飼い犬の朝はなかなか早い。
 太陽が頬を舐めたら瞼が開く。毛の長いカーペットの上で欠伸をして、すぐに目を覚ますことができるのがクランの特技だった。傍にあるベッドからはみ出した長い腕に体を滑り込ませて、鼻づらで手のひらを押す。若さま、朝だよ。

「ンン……わかった、わかったクラン。もう起きた」
「はァい」
 
 まだ眠そうな掠れた声。ベッドサイドに置かれたサングラスをかける音を聞いて、クランはすぐに部屋を飛び出した。

 ドアを跳ね開けると、ちょうどニュース・クーが飛んできたところだった。太陽の中から落ちてきた新聞をキャッチして、代わりにコインを投げ渡す。一面には最近勢力を伸ばす悪徳海賊団の話題で持ち切りだった。
 ドンキホーテ海賊団「番犬」、新聞を騒がせる名は「バンダースナッチ」。狼少女のクランが拾われてから、三年の月日が経った。ちなみに番犬はいまだにドフラミンゴの寝室の床で寝ている。

「あ」
「………」

 アジトに戻ると、クランは背の高いピエロメイクの男に遭遇した。二代目「コラソン」のロシナンテである。目が合った途端に冗談みたいに長い脚が迫ってくるが、いい加減慣れているので危なげなく避ける。股の間を潜り抜けると、彼は足をとられてすっ転んだ。ざまあみろ。
 男は相変わらず何も言わず、実際何も喋れないのだろう。小さくため息をついたあと、半ば諦めたようにそのまま踵を返す。子供が嫌いだと言うわりに執拗でもない。よくわからない男だった。

「若さま、新聞!」
「ご苦労」

 ダイニングには既に着替えたドフラミンゴが一番奥に座っていた。黒いスーツにピンク色のフェザーコート。ほかには誰もいないのをいいことにクランが傍まで走っていくと、新聞を受け取って長い腕が難なく抱き上げてくれる。
 まるで愛犬がじゃれついてくるのを止めない主人だ。甘えることを覚えた飼い犬はつい調子に乗ってしまう。自分の皿を無視して物欲しそうに彼の白い皿を見つめると、いつものようにドフラミンゴが笑った。

「お前のぶんも用意させてるぞ」
「若さまのがいい」
「しょうがねえなあ」

 朝食は焼き立てのワッフルに、ジャガイモと玉ねぎの入ったオムレツ。瑞々しい野菜のサラダ。ナイフとフォークで綺麗に切り分けられたワッフルを口の近くまで持ってきてもらい、クランはそれにかぶりついた。
 いつもなら他の幹部連中がいて、若様になんて無礼なとか、行儀が悪いとかで引きずり降ろされてしまう。だからこうしてゆっくり甘やかしてもらえるのは貴重なのだった。
 甘くないふわふわのワッフルに、ミルクコーヒーを半分。堪らなく美味しくて幸せだ。

「フッフッフ、美味いか?」
「うまーいっ」

 クランが年相応の少女らしく笑い声をあげる。ここ最近彼女は本当に人間らしい表情をするようになった。
 ピーカ軍の特攻部隊に配属されてからの成果も目覚ましい。グラディウス、バッファローと組むことの多いクランは、鉄砲玉と露払いとしておおいに活躍していた。
 鍛えられたローも順調に成長しており、その役目を十分に果たしている。ドンキホーテ海賊団は文字通り破竹の勢いでリヴァースマウンテンへ手を伸ばし、その活動範囲を広げはじめていた。



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「ベビー5そんな名前なんだァ」
「ちょっとヘンな感じよね」
「クランは本名なのか?」
「それは若さまがつけてくれたから」

 気候の厳しい冬島を超え、今度は穏やかな陽気の島だ。久しぶりに特に予定のないベビー5、バッファロー、クランに引っ張られてきたローが、子供でひとまとめになって雑談をしていた。
 話題は本名についてだった。ファミリーでは基本的にコードネームで呼ぶことによって、もともとの素性をまわりに明かさないのがルールとなっている。とはいえそれは対外的なもので、仲間内でも隠し通すことを徹底されているわけではない。

