彼はにっこりと笑って答えた。

「ええ、僕の方からも誘おうと思っていたところです。モーニングが美味しい店があるので、是非行きましょう」

 用意周到である。
 やっぱり偶然じゃなさそうだな、と思ったが、今さら他に行くあてもなかったので素直に頷いて返したのだった。



 XXXX



 案内されたのは駅近くの路地にある明るいカフェだった。白い雨避けのオーニングの下には、もみの木を小さくしたような針葉樹のゴールドクレストが青々と繁っている。インテリアとして置かれた樽の上にはいくつも季節の花が咲いていて、曇り空にも明るい朝を感じさせた。
 小さな絵の飾られた席に座って、安室がメニューを手渡してきた。彼の選んだ卵トーストにも惹かれたが、胃が優しさを求めてくるくる鳴くので、大人しくヨーグルトセットにすることにする。注文を終えて向き直ると、再び奇妙な感覚に襲われた。

「なんかまだ白昼夢の気分」
「昨日の任務は堪えましたか」
「あーっ、その話パス!また気分悪くなる!休み中には仕事のこと考えたくないから、別の話にして」
「では、あなたの話でも」
「あたし?」
「ええ、あなたがあまりに不可解なので、こうして出向いてきたわけです」

 もはや隠そうともしていないので真美はかえって呆れてそれを「まあいいけど」と許してしまう気になった。疲れのせいか朝の陽気のせいか、カフェに漂うコーヒーの香りのおかげかもしれない。夜に会ったときのいっそ胡乱な雰囲気とは違い、安室透の周りには健やかに暮らす正常な人間の空気があった。
 すぐにモーニングセットが届く。白いつるりとした皿に乗った卵トーストと、ガラスの器に盛られたフルーツヨーグルト。こちらにはデニッシュ生地のパンが一つちょこんと乗っている。ブラックコーヒーと紅茶が湯気を立てて、なんとも素敵な朝食だった。

「僕なりに調べてみたんですが……稲葉真美の経歴は、まったく綻びがなくてどこも崩せませんでした。もしかしたら別名をお持ちなのかとも思ったんですが、そうでもないようで」
「ああ、うん。調べたとおりだと思うよ。みんなあんまり信じてくれないんだけどさ、会社員だったこと」
「まあ、信じがたいですね。
 中国出身、5歳で日本に移住して帰化。
 東都大学の経済学部を卒業後、英マイクロフト社・日本支社の営業として就職。売上の成績も良かったが、それ以外のことはあまり突出したものがなく出世には消極的。その後一身上の都合で退職―――で、組織と」
「それ、誰の総評?部長?」
「僕です」
「あ、そう」

 懐かしい響きにわけもなく笑ってしまう。大学卒業後にそのまま就職した会社ではそれなりに楽しんで仕事をしていたから、辞めるときは驚かれたものだ。携帯の番号も住所も変わってしまったので、その後は誰とも連絡を取っていない。今の携帯は完全に仕事用で、連絡先は暗記しているので登録数はほぼゼロ。我ながらストイックだ。
 自分の経歴を調べるのは難しくないだろう。前職の会社にはまだ履歴書が保管されたままだし、大学の生徒名簿にもきちんと名前が残っている。フルーツヨーグルトをひとすくい口に入れると、爽やかな甘さが広がって嬉しい。意外と大口で卵トーストにかじりついた安室は、唇のソースをぺろりと舐めて飲み込む。

「じゃあ、こういうことですか?なんの特殊な訓練も受けていないあなたは、組織の人間と思しき死んだ恋人のあとを追って、ジンにたどり着いた?」
「そうだと思うけど」
「何の手がかりもなしに?」
「いや―――最後に話したよ。あたしが電話した。ちょうど今日みたいに、『夜ご飯まだなら、一緒に食べない?』ってさ」

