「暇だわ」
「じゃあ、何か話しますか?」

 25日、午後14時。
 相変わらずお腹は減っているが、未だ退室は許してもらえそうにない。余計なことを口走らないようにさりげなく隔離されているのは助かるが、隣に立っている彼の言うとおりかなり退屈だ。
 それにしても「安室透」でいるとこの男はやけに物腰が柔らかくなるので、裏の顔を知っている身としてはやや気味が悪い。あまり柔和な笑顔を視界に入れないようにしながら、とりとめもなく口を開いた。

「一人暮らしだっけ?」
「はい、そうです」
「家に一人でいて部屋真っ暗にするとさあ、ここで死んだら数日は見つからないんだろうなとか考えない?」
「ちょ……っと暗い話題ですね……」

 一人暮らしあるあるのつもりだったが、確かに誘拐現場には縁起でもない話だったかもしれない。安室は甘いマスクにひきつった苦笑いを浮かべながら「まあ、わかりますよ」と軽く話を合わせてくれる。

「しかし、ずいぶん余裕ですね。貴方も一応容疑者の一人なんですが」
「私ちゃんとアリバイあるし」
「でもそれは、あなたが本当に休日に買い物を楽しんだ"五十嵐真美"であったら……の話ですよね?」
「あ」

 小声で囁かれた言葉にはっとして口元を押さえた。組織に加入してから本名義のクレジットカードは使用していないから、履歴は問題ない。だが自分が顔と名前を偽った別人になっていることが露見してしまえば、アリバイは水の泡だ。
 それどころか五十嵐真美が存在しないとなると、安室の用意した嘘まで暴かれるという大惨事の巻き込み事故になる。やっと状況を正しく理解し、さてどうしたものかと悩ましく腕を組んだ。

「じゃあ、あそこの紳士」
「小磯さんですか?」
「嘘ついてる」
「え?」
「ここに食べに来たのが初めてなのは本当かもしれないけど、料理長とは面識がないってのは嘘だと思うよ」
「それ、どういうこと?!」

 ぱっと小さな影が机に乗り上げる。
 現場をちょこまかと動いていたコナン少年に聴こえてしまったのか、飛ぶように近くまで来て問い詰められた。安室も理由を知りたいのか興味深そうに静観しているので、なんと答えたものかと顎にぴたぴたと人指し指を当てる。
 
「別に根拠ってほどじゃないけど、毛利小五郎に犯人扱いされたらもっと焦るんじゃない、普通は」
「確かに……池田さんや川瀬さんに比べて小磯さんは冷静だったかもしれない。けど、本当にそれだけ?」
「私、人が嘘は分かるの」
「じゃあ、勘ってこと?」
「そんなもんかな。でもわりと確かだよ。彼は何かを隠すために嘘ついてるし、厨房に気になることもあるみたい」

 こじづけるのなら理由はいくらでもあるが、探偵二人の前で高説を垂れるほどの根拠ではない。私はただ彼らが毛利探偵と話しているときの影の揺らぎを見ていただけだったし、表面上は小磯には挙動不審な様子は見られなかった。
 だが影は嘘をつけない。
 それはつまり、意識的に「動揺しないようにしている」ということだ。彼が犯人ならここに赴いた時点で事件に巻き込まれ、最悪の場合には警察が来ている事態は想定していたことが窺える。もっとも、探偵がこんなにぞろぞろと来るのは予測できなかっただろうが。

 コナンと安室も私の言葉が事実だとしたらという仮定に基づき、同じ結論に達したらしかった。ぱちっと何かを閃いたような表情。すぐさま探偵たちが走り出し、仲良く厨房へと向かったと思えば、安室だけがすぐに戻ってくる。

「五十嵐さん、お昼がまだでしたらお腹が減っているんじゃないですか?」
「? そりゃもう腹ペコだよ」
「では何か用意しましょう」
「キッチン誰もいないんじゃないの?」
「僕が作りますよ。何せ最近は喫茶店の店員でもあるので……」
「色々やってるね、あんた……」

