こんな霧に包まれた街にも、一応天気というものは存在する。まだ昼過ぎだというのに空はすでに鉛色に包まれ、洋服はいつも以上に湿っぽく重たい。せっかくの採光窓から光も降り注がず、今日は控えめに水を貰った頭領の愛植物たちもどこか色艶に元気がないように見える。
 本日、アレクサンドルははじめて本格的な任務についている。今までも簡単なサポートは行っていたが、スティーブンの作戦会議できちんと名前が組み込まれていたのは初のことだった。「そろそろ君にも活躍してもらわないとな」と言って彼に命じられたのは、不可視の人狼チェイン・皇との事務所待機である。遠くからなにか物騒な地響きが届いているので彼らが戦っているのは確かなのだが、なんだかこのまま終わってしまいそうな勢いであった。何時間もただ待たされている二人は、当然ながら暇を持て余していた。

「暇だね……」
「そうね、結構経ったけれど」

 追加の戦力要請がないわりには手間取っている感じだが、面倒な相手なのかもしれない。広い事務所には二人しかおらず、チェインは手持ち無沙汰なのか気付いたらソファの上だったり机の上だったりアレクサンドルの横だったりと音もなく移動するので、まだ「不可視の人狼」という存在に慣れていないアレクサンドルはいちいちぎょっとせねばならなかった。
 そもそも彼女たちは口数が多いほうではない。間にザップやK.Kでもいればわりと賑やかなのだが、二人きりというのは珍しいことだ。暇を持て余して娯楽に携帯ゲームのレベル上げに勤しむようなガラでもなく、黙っているのも飽きてしまったら、結果お互いに暇だ暇だと言い合うしかなくなるのだった。そのラリーが小一時間ほど続いたあとで、チェインはふっとアレクサンドルの真横に移動して彼女に顔を向けた。

「暇だから、聞きたいことがある」
「? どうぞ」
「貴女の魔術って、掻い潜る方法は?」
「……ええっと」
「円の上にドーム型で発動するでしょ、アレクサンドルの魔方陣。だから膜みたいになって通るとき少し足跡が残るの」

 「存在を希釈する」というのが強みである不可視の人狼にとって、ほんの微かな痕跡であっても自分の意思ではないものは歓迎できない。極限まで薄めれば可能かもしれないが、毎回そこまで存在消滅のリスクを負うのはさすがに面倒だ。ホテル・カリフォルニアの内部にチェインが偵察に赴けなかったのも同じ理由である。
 まさかそんなことを真正面から訊ねられるとは思っておらず、アレクサンドルは飄々と首をかしげるチェインに面食らったようだ。しかしそれも一瞬のことで、ふいっと顔を背けてそっけない態度をとる。魔術のかわし方が知られた魔術師など、まさしくタネと仕掛けがバレたマジシャンと同じ。年下の後輩にすげなく振られてしまったチェインは、さして残念そうでもなく「あーあ」と声を漏らした。

「そんなの、教えるわけないでしょう」
「やっぱり駄目かー」
「……方法がないわけじゃないけど、私はまだそこまであなたを信用できない」

 はっきり告げられた言葉に、今度はチェインが面食らう番だった。知り合って間もない相手の、それも「人狼局特殊諜報課(ルー・ガルーズフロムノーウェア)」だなんて世界一つかみどころのない機関の構成員にそれは仕方がないことだろう。しかし適当に流したって良かっただろうに、本人に面と向かって言ってしまうとは。疑り深いわりにはどうにも、人あしらいが下手くそだ。
 気まずい沈黙を、携帯の着信音が切り裂いた。チェインがソファから立ち上がって呼び出しに答えると、相手はやはりスティーブンのようだった。短く受け答えをした彼女は通話を切って携帯を懐にねじ込み、生意気な後輩を振り返って腕を引っ掴む。

「えっ?」
「猫娘、出動よ」

 アレクサンドル・"キャッツ"だからか、それとも警戒心の高い猫のように背中を毛を逆立ているからか。淡々とそう言ってチェインが走り出した先は玄関口ではなく何故か窓である。まさか、とアレクサンドルが顔を青くしたとほぼ同時、二人は窓枠を飛び越えて空中へと身を投げた。

