ヘルサレムズ・ロットは今日も霧深い。全貌が露とも知れぬ秘密結社ライブラの事務所には、珍しく人の姿が少なかった。ソファには眼鏡をかけた筋骨隆々の大男、ライブラのボスであるクラウス・V・ラインヘルツ。向かいには見目麗しい少女、ライブラの新人アレクサンドル・キャッツがテーブルを挟んで座っている。机には淹れたての紅茶が湯気を立て、バスケットに並べられたプレーンドーナツは香ばしい匂いを漂わせていた。
 アレクサンドルはティーカップを手にとって一口紅茶を飲み、なんの綻びもない完璧な所作でソーサーへと下ろした。高貴たれと由緒正しいラインヘルツ家で教育を受けたクラウスの目にも、それは取り繕われた上辺だけの仕草ではなく、肩の力が抜けた自然なものだとわかる。彼女を知れば知るほど、彼女という人物は謎が多い。

「この紅茶、すごく美味しい」
「うむ。ギルベルトの紅茶に慣れてしまうと、他の紅茶が飲めなくなってしまう」
「今度教えてもらおうかしら」
「ここに来ればいつでも。……それで、話というのは?なにか困りごとだろうか」

 話したいことがある、とアレクサンドルがクラウスに直接申し出たのは先日の話で、数日間のホテル暮らしを経たのち、彼女が新たな家を見付けたと聞いたあとだった。その様子がとても真剣だったので、クラウスは事務所に他に誰も居ない時間を選んで約束をした。ギルベルトすら、今は席を外している。
 アレクサンドルはK.Kに選んでもらったという襟のついたシンプルなワンピースに身を包んでおり、一見してヘルサレムズ・ロットには似つかわしくない18、19の美しい少女に見える。しかしその見目にそぐわないほど大人びた表情を覗かせるのは、彼女の種族特有のものだろうか。

「これから話すことを誰に話すか、あるいは誰にも話さないかは、全てあなたに委ねる。私は他のメンバーたちをよく知らないから、必要だと思ったら話してほしい」
「承知した」
「……話というのは、"私たち"ジェマについて」

 カタン、とクラウスのカップがごく小さい音を立ててしまった。静寂ばかりが際立つ部屋で、自分の動揺が彼女に伝わってしまったことを悟る。人ならざる者と代々戦ってきた家の者として、血界の眷属よりも古い種族「ジェマ」のことに前のめりになってしまうのは仕方がないのかもしれない。なにせ最近までお伽噺と思われていた宝石族が、いままさに目の前にいるのだから。
 失礼、とあからさまに恐縮するクラウスの愚直さに、アレクサンドルは少し硬い表情を緩める。

「えっと、ミスタ・クラウス。ジェマについてどのくらいご存じかしら?」
「ジェマ……マグマに眠るもの。星の落とし子。生命を持つ石。彼らの痕跡は世界各地に見られるが、特に多いのはロシア周辺。さまざまな宝石を自らの核とし、魔力の扱いに長け、類稀なる美しい容姿を持っている。かつて栄華を極めた時代、独立した都市すらを持ったと言われている」
「私より詳しいかもしれない」
「しかし彼らは、ジェマの宝石を求める者たちによって………滅んだと」
「そう。私は、私たちは、たぶん世界で最後のジェマだったの」

 何百年、何千年とマグマに抱かれた結晶が、地の魔力を吸い上げてつくられる。おぼろげな伝承の中でそう伝えられてはいるが、実際のところジェマがどうやって生まれてくるのか、アレクサンドル自身も知らないという。
 長くなるけれど、と前置きをして、アレクサンドルは語りはじめた。彼女がヘルサレムズ・ロットに身を置くようになった理由を。そしてなぜ「ホテル・カリフォルニア」という闇取引に身を投じることになったのかを。



▲▼



 それはとても古い記憶だ。
 アレクサンドルの隣には、生まれたときからいつも一人の少女がいた。彼女たちは物心つくまえに育ての父親に引き取られ、ルーマニアの立派な屋敷で育った。博識な老紳士だった父親は二人をジェマであることを知っていて、世間の目から彼女たちを上手に隠して守ってくれていた。
 「双子の宝石たち」。
 二人は似ているわけではなかったが、際立って愛らしい顔立ちをした仲の良い姉妹を、父親はよくそう呼んだ。アレクサンドルは胸に昼夜で色を変えるアレキサンドライト。もう一人は、海と空の交じり合うエメラルド。その宝石を表したものだったが、使用人たちは蝶よ花よと育てられる娘たちの微笑ましい愛称としか思っていなかっただろう。

「お前たちはこの世でたった二人の兄弟だ。だから決して、互いの手を離してはいけないよ」

 ルーマニアでの生活は自由な暮らしとはいえなかったが、教育熱心な父のおかげで退屈することはなかった。その中で何度も何度も繰り返し言われた教えを、今でも鮮明に覚えている。一緒にいることが当たり前だったから、離れて暮らすだなんて考えられなかったけれど、幼い二人は言いつけどおりに約束を交わした。
 もしも、離ればなれになってしまったら。どんなに辛くても、どんなに絶望的な状況でも、必ずお互いを探そうと。

「私たちの宝石を、人間は欲しがるのよね」
「核を?核がなくなったらどうなるの?」
「体が失われて消えてしまうの。宝石だけが残って、誰かの首飾りかなにかになるしかない。お父様が言うには、魔力が残っていれば再生できるらしいけど」
「じゃあもし核だけになっても」
「そう、お互いを探せれば」
「そうね、それがいいわ」