 私の返事を聞く前にニコッとまぶしい笑顔を浮かべ、安室は勝手に厨房へと入っていく。従業員たちはコナンに足止めされているらしい。他の人間は不思議そうに首を傾げているが、小磯だけは平静を装いながらも影が揺れていた。
 しばらくするとニンニクと赤唐辛子をオリーブオイルで炒める香りが漂ってくる。あまりにいい匂いなので急激に食欲が湧いてきた。ジュウジュウという香ばしい音のあとすぐ、皿にパスタを乗せた安室が厨房から顔を出す。

「どうぞ、鰯とレモンのパスタです」
「えー! 美味しそう!!」
「最後にレモンペッパーを……」

 彼が片手に持った木製のペッパーミルを持ち上げると、机に置いた皿に向かってそれを向かわせる。手首を捻らせて小さな粒が料理に落ちる瞬間―――

「ダメだ!!」

 白髪混じりの紳士、小磯清司が掴みかかるように制止した。一瞬で安室の視線が鋭くなり、身をひるがえして彼を取り押さえる。その瞬間離れた場所にいた毛利小五郎が「はにゃ」と妙な声を出しながらどさりと背を椅子に下ろした。
 眠りの小五郎!
 首を俯かせて堂々と席に陣取り、ハードボイルドなその姿。本当に眠っているかのような体勢は新聞で見る姿そのものでドキドキする。

「やはりあなたですか、小磯さん……あらかじめ平泉さんが私的に愛用している胡椒に薬を仕込み、意識を奪って誘拐した。そうですね?」
「………ここのオーナーは……料理人の風上にも置けない。私の命より大事なレシピを何度も盗んでは、私のレストランより先に発表した……!」
「まさか、そんな!」
「平泉のやっていたことは卑劣な侵略だ! 料理人の誇りにかけて、奴を許すわけにはいかなかった!」

 小磯清司―――聞けばイタリアンレストラン「テティス」の料理長であり、被害者の平泉克成の兄弟弟子であった彼は、昔から新作レシピの盗難を受けていた。先んじて発表されては自分では発表できない。幾度も脅威と屈辱に晒された彼はいつしか、戦うしかないと追い詰められて実行に移したという。

「この事件が明るみに出れば、このレストランはどのみち経営が困難になる。貴方の望み通り店は終わりでしょうな」
「ああ、清々するさ!」
「……しかし、貴方は大切に扱うべき食材に薬を混ぜて犯罪に使った。それで、あなたの『料理人としての誇り』は本当に守れたんですか?」
「……!!」

 毛利小五郎の静かな言葉に彼は愕然として膝をつき、誇りのために戦ったはずの男は呆然自失として何も喋らなくなってしまった。
 推理ショーは見事に終わって、犯人は警察に身柄を確保される運びになった。小磯の車のトランクから料理長は見つかり、軽い脱水症状以外は命に別状はなかったらしい。パク、とパスタの最後の一口を食べて聞き耳をたてるのを終える。

「ごちそうさまでした」
「食べてたんですね」
「美味しかったよ」
「えー!お姉さん帰っちゃうのー?」

 コナンくんが足元に抱きついてきたので、いつの間にこんなに懐かれたのかと不思議に思いながら抱き上げる。平均を超える美貌だと子供にも好感度が高いのかもしれない。そして無邪気にじゃれつく彼の手がふと迷いなく首元に伸びて―――思わず強く振り払ってしまった。
 まずい、落ちる!
 ばっと小さな身体を慌てて抱きとめると、安室も咄嗟に手を伸ばしていた。危なかったがギリギリセーフだ。

「ごめん、大丈夫!?」
「だ、大丈夫っ」
「アハハ、お姉さん首が弱点なんだよね。触られたら死んじゃうから、許して」

 柔らかく言いながら視線で「二度とやるな」と嗜めると、子供は慌てたようにじたばたし始めたので床にゆっくり下ろす。安室はやはり私とこの奇妙な少年を接触させたくないのか、間に入るように身体を滑り込ませてさりげなく距離を取らせてきた。

