5月14日、横浜市の倉庫街。
 初夏の蒸し暑さを感じながら、女は車をゆっくりと走らせていた。営業先との会議を終えて帰路につくころには日も落ちた20時。携帯の履歴を上からなぞり、目当ての相手に電話をかける。
 雨が降りそうな湿った匂いに、雲間から降り注ぐ月の光に照らし出されたシルエット。幸か不幸か、互いになにも気付かぬまま、運命の夜が動き出す―――。


 どうにも上手くない。
 長いし説明は足りないし古臭い。私がシャーロック・ホームズや明智小五郎のような世紀の名探偵だったのなら、天才的な推理力に惚れこんだ助手や弟子が手記を残しておいてくれるかもしれないが、残念ながらそうではない。
 よって自らストーリーテラーをやるしかなかった。といっても別に既に起こってしまった出来事とこれから起こるきな臭い事の真相を記したいわけでもない。傍から見ればまったく無意味で、世界中の人間にとって関係のないオカルト話で、あってもなくても構わないようなことだから。
 それでも私にとっては一世一代、命を天秤にかけても行わなければならなかった「ホワイダニット」―――つまりミステリで言う「動機」にあたる部分くらいは、自己紹介として提示して良いと思う。

 名前を稲葉真美。あるいはジンジャーと呼ばれ、ある男の言い草を借りるなら「酔えないイカれ女」。
 日本という平和な国で生まれ育ち、いち会社員として生きていた私が犯罪を主な事業内容にする組織に飛び込んだときの名台詞は、ざっと以下のとおり。

「死んだ大事な人の仇をとるためにこの組織に辿り着きました。勘は良いし仕事はできる方です。損はさせませんので、どうぞここに置いてください」

 それが真実で、馬鹿な嘘だ。



 XXXX



 例えばこれがミステリーなら、彼女ほど探偵役に相応しくない者はいない。探偵は現場に残された証拠をくまなく探り、ひとつひとつ非現実的な推理を捨てて、最後に残った真実を暴き出すから探偵なのだ。"ともかく推理をすっ飛ばして犯人を一足飛びで特定する話"なんて誰が見たいだろうか。
 稲葉真美は生まれつき「他人の影」を視ることができる。
 影は普通、太陽に照らされたままに映し出されるが、殺意や悪意、罪の意識やそれを隠そうとすると濃く大きくなる。いわゆる音に色がついて見える「共感覚」と似たもので、他人から感じる"嫌な感じ"が可視化されたものと考えていいだろう。それは感覚であって根拠に乏しく立証も不可能だが―――大きな影を背負っている人物は大抵、犯罪や倫理的禁忌を犯していることが多い。

 そういう意味では彼女の所属する「組織」は、この国では他に類を見ないほど大きな影を地に落としている。
 決して関わらないようにしていた影が今では自分にも翳っているだなんて、一体何の因果なのだろうか。決してまっとうな方法で稼いでいない金で一人暮らしにしては広々とした新築物件を借りている身としては何も言えない。広いベッドもブラインドカーテンも観葉植物も革張りのソファも、一度手にしてしまったら手放せない、愛すべき快適な家だ。
 時刻は13時。たいていの社会人ならとっくに出勤して仕事に勤しんでいる昼過ぎに、真美は着信音でやっと目を覚ました。寝ぼけていたのはほんの一瞬のことで、すぐに頭と声色を整えて通話ボタンを押す。

「はい、ジンジャー」
『オレだ……任務に空席ができた。おまえが行って穴を埋めてこい』
「えー、今日っていうと港区の交渉任務かあ。もしかしてどっちか死んじゃった?」
『それ以外にあると思うか』
「じゃ……お線香あげないとね。それで生き残った幸運なボトルはどっち?」
『牧師の酒だ』

 痺れるような低い声を最後に電話が切れた。相変わらず周りくどい言い方が好きな男だ。耳に残る不気味な気配ごと払うようにシーツの上に携帯を放り出し、真美はベッドサイドに置いた小型のノートパソコンを起動する。
 彼女が所属する組織では、幹部は酒の名前で呼び合うというレトロ映画のような慣習がある。先ほどの電話の主はとびきりの悪党で、カクテルによく使われるジン。そして今日任務にあたるはずだった二人のうち、牧師に関係するのはエライジャ・クレイグ牧師によって作られたとするバーボンの方だろう。
 真美はビール一杯で吐くような下戸だ。だからなのか、幹部となった今も「ジンジャー」なんてノンアルコールの名前で呼ばれている。酒なんてまったく自分の人生に関わりがないと思っていたのに、無駄な知識ばかり増えていくから困りものだ。

(バーボンって誰だっけ。探り屋?スナイパー?)

