8月31日。天気は晴れ。
 眠り姫が目を覚ました!ヴェストやハウスキーパー達の驚いた顔が大変見ものだった。予想できたことだったが彼女は自分の名前が分からないというので、色々調べてシャルロッテという名前をつけてやった。本当はなんと呼ばれるのかはのちのち分かるだろう。
 そんなに活発なタイプではないらしい。放っておいても大人しくしている。朝食に出したものも美味そうに食べていた。さて、明日は買い出しに行かなくてはならない。




 はじめの挨拶は成功したようだ。
 ギルベルトの方は5年間彼女の世話をしていたのだから今さらそんな気もしないのだが、彼女からすれば目覚めれば見知らぬ男に挨拶されたのだから驚きもするだろう。だが第一印象はそれほど悪くなかったらしい。クローゼットにすっかり増えた着替えを渡して、色々と説明をするから着たら廊下の先の部屋に来いというと素直に頷いた。
 他の服を畳んで仕舞い、ギルベルトは何だかまだ夢見心地のまま寝室を出た。寝顔しか知らない相手が起きている様子は、まるで人形に命のネジが巻かれて動いているようで奇妙な感じだ。とりあえず朝食の用意でもするか、と後ろ頭を掻きながら、ギルベルトの足取りは軽いものだった。

 朝食はいつも通りだ。ブロートヒェン(小型パン)をバスケットに盛って、黒パンとプレッツェルも添える。ジャムも何種類も瓶を置き、それから四角いバターに大きなレバーヴルストを輪切りにして皿に出す。ハムを各種。イタリア土産のモルタデッラも出そうか。鍋に湯を沸かして卵を8分茹でる。やや半熟の固茹というのがこの家の決まりだ。
 多いかと思うかもしれないが、何もギルベルトが張り切っているわけではない。昔から「朝食は皇帝のように、昼食は国王のように、夕食は乞食のように」という諺がある。ドイツでは一般家庭でも朝食はホテルビュッフェのように豪華なことが多い。茹で上がった卵をあげたころ、彼女が控えめにリビングに顔を出したので手招きした。

「サイズは大丈夫か?」
「うん」
「じゃ、そこの皿あっちの机に運んでくれ!重いから気いつけろよ」
「はあい」

 ハムやバターの乗った大きな皿を両手で持ち上げ、真新しい水色のワンピースの裾をひらひらさせた女の子が運ぶ姿は眺めがいいものだ。俺はフランシスか、と一人で笑いながら白ソーセージをフライパンで香ばしく焼き付けていると、玄関の方で鍵の開く音と低い男の声が聞こえる。
 やっと家主のお帰りだ。
 ギルベルトはふと悪戯を思いついた少年のような顔をしたあと、皿を運び終わった彼女に何やらごにょごにょと小声で内緒話をする。彼女はまた素直に頷いたあと、玄関からダイニングに続く扉の前で背筋を伸ばして立った。そして扉が開いたさきに居た体格のよい男に向かってちょこんとスカートを持ち上げてお辞儀をする。

「おかえりなさい」
「ああ、たッ………??!……??!!」

 金髪の男がたちまち表情を強張らせる。自宅に帰ったら見慣れない小さな女の子が、それもカーテシーなんて古めかしい淑女の挨拶をしたのだから無理もない。少しよれたオールバックの男が状況を飲み込めず呆然としていると、彼女の後ろでぶぷーーっと誰かが大きく吹き出した。それでだいたい理由が分かったのか、男、ドイツことルートヴィッヒが眉を吊り上げたあとため息をついた。

「兄さん!これはどういうことだ!」
「どういうことも何も、今朝起きたんだよ。我が家のいばら姫が」
「いばら姫……?」

 ルートヴィッヒは一瞬何のことかと首を傾げたが、彼女の姿をもう一度確認してやっと合点がいったようだ。寝ている姿と目を開いて起き上がっている姿は印象が違うので仕方がないかもしれない。いばら姫は眠れる森の美女。奥の寝室で眠り続ける少女は、彼の知らぬ間にすっかり大きくなっていた。
 ここに運び込まれたときはころころした頼りない子供だったのに、いつのまにか手足のすらりと伸びたワンピースがよく似合うお嬢さんになっていた。下ろせば足首までありそうな長い黒髪がきれいに編まれているのが、髪長姫―――ラプンツェルのごとく童話的だ。目が合うともう一度「おかえりなさい」はにかんで笑われてしまって、ルートヴィッヒは調子が狂ってしまった。