「さて、では僕が送りますよ」
「嫌よ私の車なんだから。私が運転、あなたが助手席」
「はいはい」
「じゃあね、コナンくん」
「う、うん」

 さて、五十嵐真美はお役御免だ。
 探偵と元容疑者たちへの挨拶もそこそこに、やっと膨らんだお腹をさすりながら店を出る。駐車場に停めたフェアレディに乗り込んで口を開こうとすると、安室が「しー」と人差し指を唇に当てた。
 なんだ?と思って動きを止めると、彼の手がそっと私のハンドバッグに近づいて、小さなボタンのようなものを手に取った。見覚えのない非常に小型の―――盗聴器だ。
 心当たりは一度だけ。
 二の句の告げない私にバーボンは不敵に笑って、それを力任せに圧し壊した。

「あの子マジで何者?」
「さてね、興味深い子ですよ。
 ……貴方はてっきり僕の仕事をめちゃくちゃにしにきたのかと思いました」
「ええ、なんで?」
「この前の発言の仕返しに」
「じゃ、悪いと思ってるんだ」
「まあ、多少は」
「アハハハ、『多少は』だって!」

 キーを回してエンジンを温め、駐車場から悠々と飛び出す。聴き耳を立てる者がいなくなった車内で男はすっかり「安室透」から「バーボン」に切り替わっていた。日が長くなってきた空は水色からゆっくりと黄金色に染まりつつある。金色の光がハンドルを切る右手に落ちて美しい。
 これはただの所感だが、「安室透」のほうが嘘がない。少々かわい子ぶってはいるものの、他人を気にかけ柔らかく話しかける姿は偽りではないと感じた。咄嗟に子供を助けようとするところもだ。だからというわけではないが、あまり嫌味に聞こえないよう努めて軽く答える。

「別にいいよ。怒ったってお腹減るだけ。何も良くならないし、誰も帰ってこない」
「―――けど、プライドや怒りが人を死から救うこともある。死者のために怒るのは決して無駄じゃないはずだ」

 強く捩じ伏せるような声だった。
 はっと無意識に息を飲む。あきらかに何かが彼の琴線に触れて、弾かれるように表に出た言葉だ。彼は口にするつもりはなかったらしいが、しかし撤回する様子もない。本心なのだ。それにほとんど引きずられるようにして、私も決して言うつもりのなかった強い言葉が体の外へと出ていく。

「あたしも死ねないし、生きてればいつか報いることができる気がしてた。もちろん今だって思ってる」

 気配のある左側が強張る。揺らめく炎のような影が満ちて息が苦しい。どれだけ悪徳に身を染めても消えない芯。これほど真っ直ぐな魂を持つ彼が、どうしてこんな犯罪組織なんかにいるのだろう。
 「怒り」のためなのか?
 それとも「誇り」のためか?
 どちらにせよ、自分には寄る辺のないものだ。やはり彼は優秀で、私の持っているものは全て持ち、欲するものも全て持ち合わせている。ここまで違うといっそ比べて悔しがる気にもならず、いつのまにか自嘲とともに情けない声を絞り出していた。

「でも生きてるって、思ったより報われないね」

 カチ、カチ、と光るランプ。
 信号が赤になってブレーキを踏む。はじめ彼を助手席に乗せるのはあまり気が進まなかったが、今はそれに助けられていた。彼が一体どんな顔をしているのか見なくても済むし、どんな言葉すらも拒否することができる。
 それでもなにか音が欲しくて、断りもせずにラジオの電源を入れた。安室はなにも喋らない。場違いな明るいポップスが沈黙の輪郭を強め、車内は静けさに包まれている。やがて信号が青になっても、望みどおり会話が再開されることはなかった。









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