 組織のデータベースにアクセスして名前を検索する。このリストを十分の一でも警察関係機関に売り飛ばせば一生遊んで暮らせるような額が手に入るのだろうが、目的と命には代えられない。
 やがて辿り着いた探り屋のページに出てきた写真があまりに可愛らしいベビーフェイスだったので、真美は思わずわっと小さく声を上げてしまった。

「うっそ、若〜い!」

 29歳。犯罪組織になんか所属してなければ、大学卒業後から勤めている会社でポジションでも貰えそうな年齢。とてもそうは見えない若々しく非凡な甘いマスクを確認したあと、真美は洗面所で身嗜みを整えはじめる。
 鏡に映るのは年相応の落ち着きを持っているかどうか微妙な姿。目元のはっきりした印象はあるが、化粧を施したところでバーボンやベルモットに比べれば凡庸な顔立ちだ。
 体にぴったりと沿うワンピースは、ボトルネックの首元に銀の飾りボタンが連なっている。服に袖を通し、バングルをはめて耳元をイヤリングで飾れば、「ジンジャー」が鏡に向かって愛想を振りまくようににっこりと笑う。

「よっし、行くぞお」

 ジンの指示だろう、ウォッカから任務に関する資料が送られてくる。それに礼の返信をし、バーボンには日時を伝えるメールだけ送信しておいた。
 時刻は17時ちょうど、品川駅前の喫茶店ブルーミラーズの窓際で。



 XXXX



 昔に比べて調べものが圧倒的に手軽な時代になった。こそこそと潜入したり必死に顔を隠しながら聞き込みをしたりしなくても、ある程度まではPC経由で調査できるのだから、ネットの恩恵は計り知れない。
 固定回線は避けて公共のWi-Fiを使い、足のつかない端末を使用する。それだけでハッキング先から特定される危険性はかなり減る上に、白昼堂々とカフェでコーヒーでも飲みながら仕事ができるのも大きなメリットだろう。

(いや〜、社会人に戻れないなこりゃ)

 組織をクビになったら能力を活かして私立探偵にでもなるのがいいかもしれない。その時に首と胴体が無事につながっていたらの話だが。こうしてキーボードをひとつ叩くだけで十は法を破っているし、下手を打てば両手が後ろに回るというのに、女は一向に躊躇わなかった。
 待ち合わせ時間まであと20分。ふと窓枠の奥から見える歩道に画像で見覚えのある姿を見つけたジンジャーは、携帯を取り出して窓の外へ電話をかける。 

「や、どうも」
『はい、ご用件は?』
「今日の件だけど、打ち合わせ今からでいいかな。もう店にいるんだよ」
『ええ、構いませんよ』

 跳ねるような明るい声に若々しさと深みのある声が答える。ドアベルをカランと鳴らして店に入った青年が、真っ直ぐに窓際の席へと歩いてきた。襟の詰まったダブルボタンの黒いジャケットにグレーのパンツルック、褐色の肌に明るい髪色、写真と違わぬ端正な顔立ち。
 コードネーム・バーボン。
 情報収集と観察力・洞察力に恐ろしく長けた探り屋。ベルモットと並ぶ秘密主義者で、ジンからはやや煙たがられている。顔に似合わない身上書を持つその男は、席に座るジンジャーに向けてとても魅力的な微笑みを浮かべた。

「"ジンジャー"ですね」
「早い到着だったね、"バーボン"」
「そちらこそ。今日は突然の要請に応じていただいて感謝します。今回は一人だと難しかったもので」
「いえいえ! バーボンと仕事するのは初めてだったね。けっこうデカい額が動くみたいだからあたしとしては役得って感じ」

 ジンジャーはほとんど直感で、彼は本当に組織の人間なのか?と首を傾げた。この組織の人間は一様に酷く濃い大きな影を背負っていて、はじめは吐き気がするほど不気味だったものだ。だが彼には似た影はあっても何となく差異というか、違和感があった。
 だが、何も言わない。真美にとっては仕事に支障がなければ構わないし、誰にも説明できないただの根拠のない感覚だからだ。
 バーボンはジンジャーの向かいに座り、水を持ってきた店員にアイスコーヒーを注文する。窓からの光はテーブルの上ばかり照らし、壁を渡るパーテーションに遮られて、誰の目も届きにくい。内密に人を待つにはうってつけの席だ。

 今回の彼らの任務は、簡単に言えば密輸業者に探りを入れることだった。裏家業において密輸ルートは命綱。その監視も重要な仕事だ。組織で利用しているいくつかの密輸業者のひとつに怪しい動きがあったので、それを調査・報告するのが二人の仕事である。
 不幸にも血生臭い理由でできた空席を埋める必要があったのは、アポイントを取った人数が決まっているからだ。この密輸業者は表向き普通の貿易会社を装ってはいるが、こと交渉においてはまったく隙がない。直前に何らかの変更があれば必ず日時をずらしてくれと言われるだろう。そのためにオフだったジンジャーが投入されたというわけだ。

「薬か美術品系か……薬が出回ると警察の動きが良くなるから嫌いなんだよねえ」
「日本の警察は優秀ですからね」
「そうなんだよ! 指紋ひとつ唾液一滴で色々バレちゃうご時世ですから、悪いことはできないね。まあ、ほら、助っ人の分際で手土産も持たずに来るのも何かなと思って、一応お調べしてきましたよ、旦那サマ!」

