ぽつん、と水が紙に落ちる。
 そのまま空の部分に筆を滑らせ、青色を薄めながら伸ばしていく。外は少し暗くなってきただろうか。西日が差してきたら色が変わって見えてしまうので、それまでにはもうちょっと進めたいところだ。
 忍足くんはたまに口を開くだけで、あとは熱心に私の手元を見ている。じっと何もないところを見つめる猫のような目線は、自分の世界にトんでるようにもみえた。水色を足す。白をかすかに重ねる。ふっと息をついて水に筆を入れた。

「うし、今日のぶん終わり!」
「お疲れさん」

 忍足くんが目を細めて笑う。私も思わずにこり笑い返した。今日はいい日だ。
 「洗ってくるー」と声をかけて汚れたものを洗い場に運ぶ。プラスチックのパレットは色が定着すると落ちないので念入りに洗い、ふきんで拭いて教室に戻る。椅子に座ったままの忍足くんが、私の描きかけの絵を見ていた。
 外はうっすらとピンクがかった朱色に染まりつつある。横顔の輪郭もその色に光っている。きれいだな、と思った。

「なになに、気に入ったん?」
「うん。色綺麗やなあ」
「やったー!めっちゃ嬉しい!明日か明後日には完成すると思うで。ほら、掲示板に貼ってあった公募ポスターのやつ」
「そうなん?また頼まれもんかと思ったわ」
「これは図書カードもらえます」
「なるほどな」

 グラウンドからは運動部が部活をしてる声がする。すぐ帰るにはもったいない時間だ。よっこいせと目の前に座ると、彼は絵を置いてこっちを見た。
 なんとなくドキリとする。
 レンズ越しの瞳が、まっすぐこっちを見つめていた。熱い眼差しだ。火みたいに揺れている。胸に予感がよぎった。

「あのな」
「あっ あーー! ちょっと待って!」

 忍足くんは目をぱちくりさせる。こんなに改まって切り出される話といえばひとつしかない。私は反射的にあげた手をそのまま眉間にやり、古畑任三郎ばりの白々しい動きをしてしまった。
 いや、だって、雰囲気がさあ!

「まだ何も言うてへんやん」
「違っ、いやっ、これ勘違いやったらごめんやねんけど、いやまさかとは思ってんねんで?」
「いやたぶん思ってる通りやと思うで」
「ちょっと待って心の準備できてないしまだちょっと早いっていうか、あかん、もういい、私が先に言う!!」

 うわーー!!作戦崩壊ーー!!
 忍足くんから伝えてくれるなら作戦成功万々歳!と思ったのに、勝手に口から出た言葉は回収できない。だって、そりゃあ、玉砕するならひとおもいに自分からぶつかって砕けたい。
 しかしさすがに忍足くんも譲る気にはなれなかったのか、机に身を乗り出して言い返す。

「なんでやねん、俺が初めてんから俺に言う権利あるやろ!」
「いやそんなん言うたら絶対私の方が早かったし私の方が強いから!!?」
「早いとか強いとかちゃうやろ?!いやいや俺かてめっちゃ悩んだし、待たせたん俺やし、ちゃんと言いたいっていうか……いや、俺が言うから!」
「私が言う!」
「俺が言う!」
「私!」「俺!」

 はあはあ、と肩で息をする。
 お互いに一歩も譲らぬ戦いだ。なぜこんなきれいな金赤の夕日のなかで言い合っているのか。なんかもっとこう、ロマンチックな感じになるはずのシチュエーションではないのか、これは。
 忍足くんも似たようなことを考えていたらしく、ばっと腕と腕でTの字を作った。

「タイム!」
「認める!」
「言うてる場合ちゃうねん。はあ、もう、なんやこれ、めっちゃカッコ悪いわこんなん……アホちゃうか……?」

 机に突っ伏して脱力し、忍足くんは唇をとがらせる。最近めっきり大人っぽくなった彼には似合わないくらい、情けなくてあどけない表情だ。
 ということは、もっと格好いいシチュエーションを用意してたってことなのだろうか。それを考えると可愛くてちょっと笑ってしまう。

「ふっ」
「何笑ろてんねん」
「いや、ふふっ、忍足くんの今の顔カワイイなと思って。ごめん、私のせいやねんけど」

 私がこらえきれず笑いだすと、忍足くんはますますへそを曲げたふうに頬杖をつく。もうそれすらも可愛くて、私の顔はへらへらと緩みっぱなしだった。
 やがて、あっちからもふっと笑い声が漏れる。私が笑っていて忍足くんが我慢できたことなんて、今まで一度もない。彼はいつものようにひとしきり笑ったあとの、「しょうがないな」という柔い顔で、今一度私を見る。
 
「……俺は、きりちゃんの……一生懸命なんか書いてるときの顔が好きやねん。めっちゃ照れ屋なとことか、いつも笑顔なとことかも」
「あ、う、うん」
「女友達と好きな人って何が違うんやろって、色々考えてんけど」
「うん」

 絵本の読み聞かせみたいに、じんわり優しい声だ。不安でひきつっていた体がほぐれて、なんにも終わっていないのに安心してしまいそうだった。
 たぶん、大丈夫。
 たぶん、たぶん、似た気持ちでいる。
 それでも言葉は必要だと思う。どれだけ一緒にいても、他人の心なんて分からないから。ああ、でももう、もどかしくて暴れだしそうだ。

「きりちゃんのこと、他のやつに取られんのは嫌やわ。きりちゃんは違う?」
「ち、がわ、へん」

 私はもう泣きそうだった。
 先生の言葉を思い出す。友達に言われたことを思い出す。胸のなかを走り回って、もっとも心に近い答えを探した。

「私は、忍足くんが」
「ん、」
「笑ってくれたら嬉しいし、調子悪そうやったらずっと心配やし、優しくしてくれるから、優しくしたげたいし、一緒に帰れたら、今日はいい日やなあっておもうし……だから……」
「………」
「お、忍足くんが、ほんまに一番好きっ」
「うぅッ」
「ぐぅう……ッ」

 言い終わった瞬間、二人してうめき声をあげながら机に突っ伏す。心臓を口から出さないためにはこうするほかなかった。普段バカみたいに騒いでいる相手に、真面目なことをいう恥ずかしさったら、数値にしたらひと一人殺せるレベルである。  
 もう、なんか、痛み分けという感じだった。

「……じゃあ」

 しまった、奴の復活が早い!
 ちょん、と指先に指が触れた。ラケットを握る堅くて熱い指。逃げないでいると、そのままぎゅっと握られる。顔を上げたら、たぶん私に負けないくらい真っ赤になった忍足くんが、真面目な顔で言った。

「俺と付き合ってください」
「ひぇえ」

 思わず悲鳴があがった。 
 なんでここまで来て今更、とかもう恥ずかしくて死ぬから勘弁してくれ、とか急にカッコイイことをするなとかいろいろ言いたいことがあったのだが。
 私はもう忍足くんに釘付けで、すでに脳みそが熱でトロトロに溶けてバカになっていたので。

「はい」

 と、応えるしかできないのだった。







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