さて、おかしなことになった。
 アレクサンドル・キャッツは久しぶりにクラシックな黒のワンピースを纏い、一枚の絵画の前に立っている。近代絵画の扉を開いた後期印象派の巨匠ポール・セザンヌの静物画「リンゴとオレンジ」―――人類の宝とも呼べる傑作がこんな混沌の街に招かれたこともだが、異界人にも芸術を愛でる心はあるらしいことも驚きだった。
 ざわざわと賑わう展示場の中で、それもセザンヌの傑作の前だというのに、アレクサンドルの周囲はまるで見えない壁があるようにぽっかりとスペースが空いている。日傘を片手に静かに佇む彼女の後ろから、やっと人垣を縫って一人の男が歩み寄った。

「やあ、アレクサンドル」
「……ミスタ・ハマー?」

 旧知の友人のように親しげに声をかけ、彼はにっこりと笑って彼女の隣に並ぶ。頭からつま先まで隙のないブラックフォーマルのアレクサンドルとは対照的に、ドグ・ハマーは洗いざらしのTシャツにジーンズといったラフな格好だった。スマートで端整な顔立ちをしているせいかだらしのない印象は受けないが、とても外出許可を得た囚人にはみえない。肝が太いというか能天気というか、聞いたとおりの性格らしかった。
 デルドロ・ブローディとドグ・ハマー。パンドラムアサイラム(超異常犯罪者保護拘束施設)、最深下層極秘要塞の独房に収監される懲役1000年越えの凶悪犯。といっても犯罪者なのはデルドロ・ブローディのほうだけ―――聞いたときはいまいち意味が分からなかったが、アレクサンドルは「彼ら」を目の当たりにしてやっと理解が追いついた。

「まさに悪魔の所業だわ」
「セザンヌが?」
「……"貴方達"よ。仕組みは分かるけれど、あまりにもおぞましくて荒唐無稽だから理解したくない―――そんな感じ」

 彼女がそう言った瞬間、男の袖口からずるりと紐状の赤い液体が躍り出る。対吸血鬼に特化した恐るべき異能。アレクサンドルも少しは見慣れたつもりだったが、血液が人の頭になり、ナイフでジグザグに切り傷をつけたようにぱっくりと裂けて、それが笑みに変わったのにはさすがに頬が引きつった。
 しかしそれは一瞬のことで、彼女は背筋を伸ばして真っ向から「もう一人」を見据える。

「デルドロ・ブローディね」
「そんなに怖がるなよォお嬢ちゃん。俺ァ美人には優しくするぜ」
「怯えてないわ、軽蔑してるだけ」
「はっはっはー!ケイベツときたもんだ!」

 ブローディはその言い回しに喉を反らしてげたげたと笑い、彼女は両腕を組んで男を睨みつけた。たとえ敵対しようが魔術による撃退は可能だが、それとこれとは話が別だ。アレクサンドルは己の益のために何も知らない者を陥れる人間が最も嫌いだったが、罪を罪とも思わない厚顔無恥な人種も同じくらい嫌いだった。
 とはいえ、一人は犯罪者だが一人はそうではない。ブローディと文字通り一心同体のハマーが気を悪くしていないだろうかと顔色を伺うと、彼はその非凡な甘いマスクに微笑みを浮かべる。どうやらまったく気にしていないらしい。遠く離れた場所からはさきほどから地響きが届いていた。

「人員不足だわ」

 アレクサンドルはため息をつく。
 本日の午前5時頃、人類テロリストによる破壊活動の情報がライブラに舞い込んだ。そして朝日が昇りきったころ、次元怪盗ヴェネーノによる予告状がここマルプテノン美術館に届いたとの一報が届く。テロリストたちの対応についてしまったメンバーは動かすことができず、比較的攻防どちらもカバーできるアレクサンドルと、パンドラムからブローディ&ハマーが駆り出されたというわけだ。
 本当かどうかはともかく、次元超越者ともなると魔術結界もどこまで通じるか分からない。広範囲の保護には彼らが適当な人材配置といえる。性格的な相性はともかくとして。アレクサンドルは腕時計を確認すると、時刻は正午12時前を回っている。

「ところで、他の作品は観た?」
「若いアーティストたちのほう? 派手さはないけれど良かったわ」
「描くの、大変だっただろうなあ」
「……作る側の意見ね」
「描かせるほうが向いてるのさ、こいつは」