「ちょっ……!!」
「こっちに向かってるもう一匹の魔獣の撃破方法を探して。たぶん貴女の専門」
「だ、だ、だからって!」

 ぱっ、と手が離される。
 途端に重力に従って落ちていく身体に、アレクサンドルはいよいよ顔から血の気を引かせた。先ほどの仕返しにしたって酷すぎる。遠ざかるチェインの「グッドラック」という口パクを激しく睨みながら、アレクサンドルは慌てて魔術の発動を試みる。しかし瞬時に出せる魔方陣といえば簡単なものしかなく、歯を食いしばって両手を下にかざす。
 なるべく柔らかく!
 硬度を下げに下げた結界を足元に発動させ、それを蹴って次の結界をつくる。空中にある階段を勢いよく駆け下りている感じだ。しかしいくら柔らかいとはいえけっこうな高度から足を着いたのでなかなか痛い。空を走って石造りの道に落ちてきた少女に住人たちは野次馬をつくったが、顔を上げたアレクサンドルのあまりの形相に皆ざっと身体を引いた。こと美人の怒った顔というのは並大抵の迫力ではない。

「ありえない、ありえない……!」

 大股で歩き出した彼女の周りを異形たちすらそそくさと道を開ける。やがてポケットで鳴り出した携帯を乱暴に開くと、予想通りの人物が飄々とした声で話しはじめる。

『生きてる?』
「死ぬところだったわよ!!」
『混沌の角塔(ケイオスネーンタリー)ビルのところから来る。どういうわけか血法の類じゃ効きが悪いみたい』
「……接近してみる」
『よろしく』

 曇天をかき分けて、ビルとほぼ同じ大きさの影がずるりずるりと近づいてくる。下水道のようなひどい匂いだ。コールタールとドブ川を煮詰めたような色のぶよぶよとしたスライム状の生き物。いや、実体化はしているが生命体ではない。動きは鈍く知性もなく、ただ周囲のものを無尽蔵に取り込んでは肥え太ってしまった魔法人工物のようだ。アレクサンドルは思い切り顔をしかめる。
 こうした制御が疎かで醜い魔術が、彼女は一番嫌いだった。己の力量の分からないものが覚えたての術を張り切って使おうとすると、このような失敗作が生まれる。たいていの場合、作った本人も解き方を知らないからたちが悪いのだ。とてもではないが見るに堪えない。

「まだ上にいる?どこかに魔方陣があると思うから、探してほしいの。この規模なら手のひらくらいのサイズがあるはず」
『……ああ、それらしいのがあった。ずいぶん歪んでるし、消えかけだけど』
「角型で、円が二つか三つある?」
『うん。文字は悪いけど読めないな。ちょうど頭の天辺にある。これ壊せばいいの?』
「いえ、触らないほうがいいわ。バグを起こしてるから危ない。確実なのは底のほうね」
『底?』
「魔方陣を動力源にしてる手合いだろうから、いちばん遠いところが守りが手薄になる。天辺にあるから、今回はその真下……ところで武器かなにか持ってる?」
『残念ながら』
「……じゃあ、私が潜るしかないか」

 もう少し図体が小さければ地面からひっくり返してやっても良かったのだが、流石に尋常じゃなく骨が折れそうだ。生物ならともかくこんなヘドロか汚物かというものを身体に取り込んで「再配列」するのも抵抗があった。アレクサンドルはチェインのように存在を希釈することなどできないが、魔術師には魔術師のやりようというものがある。
 ぶよぶよとしたそれの前に立ち、手をかざして静かに見据える。餅は餅屋と上から様子を見ていたチェインは、アレクサンドルがかなり渋々という様子で深呼吸をしたあと、敵の中にずぶりと飛び込んでいった衝撃映像を見て激しく慌てた。『だっ 大丈夫なの?!』と通話口に叫ぶ。幸い電話はまだ繋がっており、アレクサンドルはかなり辟易した声で答えた。

