2215年、政府の下に残った刀は僅かに五振り。歌仙兼定、陸奥守吉行、山姥切国広、蜂須賀虎徹、そして俺、加州清光。他の刀は「歴史修正主義者」によって回収されてしまったり、行方不明になっているものが殆どだった。持ち主の魂が移り宿る刀剣。呼び覚ますのは審神者なる者。刀なんて使われなくなった時代に必要とされるだなんて皮肉な話だ。 並べられた刀を ひととおり目通ししたあと、あまり迷いなく伸ばされた手の感触は鮮烈だった。刀など生まれてから一度も握ったことがないであろう掌は白く柔く、豆の一つもない。そして彼女に触れられた瞬間に、かつて自身を振るった主のごとき姿に変貌していたのだから驚きだ。
「俺、加州清光。川の下の子、河原の子ってね。扱いにくいけど性能はピカイチだよ」 「……いい名前だね」
新しい主は小柄だった。 前の主も武士の中では小柄なほうだったが、これほど小柄では短刀もまともに扱えまい。いや、もはやこの時勢に刀を使う人間などいないのだ。だから俺達はこうして人の形となり、自身を振るわねばならなくなった。 俺の胸ほどの背しかないその小さな女の子の、どこか寂しさを湛えた瞳が印象的だった。彼女がぼんやりとしながらも自分の言葉に淡く笑ってそう返した瞬間を、今でもずっと忘れらないでいる。
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「……出陣しないの?」 「んー」
本丸に据えられた屋敷の一番広い部屋で、審神者である主は今日も座に腰掛けてのんびりと体を寛がせている。はじめは正座で側についていたほうがいいかと思っていたが、待てど暮らせど敵が現れる様子もないし、気を張り詰めているのが馬鹿らしくなってすぐに止めてしまった。曰く、こちらから赴かない限り戦闘にはならないらしい。 時間から切り離された空間。 畑で作物は育ち、馬は草を食むが、現世とは違うらしい。こんな広い屋敷に二人ではいささか寂しい気もするが、主が鍛刀を行う気がないのなら声が増えることもないし、進言するのも気が引けた。しかし何日もずっと何もせずでは、歴史もなにも如何ともし難い。
「清光、おやつ食べたい?」 「あるなら食べるけどー」 「ない!買いに行く……のもめんどくさいなあ、庭いこう、庭」 「あ、ちょっとちょっと」
突然腰を上げたかと思ったら、そんなことを言って障子を開け放った。審神者なんて仰々しい名前とは不釣り合いな黒地になんの飾り気もないラフな服で、その上縁側に転がっていたつっかけで外に出ていく。ふらふらとした足取りは後ろから見ていても頼りなくてはらはらした。 既に昼を回っていて日が高く、結わえられていない主の髪が明るく照らされている。庭には豊富に農地もあるが、まだ何も植わってはいない。さて何かあるかときょろきょろと庭を見渡していると、片隅に小さな実をつけた垣根があり、主を呼ぼうとしてふと首を傾げた。
「主、主って名前はないの」 「さにわ」 「それは役割の名前でしょ」 「審神者は審神者だよ。なんか食べれそうなものあったー?」 「えーと、あれ。野いちごじゃないかなーっと」 「野いちごっ?」
上手くはぐらかされてしまったかと思いきや、振り返った彼女の顔は弾けるように明るく輝いていた。すぐに駆け寄った先にはやはり艶々とした粒がついた瑞々しい野いちごの実が成っていて、主は嬉しそうに声をあげる。掴みどころがないようで、天真爛漫でもある気もする。新しい主は難しい。 どうすれば彼女に愛してもらえるだろうか。可愛がってもらえるだろうか。貧しい生まれのせいか前の主を早くに亡くしたせいか、そればかりに気を取られる。そうして考え事に捉われていたからか、目の前に差し出された赤い実が一体何のためか判断がつかなかった。
「えっ?な、なに?」 「食べないの?おいしーよ」 「え、あ、た、食べるっ」
白い指に摘ままれた赤い実を慌てて見据える。唇がついてしまって嫌がられないかと一瞬躊躇ったあと、恐る恐る軽く咥えるようにして口にした。奥歯で噛むと甘酸っぱい味が舌に広がり、唾液が溢れてくる。果汁は太陽に温められていて生暖かかった。 はじめて口にした味に夢中になっていると、主はまた一粒もいだその実を陽光に透かしている。野いちごが珍しいのだろうか。ちらりと横目で俺を見たあと、少女の横顔がこちらを見ずに呟いた。
「じつはね、あんま覚えてないんだー。名前とか、なんでここにいるのかとか、その前は何してたんだろうとか、いろいろ……」 「……じゃあ名前、言いたくないんじゃなくって、」 「うん、ない。あったのかもしれないけど、覚えてないっていうか、何ていうか」
俺が名を告げたときと同じ目で、彼女は足元に視線を落とす。名前を教えてもらえないほど信頼されていないのかという懸念は解消されたが、彼女は審神者となった経緯も曖昧にしか覚えていないという。五振りの刀の中から選ばれたという自負があったからこそ新しい主に目をかけてもらえるのではないかと期待していたのに、本当は他の刀を選びたかったのではないかという疑念で頭がいっぱいになってしまう。 言葉を失った俺に主は少しの間同じように沈黙したあと、ふっと肩を落として掌を見る。赤い野いちごの実。手ずから食べさせてもらった時は喜びで満ちていたのに。無意識に拳を握り込んでいると、心配そうに眉を下げて主がこちらを窺うように覗き込んでくる。
「なんか頼りなくって、ごめん……分かんないことだらけだけど、何とか頑張るし、えーっと」 「お、俺でいいの?他の刀じゃなくて良かったの?」 「えー?まあ刀どれがいいとか分かんなかったから、見た目で選んじゃったんだけど……清光、美人さんだし、目だって野いちごみたいにきらきらしててきれいだし」
ほら、こうするとよく似てる。 太陽に透かされた赤色の実は、宝石のように輝いて見える。彼女の目には自分はこんな風に見えているのかと思うと、目の奥がかっと熱くなった。どんな理由でも自分を手に取ったことを後悔していないんだと思うと、喜びと安心が膨らんで胸が詰まる。我ながら単純だとは思うけれど。 油断するとすぐ瞼から涙を落としてしまいそうだったから、ゆっくりと深呼吸したあと笑って見せた。俺が笑ったのを見て、主も舌の上で暖かく広がった野いちごの実のように微笑んだ。
「……主の、ことさ」 「うん」 「いち野って呼んでもいい?」 「私の名前?」
口の中で何度か復唱したあと、主―――いち野は嬉しそうに笑って快く頷いてくれた。背では青々と茂った垣根の中で、野いちごの赤い実が躍るように実っている。花を知らぬ男にひとつ花の名を教えれば、年の咲き頃その名を教えた女を思い出すという話もあるが、あまりに女々しいだろうか。 毎年でなくてもいい。この片隅の垣根に赤い野いちごが実る限り、加州清光というはじめて手にした刀の名を、この瞳の色を、どうか忘れないでほしいと思った。ただ、それだけだったのだ。
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