 ブローディが面白そうに口を挟んだ。彼らは意外にも美術には関心が高いらしい。恐らくポール・セザンヌ作「リンゴとオレンジ」の来訪に合わせて組まれたであろうこの静物画展は、はっきりいってメイン以外は価格の高くないものばかりだ。全体を守るよりもセザンヌだけに守りを固めてほしい―――というのが主催側の本音らしかったが。
 時計の秒針から顔をあげれば、二人の不敵な笑みとかち合う。アレクサンドルは今日何度めになるか分からないため息をついた。

「つまりあなたたちはこう言いたいわけね? "美術館には指一本触れさせたくない"と」
「駄目かな」
「いいえ、付き合いましょう」

 泥棒風情に後手に回るのは屈辱だと思っていたところだ。ニヤリと魔女らしく笑ったアレクサンドルにブローディはヒュウッと口笛を吹き、ハマーは手放しで喜んだ。この美術館ではパンドラムの職員が彼らを見張っているのだろうが、そんなものは本物の魔術師の前ではなんの問題にもならない。全てはノー・プロブレムだ。


▲▼


 霧に覆われた高いビルの屋上で、尾の長いマントがはためいている。スーツにシルクハット、片眼鏡に整えられた口髭。顔には炎のような文様。怪盗のクラシックスタイルで佇む男は、噂の次元怪盗ヴェネーノだ。空間を斬るという鮮やかな盗みの秘密は、彼の腰に差された刀にある。材質は不問。異界金属の金庫すらバターのように切ることができるらしいが。
 怪盗は懐中時計を取り出し、眼下に広がる白い建物を見下ろした。正午12時ちょうどにセザンヌの「リンゴとオレンジ」を頂戴する―――予告状に記した時間まであと数秒。ヴェネーノは刀の柄に手をかけ、ビルの屋上を蹴って真っ直ぐにマルプテノン美術館へ刃を落とした。
 ズ、と建物が縦にずれる。
 音もなく崩れる美術館にヴェネーノは口の端をあげた。活路さえ開いてしまえばなにも障害はない。男はその足で美術館に降り立ち、そして―――警報が鳴っていないことに気付いた。

「………なんだ?!」

 静寂のなか、マルプテノン美術館がぐにゃりと歪んでその姿を変える。
 白の外壁は打ちっ放しのコンクリートになり、曲線で構成された造りは無骨な鉄筋の四角い廃墟ビルになってしまう。目の前の出来事に開いた口が塞がらないヴェネーノは周囲をきょろきょろと見渡した。しかし建物の並びからしても確かにマルプテノン美術館であったはずだというのに、一体何が起こったのかまったく分からない。

「探しものは見つからないわよ」
「!」

 怪盗は勢いよく振り返った。男はビルの端に足をかけているのだから、当然ながら後ろに足場ない。しかし声の主は立っている。なにもない空中にヒールの踵をつけ、上品なブラックドレスを揺らして佇んでいる。霧のなか日傘をさした黒衣の女はどこか幻想的で、ヴェネーノはしばし目を奪われてしまった。
 その女の美しいことといったら!
 編み込まれた目映いブロンドは陽の光に輝き、こちらを見つめる瞳は明るい翡翠色。喪服のようなドレスを纏った彼女は、あたかもマネの「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」が絵画から抜け出してきたかのようだ。かつん、と空中にもかかわらず一歩近づいた靴音に、惚けていた男はやっと声を上げた。

「君の……仕業か?」
「ええ」
「マルプテノン美術館はどこに?!」
「この世界のどこかにはあるわ。でもあなたには決して見つけられない」

 断言するブラックドレスの女に、ヴェネーノは悔しげに歯噛みする。彼女は怪盗が美学に従って盗みを行っているのを分かった上で、予告状どおりの仕事はできないと言いたいようだった。魔女、という単語が男の頭をよぎる。そうだ、これを魔術と呼ばずになんと呼ぶのか。美術館ごとなくなってしまったらどうあがいても盗みようがないではないか。
 片手を額に当てて項垂れたヴェネーノは、目の前の美しい女を改めてよくよく観察する。その様子は空中に浮いているというよりは、透明の足場に立っているというほうが正しい。男は顔を上げたかと思えば、次の瞬間何のためらいもなく空中へ跳んだ。突然のことに反応が遅れた女の、ほんの数センチ前に降り立ち、ヴェネーノは鮮やかにその細い腰と手を取った。

「ちょっと! なんの真似ッ?」
「ふははははは!密着してしまえば私を落とすこともできまい、シニョリーナ!」

 やけに熱の籠った目で見つめてくる男に、彼女は背筋にぞわっと嫌な予感が這い上がった。その予感どおりなぜか顔を近づけてくるヴェネーノにアレクサンドルは思わず顔をそらし、片手で力の限り男をどんと押し返す。そして二人に隙間ができた瞬間―――男の横っ面を巨大な赤いなにかが殴り抜けた。
 怪盗は市内に吹っ飛ばされ、アレクサンドルの隣には代わりに赤黒い巨大な人影が立っている。それは血液を体に纏った「血槌(ブラッドハンマー)」のハマー……いや、ブローディ&ハマーである。