 そう、今でも思い出せる。5月14日の夜。横浜市の倉庫街。蒸し暑い車内で彼に電話したとき、途切れ途切れに声がした。そのときの音が耳にこびりついて離れない。彼のもう細い声。水平対向エンジンの音。職業柄車のエンジン音には聞き馴染みがあったから、日本で見るのは珍しい車種だと分かった。
 紋章は鹿の角と跳ね馬。ドイツの誇るクラシックカー、生産から半世紀以上も経つ―――ポルシェ・356A。その排気口から吐き出される、真っ黒な影の気配。もちろんそれを安室に説明することはできないが。

「車の部品メーカー勤務だから、ねえ。確かにマイクロフト社はポルシェの工場とも取引があるみたいですけど……ワーゲンやスバルとは?」
「似てるけど違うんだよ、ちょこっとだけどね。だからわりと確信があった」
「ホォーー……そうですか」

 朝食を食べ終えた安室がコーヒーを飲み、カップをソーサーに置く。男は指先で取っ手をなぞりながら唇の形を歪め、安室透にしてはとても冷ややかな微笑みを浮かべた。

「しかし、死に際に秘密をぺらぺらと喋るなんてね。組織の人間としても、もし潜入捜査官だったとしてもお粗末だ」

 がちゃん、とフォークが落ちる。
 流れていた和やかな空気が凍り、真美は一瞬明るい顔を作ろうとしたが、みるみる表情は壊れだして目と口が歪んだ。顔が真っ青になっているのは怒りのためだ。彼は何も喋っていない。お前に何が分かる、知ったような口を、クソ野郎、と頭の中に次々と罵声が浮かんでは消える。血が冷えて落ち着いたころには、汗が額に滲んでいたものの、唇には再びうっすらと笑みが浮かんでいる。
 怒りをやり過ごした相手に安室は内心で息を巻いた。十分揺さぶれたと思ったのに、これでも突き崩せないのかと。

「相手を怒らせて情報を取るの?ドラマみたいだね。弁護士呼んでもらおうか」
「……手強いですね」
「頭のおかしい客の相手もうまいって評判だったから、あたし。まあそれどころかあんたは悪党で犯罪者だけどね」

 男はぴくりと反応する。
 まただ。以前のキャンティとコルンとの任務の時もそうだが、真美はたまにこうして「犯罪」という言葉を使った。仕事に関しては並みの手腕ではないが、まるで自分は違うというような口ぶりでいる。彼女も今では立派な悪党の一員だが、本当に諜報機関の息がかからない民間人だとでもいうのだろうか?
 浮かんだのは分からないことへの苛立ちと、もしかしたらわずかな憐憫だったかもしれない。だから安室透としてもバーボンとしても意味のない問いが、つい口をついて出てしまった。

「戻りたいんですか」

 元のように普通の会社に戻って、毎朝起きたら出勤して、名前を隠すこともなく。営業成績に一喜一憂しながら、安心できる家で大切な人と退屈に暮らす。そんな光の溢れる安寧のなかに。
 真美はやっとサラダとフルーツヨーグルトを平らげ、半分だけ齧っていた冷めたデニッシュロールを食べ終えた。バターの練り込まれた生地が昨日の嘔吐で荒れた胃にズシリとくる。ナプキンで指を拭ったあと、ピンの抜け落ちた蝶番のように、彼女はふとなにかが欠けた表情をした。

「戻らない」

 醒めた目が瞬きをする。
 女の瞼を光らせるアイシャドウと黒いアイライン。マスカラの乗ったまつ毛が彼女の一瞬覗いた鉄のような無表情を覆い隠し、明るい朝陽によく似合うあっけらかんとした笑みに変える。

「壊れたものは戻らない。
 知ってるでしょ、バーボン」

 カラン、とドアベルが鳴る。
 女はモーニングセットには少し多い金額をテーブルに置き、ごちそうさまと笑顔のまま去って行った。焦げ茶色のよく磨かれた椅子に手をついて、安室は体勢を崩さないままに脱力する。これなら張り倒された方がいくらかマシだった。窓から見える赤茶けた長い髪が揺れるのを見送りながら、ひどく嘆息する。

「ええ、そうですね……」

 あなたのいう通りだ。
 もう返事のない相手に、男は誰にも聞かせる気のない声で、そうつぶやいた。


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