 互いの輝きを決して忘れなければ、私たちは永遠に一緒。そう言って笑い合った日々は、今も昨日のことのように思い出せる。この世で唯一の"もうひとり"。手を離す日が来てしまうなんて、幼いアレクサンドルは想像もしていなかった―――。



▲▼



「……私達の育ての親は、そういう日が来ることを予想してたのかもしれない。私に魔術を教えてくれたのも父だった」
「お父上は人だったのだろうか」
「そういう風に振舞ってたけど……とても古い結晶化の魔術まで知っていたから、本当はもっともっと古代の種族だったのかもしれないわ」
「結晶化の魔術?」
「文字通り、身体を硬い結晶にするもの。15歳のとき、ワラキアは酷い紛争状態だった。私はその中で運悪くジェマだってことが知られて、核を奪われかけて……その魔術で逃れた。ただこの術は、守りは完璧になるけれど、術を知る他者が魔力を流さなければ目覚められないの」
「では……君が結晶化してから目覚めるまで、何年経ったかも」
「分からない。でも目覚めたのはちょうど2年前―――ニューヨーク大崩落のとき」

 目を覚ましたとき、アレクサンドルは当時ニューヨークのクイーンズで、彫刻作品として資産家の倉庫に大事に仕舞いこまれていた。屋敷は既に空っぽで、自分に魔力を流し込んだ人物も既にいなかった。もしかして"もうひとり"なんじゃないかと足の動く限りあたりを探し回ったが、外は異界と現世が繋がり大混乱に陥っていて。
 それからはずっと一人きり。
 この混沌極まる街で、いいや、世界でたった一人。見たこともない土地で、周囲に自分を知る者もいない。信頼できる相手なんて現れるはずもない。ただアレクサンドルの中にあったのは、たったひとつ交わした約束を守ること。ただそれだけのために、彼女はひたすら生きてきた。

「ジェマは長寿だから、どこかで生きているかもしれない。もしかしたら、もう宝石だけになっているかもしれない。装飾品になっているか、あるいは魔法具か。……死んでしまっているかもしれない」
「………」
「でも、探さなきゃ。だって、約束したんだもの」

 今やジェマは血界の眷属よりも伝説級の生き物だ。生物売買の市場に顔を出して名前を売れば、宝石を核にした稀有な生物の情報は入ってくるだろう。宝石商をやっているのも、古美術品を扱っているのも、魔術を取り扱うのも、すべてはそのためだ。この世の不可思議が全てつまったような街が、それに一番適している場所だと思ったから。
 クラウスは言葉が出なかった。
 彼女の考えは的確で、考えうる中で最も効果の高い方法を取っている。その聡明さもさることながら、やってのけた手腕も並大抵のことではない。彼女はそれを誰に頼ることもなくできてしまったからこそ、今でも―――他人に助けを求めることができないでいる。

「神は残酷だ」
「え?」
「一人きりで戦うことを決意するには、君はあまりに可憐すぎる。こんな危険な街に一人で、どれだけ心細かったか……」

 冷めてしまった紅茶の水面を見ながら、クラウスは肩を落としてそう呟く。ただ憐れんでいるわけではない。彼は深くアレクサンドルに同情しているのだろう。自分が助けられなかったことを悔やみすらしている。まさかそんなことを言われるとは思いもしていなかったのか、今度はアレクサンドルが言葉を失う番だった。
 どうして彼は。彼らは。
 アレクサンドルは人間が嫌いだ。言葉でどれだけ綺麗ごとを言っていようと、腹の中では自分の利益しか考えていない。身を持って痛いほど知っていた彼女でさえ、それが間違いだったかと思うほど、クラウスの言葉は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、アレクサンドルのように少し捻くれた者には強すぎる。

「貴方、どうしてそんなにすぐ人を信じたりできるの?ブラックバーンだって手酷く騙されたのに。私が、ライブラを利用しようって気でいるかもしれないのに」
「私が何度誰かに裏切られても、私が人を信じない理由にはならない。君は私を信頼して、この話をしてくれたのだと思う。だから私も君を信じる。君を助けたいとも思う」
「……私は、協力を、強請るつもりで話をしたんじゃない。ただホテル・カリフォルニアの経営を再開したくて……それで許可を……」

 そんなことを言われたのは初めてだ、とアレクサンドルは爪先に視線を落として気付く。それもそうだ。こんなことを人に話したのはそもそも初めてなのだから。あの絶体絶命の暗闇の中、ザップが当然のように口にした言葉が頭をよぎる。
 助けを呼ばなければ、誰も助けてはくれない。考えてみれば当然のことだ。何時から助けを諦めてしまったんだろう。いつから自分以外に期待することを止めてしまったんだろう。すべてが遠い昔のように感じる。一人で過ごした時間は永遠のように長かったから。アレクサンドルが視線を上げると、クラウスはただ黙って彼女の言葉を待っている。

「……きっと」
「ああ」
「きっと、あの子も、待ってる。どこかで私のように一人でいる。だから探したい」
「ああ、もちろんだ。一人でやるよりも、きっといい方法が見つかる。我々はライブラとして、全力をもって君の大切な人を探そう」

 喉の奥がぐっと圧迫されて、もう何も言葉が出なかったし、なにも頭に浮かばない。ジェマは涙を流さない。何百年も前にその方法を失ってしまったという。けれど人間が泣いてしまいそうな気持ちというのは、こういうことを言うんだろうなと、アレクサンドルははじめてそう思った。
 窓の外では相変わらず霧が立ち込めている。紅茶もすっかり冷え切ってしまった。ギルベルトに淹れなおしてもらおうか、というクラウスの言葉に、役立たずになった声の代わりにひとつだけ頷いた。それが今のアレクサンドルにできる、彼への精一杯の答えだった。













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