「よう、唇は無事かあ?」
「男の注意がこっちに向いたらすぐに来てって言ったでしょう、まったく!」
「ごめんごめん。あの輝石ってやつ置くの時間かかっちゃって」
「………いえ、いいえ。ご協力感謝するわ。ありがとう。それよりさっきのふざけた男は?」
「あー、逃げたね」
「逃げた?!」
「だってもう匂いがしないし、殴られたどさくさに逃げたんじゃないかな」

 のんきなハマーの言葉にアレクサンドルは眉をつり上げて自身の魔力の気配をたどった。あれだけ密着したのだから痕跡が残っているはずだが、少なくとも周囲には感じられない。人の腰を抱いておきながら逃げ足の速い泥棒にふつふつと怒りが湧いてくるが、殺気や敵意がなかったせいで反応が遅れてしまったのが一番不甲斐なかった。
 とはいえ、作戦は成功だ。
 アレクサンドルは血殖装甲(エグゾクリムゾン)を解除したハマーを伴い、空中に硬度をもった結界を階段のように作って地上に降りていく。見上げたのはコンクリートの産業ビル―――ではなくて、すぐ隣のビルだ。大小さまざまなビル群は、実は元の場所から数百メートルほどずれ込んでいる。これこそ仕掛けのタネだ。ヴェネーノが斬りつけたビルのすぐ隣に、マルプテノン美術館は本当にいつもどおりにあったのである。ただ見えなかっただけで。
 使ったのはアレクサンドルもよく使用する目くらましの幻視魔術だ。ブローディ&ハマーが駆けずり回ってビル群に魔法石を配置し、周囲のビルごとひとつずつズラすように景色を動かした。マルプテノン美術館は産業ビルに、廃ビルはマルプテノン美術館に見えるように。並びが同じなら「座標」が変わったところで誰も気づきはしない。何も知らないヴェネーノにはマルプテノン美術館がビルとすり変わったかのように感じただろう。魔術に長けた人物であれば通用しなかっただろうが、上手くいったようで助かった。

「……お迎えが来てるわね」

 美術館のほうから警察隊とパンドラム警備隊がブローディとハマーを探している。拘束対象が突然消えたのだからあちらは大騒ぎだろう。自分たちを血眼で探すサイレンの音に、ブローディはそわそわと落ち着かない様子でハマーを急かした。

「ああクソ、おいハマー! このままトンズラしちまおうぜ、俺ァ久々にシャバで食いたいモンがあるんだよォ」
「駄目、戻るよ」
「……何が食べたいの? 合法の範囲ならパンドラムに差し入れるわ。あと、画材もね」
「おお?」
「ホント? やったー!」

 会った当初より態度が柔らかくなったアレクサンドルに、ハマーは気にせず喜び、ブローディは首を傾げている。彼女が上から命じられたのはセザンヌの絵を守れという指示だけだったが、彼らのおかげで他の作品も傷つけずに済んだ。指定された場所からむやみに動けば脱獄とみなされてもおかしくはない。けれど彼らは躊躇わなかった。アレクサンドルにとってそれは、彼らが犯罪者であることを差し引いても尊敬に値する行為だ。
 マルプテノン美術館の観客は今日ここであったことも知らず、人類も異界人も関係なく、ただ絵画を楽しんでいるだろう。遠くからの地響きも止まっている。今日もヘルサレムズ・ロットの平和は保たれたようだ。
 
「絵が完成したら送ってくれるかしら」
「約束するよ」

 ハマーはにっこりと笑い、ブローディはヘッと鼻でそれを笑う。アレクサンドルもつられて少し笑ってしまった。
 しかしこのあと激怒したパンドラム獄長アリス・ネバーヘイワーズに盛大に取り押さえられ―――偏執王アリギュラの魔の手から彼ら自身を守るためでもあるのだが―――前の何倍にもきつい拘束を施された上にパンドラムの最下層へと押し込まれるハメになり、絵を描いている場合ではなくなることを、彼らはまだ知らないでいる。



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「ハマーの奴と美術館行っただァ〜〜〜〜?ハァ?デートですかァ〜〜〜?しょせんお前も顔のいい男にゃ弱いのかよ ケッ」
「ブローディもいたから正確には3人よ」
「3Pかよ!!!!(?)」
「(何を言ってるのかしら……)」










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