 彼女はにこにこと人好きする笑顔を浮かべながら、印刷したてのA4用紙を数枚バーボンに手渡した。内容を確認した彼は素直にへえ、と感心したように微笑みを浮かべる。
 バーボンははっきり言って、あまりジンジャーに期待はしていなかった。というのもこの組織には諜報向きの人間が実働部隊に少なく、専ら潜入捜査に駆り出されているのが現状だ。調査能力に自信のある彼にとって余計な手伝いはかえって邪魔になるのだが、今回はそうではないらしい。探り屋は情報を手に入れるルートを確約できれば仕事の8割を終える。そういった意味でいえば、この書類はほぼ完璧といえる出来だ。
 だからこそ、彼の悪い癖が出た。

「話をしても?」
「どうぞ、どうぞ」
「ジンジャー、貴女の面白い噂を聞きましてね。死んだ恋人の仇を取るためにこの組織に入ったとか、ジンに直訴してこの組織に入ったとか、元々はどこにも所属していなかったただの会社員だとか、軍事特殊部隊の手練れだとか……」
「おっとお?」

 てっきり任務内容に関する話かと思っていたジンジャーは、面食らってカフェオレのグラスを落としかけた。バーボンは相変わらず微笑みを浮かべている。
 なるほど、彼の本領発揮か。
 探り屋の笑顔の向こうには、油断なく光る瞳がある。男の予想ではジンジャーはこれに答えず愛想笑いではぐらかし、話は仕事にスライドする。それで構わない。ひとつでも単語に反応すればそれを糸口にするつもりだった。彼女はやはりぱっと明るく笑って、しかしバーボンの想像よりもはるかに簡単に口を滑らせる。

「軍事特殊部隊ではないな〜アハハ、それだったらもうちょっとこっちの扱いが上手いって!」
「おや、撃つのは苦手なんですか」
「そーいうの全部苦手なんで」

 確かに見たところ、ジンジャーは服に銃を携帯している様子はない。PCが入るだけの薄型カバンにも忍ばせるのは難しいだろう。体格もおおよそ女性の平均。人の良さそうなあっけらかんとした表情は、いかにも本当のことを言っているように見えた。
 企業とのアポに赴くため、残りの時間は話す内容と名刺や資料の確認にあたる。日差しが温める席で2杯のコーヒーが少しずつ減り、ひととおりの読み合わせが終わった頃には空になっていた。

「じゃ、ちょっと早いけど行こうか」
「そうですね、こんなもの時間をかけるほどの任務でもない」
「車はあたしが出すよ。バーボンは資料読みこんどいて。さて、何が出るかな。あたしは盗品だと思うけど」
「さて、どうでしょうか?」

 会計を済ませ、二人は軽く言葉を交わしながら隣のホテルにある地下駐車場を目指す。ジンジャーがリモコンキーを操作すると、大型のスポーツカーがランプを点灯させた。
 日産のフェアレディZ、ボディカラーはダイヤモンドブラック。スマートで重厚感のある男の憧れを詰め込んだような車体に、シートの随所に使われたボルドーのステッチが目を引く。女は宣言通り慣れたように運転席に座り、Zの刻印鮮やかなハンドルを握った。

「いい車ですね、ジンジャー」
「でしょ! まだ一回も傷つけてないから"美しいお嬢さん"のままだよ。外から見たら男っぽいからあんまり煽られないし」
「アハハ……」

 ドアを静かに閉めてシートベルトをする。車内には食べ物や煙草の匂いもせず無臭で、携帯のホルダーと充電用のケーブルだけが置かれていた。外では今から商談に向かうサラリーマンや、荷物をトランクに詰める家族連れ。子供をベビーシートから下ろす親子の話し声が聞こえる。
 目的地までの道を軽く確認するジンジャーを横目に、男は資料用紙を上から眺めながら何の気なしに尋ねた。

「それで、どれが本当なんです?さっきの噂」

 探り屋の性質か、生来の性格か。
 女は気を悪くするでもなく運転席のホルダーからサングラスを取り出し、気取ったようにかけて笑ってみせる。黒ずくめの服をきた女がレトロな丸型の色メガネをかけているなんて、紋切り型の怪しいチャイニーズマフィアのようだが、それが妙に似合っていた。

「実はだいたい合ってる」
「ええ?」
「死んだ大事な人の仇を取るためにジンに直訴して組織に入ったただの会社員ジンジャーです、よろしくゥ!」

 セレクトバーをDの位置へ、パーキングブレーキを解除してアクセルを踏み込む。地下の坂を上がり、黄色い車止めを越えて大通りへと入ると、カーブを曲がるタイヤがキッと短く鳴った。スピードを上げても揺れの少ないシートで、バーボンは思わず苦笑いを零す。
 とんだ食わせ者だ。
 道を駆け抜けるフェアレディが衆目を集めている。こんな目立つ車に乗っている人間が今から犯罪に手を染めるだなんて一体誰が想像するだろう。向かうは漆黒の夜の海、違法取引の巣窟だ。







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