「む、た、ただいま……」
「よーし、おかえり!とりあえず朝飯だ、ヴルストも焼けてんだからさっさと食うぞ」

 机の上に所狭しと並ぶ朝食の皿を見て、空腹を訴える音がリビングに鳴る。ふたたび噴き出した兄を顔を赤くしながら睨み、ダイニングには珍しく3人が腰を下ろすことになった。ルートヴィッヒがいつもの窓側席に座りギルベルトがその向かいに座ると、彼女が迷ったように視線を彷徨わせたあとギルベルトの隣に座る。
 各々が好きに食事を進める中、ワンピースの少女がギルベルトの動きをじっと見てはそれに倣って同じものを同じように食べる。白ソーセージにかぶり付くと思ったよりもふんわり柔らかな食感で、レモンやパセリの香味が爽やかに口に広がる。爽やかな美味しさを気に入ったのかもぐもぐと味わう彼女はまるで子供のようだった。そのたどたどしい雛鳥の姿にぷすっと小さく噴き出してしまってから、ルートヴィッヒはそういえばと兄に尋ねる。

「ところで、何かわかったのか?彼女の名前や住んでいたところや……」
「お前、自分の名前分かるか?」
「ううん」
「じゃあ決めねえとな」
「名前か……」

 もちろん彼女には本来の呼び名があるのだろうが、彼らは人のようにそれが一生変わらないという確証はない。だからいつから生まれた習慣か、人としての名前を周囲の人間によって名付けられたり自ら考えたりして持つようになった。正式書類一つもってして、たとえその通りだとしても「ドイツ連邦共和国」とサインするわけにはいかないのだ。
 ルートヴィッヒは今飼っている犬たちの名前を付けるのにもかなりの時間がかかった。女の子の名前となると責任も重大である。そもそもドイツ系の名前で良いのかなどとプレッツェルを齧りながら難しい顔をし始めた弟に対し、兄と当人は気楽なものだ。ギルベルトはスタンドに乗せた茹で卵の頭をナイフで削り取るようにし、スプーンですくって食べた。半熟寄りの固ゆで卵に納得しながら、彼は頭に浮かんだ適当な名前を次々と上げていった。

「クリスティーナ、ブリュンヒルデ、アンナ、エリザベート、マリア、マルガリータ、カタリナ、ツィツィーリア……古くせえか。今どんな名前が流行ってんだ?」
「ふむ、よく聞く名前だとユリア、ハンナ、ジェシカ、フランツィスカ、アニヤ、ルーシー、レオニー、サラ、ゾフィー……」
「お、ゾフィーいいんじゃね?なんかゾフィー顔だぜこいつ。何となく東欧系だし」
「そんな適当でいいのか!いや、長く使うことになるのだしもっと考えて……!」
「ちぇっちぇー!じゃああとなんだ?マリーとかナオミとかシャルロッテとかサブリナとかか!」
「!」

 話に口を挟むこともなく卵の頭をナイフで削るのに苦戦していた彼女は、挙がった名前にぱっと顔を上げてギルベルトを見た。本当に適当にいくつも列挙していたギルベルトは一体どの名前に反応したのか分からず、今度はゆっくりと口にした名前を反復する。マリー、ナオミ、サブリナ、シャルロッテ。少女が目を輝かせる。
 シャルロッテ。
 何の変哲もない名前だったが、もう一度口にしてみるとなるほど、言葉の響きが不思議と彼女に馴染んでいるような気もした。本人が気に入っているならば文句などあるはずもない。それにとても良い名前だ。ルートヴィッヒやギルベルトが感心したように頷くと、彼女―――シャルロッテは嬉しそうに微笑んだ。

「シャルロッテか」
「悪くねえんじゃねえか。言われてみりゃシャルロッテ顔だぜ、なあ?」
「さっき同じようなこと言ってなかったか」
「あー!すっげーいい名前!最高!」
「えへ」

 眠り姫シャルロッテ。髪長姫のシャルロッテ。アリスのように迷い込んだ女の子。それは彼女がお姫様のように特別美しいだという意味ではないのだが、彼女の纏うどこか浮世離れした雰囲気と不思議なバックグラウンドが、メルヘン好きのドイツ人心をことごとくさらうのだった。
 彼女が相変わらず卵にまごついていると、ギルベルトが今度は横でゆっくりとお手本を見せてくれた。同じようにナイフを動かすとつやつやとした白身と黄身が顔を出す。彼は元々なにかを教えるのが上手いが、シャルロッテくらい教え甲斐のある者もなかなか居ないだろう。相性が良い。いつになく楽しそうな兄の顔を見て、ルートヴィッヒは今さらながら少女の来訪を心から喜ばしいと思った。

 太陽が降り注ぐなか皇帝のごとき朝食はいつもより長く行われた。外で夢中になって遊んでいた犬たちが扉を引っ掻いて朝食を催促する。その日の朝食は結局、ハウスキーパーがフルーツを頬張る眠り姫に嬉しい悲鳴をあげるまで続いたのだった。








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