「もとの名前は?」
「ウーン」

 クランは頭を捻った。言いたくないわけではないが、狼生活のなかでは「自分の名前」なんてものを意識したことがなかったのだ。檻の中では鞭のついでに狼だとか駄犬だとか、そんな名前で呼ばれていたくらいで。
 ベビー5とバッファローは興味津々とばかりに瞳を輝かせている。ローは興味なさげに広場の段差に腰かけ、足をぶらぶらとさせていた。それを見たクランは少しの悪戯心で、すっと息を吸い込んだ。

「ウォンッ!」
「ヒッ!」
「うおっ!」

 広場に響き渡る猛獣の鳴き声。ビクッと3人の肩が揺れる。ぎょっとしたような人目が集まり、クランはケラケラと楽しそうに笑ってみせた。

「もー!ビックリしたじゃない!!」
「ごめんごめん、でも、そー呼ばれてた」
「ワンって?どういう意味なの?」
「イミあったのかな? そういうふうに誰かが鳴くと、呼ばれてるなってわかるの」

 まんまと体を揺らしてしまったことに憤慨していたローは、ふと実感する。普段の暮らしぶりを見ていると察しはつくが、クランは本当に狼に育てられているのだ。それをどういう経緯でか、今は人として海賊になっている。
 元の人生をすべて失って。
 この海賊団の幹部は大方、不幸な環境からドフラミンゴにそれを救われて行き着いてくるという。ある意味ではローだってその一人だ。

「ローは?」
「は? なんでだよ」
「私達本名教えたじゃない!ノリ悪〜〜〜い、楽しくない!」
「楽しんだってどうせおれは死ぬんだ」

 ローはあくまでクールだ。別に名前を教えることにそこまで抵抗があるわけでもなかったが、ただ言う通りにするのが癪だった。

「だいぶ白いとこ増えてきたね」
「あと一年持つかな……おれの計算より死期早ェかも」
「死にそうなニオイしないけど」
「それより本名あるなら教えろだすやん! 2年前コラさん刺したの若にチクるぞ!」
「あ、オイ!」

 "いつ死ぬか""本当に死んでしまうのか"という部分に関して、子供たちは誰も頓着していない。長い海賊生活のせいで麻痺してしまっている部分だった。
 ローは自分の悪事を初めて知ったであろうクランの反応が気になったが、彼女は特になにも気にしていないらしい。これがドフラミンゴやグラディウスだったら違った反応だったのかもしれないが。

「トラファルガー・"D"・ワーテル・ロー……本当は人に教えちゃいけねェ名前なんだ」

 立派な名前だ、とクランは単純に思った。親が医者といっていたから、ちゃんとした家柄の子供なんだろう。氏や育ちや言動に出るものだ。ドフラミンゴもロシナンテもそうだが、所作や態度からそう感じるところがあったから。
 三人がわいわいと話している途中、クランは気配を感じて後ろを振り向いた。黒いファーコートを翻して速足で歩いてくる大男。クランは緩めていた顔を不機嫌に引き締める。

「―――わっ!!」

 いつから聞いていたのか、コラソンが後ろから無造作にローの体を引っ掴んだ。少年は全力で暴れながら抗議するが、男は意にも介さない。
 煙草を噛み締め、何かを必死に押し殺している―――コラソンの横顔はそんなふうにもとれた。

「あー、またイジメられる……」
「いつもより怖ェ顔してたぞコラさん」
「………」

 ベビー5とバッファローは心配が半分、好奇心が半分とばかりに二人を追いかけたそうにしている。クランは笑って後輩たちを脇にかかえ、一足飛びで建物の上まで駆け上がった。
 吉と出るか凶と出るか。
 ドンキホーテファミリーにとってある意味最も重大な局面に遭遇しているとは知らずに、三人は屋根の上から二人の邂逅を眺めることにする。


 ―――コラソンがローの病気を治すといって消えたのは、その次の日のことだった。









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