「魔力で膜を張ってるから苦しいとかはないんだけど、単純にすごく気持ち悪いわ……」
『うわあぁあ』

 チェインはその感触を想像してしまったのか初めて聞くような情けない声を上げた。ヘドロ状の化物は相変わらず、ずるずるとヘルサレムズ・ロットの街を徘徊している。今や体積を増やしに増やし、いったい幾つの建物や生き物を取り込んだのか。途中でぶつかりそうになるそれらを避け、冷たく重苦しいどろどろをかき分けてアレクサンドルはひたすら魔力の希薄になる方角へ進んでいった。
 ジェマは人間ほど呼吸に酸素を必要としないため、空気の薄い場所や密閉された空間でも長時間過ごすことができる。だからこんな無茶だって可能なのだが、これだけの汚物に塗れるのは女として悲しいものがある。窓から彼女を突き落としたチェインでもさすがに可哀想に思ってくれたのか、耳元で何度もがんばれ負けるな偉いぞと続けざまに励ましの言葉を送ってくれた。

「あった、ここだ!」
『偉い!アレクサンドル!』

 熱い激励に出ないはずの涙が出そうだ。しかし任務を言い渡されていたというのに、武器の一つも用意していなかったのは迂闊だった。今までクラウスやザップなどの血法使いが居ればわりに速攻で片付いていたので油断していたのかもしれない。アレクサンドルの魔術はどちらかと守護や補佐に優れており、攻撃的なものはバリエーションに富んでいないのだ。
 しかし文句を言っている場合ではない。バリエーションがないのなら持っている中からなんとかする他ないのだ。視界もクリアではないなかで細かい魔方陣を今から組むのも難しい。自分にも彼らのような血を操る技術があればーーーと考えて、アレクサンドルはふとザップの斗流血法の姿を思い出した。力を刃にする技術。あれほど洗練されたものは不可能かもしれないが、もっと簡単に単純に作るだけならば。

「煌々魔堂術 硬度9.0結界……」

 アレクサンドルがもっとも得意とする結界魔法は、自在に硬度を操ることであらゆる破壊兵器に対応する。優れた攻撃は防御にもなるが、逆もまた然りといえるだろう。ただの平面形であるその盾を、細く細く集約させていき棒状へ、さらに鋭く刃のように。ぐっと胃が重くなる。少し形状を変えようとするだけで想像以上の集中力を要求される作業だ。指先の動き一つ間違えたらすべてが弾け飛びそうで、彼らはこんなことを戦闘中にやっていたのかと思うと驚嘆を禁じ得ない。
 もうこれが限界だ。
 どっと汗が噴き出す緊張感の中、刃を目指したはずの形は辛うじて矛のような形状に収まった。ここまで膨れていればこれだけで穴が開くはずだ。渾身の力を込めて両手を下ろし矛が真下に落ちる。刹那、アレクサンドルは激しい破裂の予感にはっと息を飲み、いつの間にか手から抜け落ちていた携帯に向けて叫んだ。

「チェイン、逃げてッ!!」

 ーーーパァンッ!
 恐ろしく軽い音。解放。限界まで膨らんだ風船が弾けた。中に飲み込まれた凄まじい量の泥水が、ヘルサレムズ・ロットに津波のように流れていく。地面に突き刺した矛を支えにするが所詮は付け焼き刃。集中が切れては持続できるわけもなく、支えを失い足が浮いた。流れに抵抗する気力もない。
 ぐいっと何かに腕を引かれる。
 首を動かすのも億劫でされるがままに連れられる。一度味わったことのある浮遊感だったから焦りもなかった。ヘドロから這い出るとまだ魔力を纏ったままだったのか体や服は幸いなことに汚れていない。どこか高い場所に降ろされ、まだ波で地響きが続いていて足をふらつかせていたアレクサンドルは、柔らかな感触にぎゅうっと強く抱きしめられた。

「よく頑張った……!」
「へ、え?」
「ここまでやれると思ってなかったの。大丈夫? すごいよ、アレクサンドル」
「いや……そんな、ことは……」

 気が抜けてビルの屋上に尻餅をつく。彼女はてっきり飄々としたつかみどころのない女性だと思っていたのに、瞳に涙まで浮かべているものだから。チェインが感極まってこんな風に手放しで褒めるとは想像もしていなかったので、アレクサンドルは思わずしどろもどろになる。誰かに褒められるなんて行為そのものが久しぶりで、どう受け答えするものだったか思い出せない。アレクサンドルはどうにか彼女の背中をぎこちなく手で叩くと、チェインはにっこり笑顔になった。
 攻略法が分かった魔法人工物の相手など赤子の手をひねるようなものだ。アレクサンドルのお手柄のおかげで、チェインからスティーブンへの連絡も滞りない。世界は今日も救われることだろう。








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