真っ赤な夕日に影が落ちる。
 針のように細長く伸びた影は、少女の纏った薄絹が動くたびに跳ねた。幾分か寒さが和らいだこの庭も、陽が傾くとやはり肌寒い。いち野は一人でいることについに飽きてしまい、作業場にふらふらと招き寄せられていた。木でできた戸を開けて中に入ると奇妙な光景が広がっていて、いち野は目をぱちりと見開く。
 外観からは想像も付かないほど広い室内には、一面の格子と障子紙が張り巡らせられている。依頼札を背の低い戸に差し出せば障子が観音開きに口を開けて、新たな刀剣が台に乗せられて出てくるのだ。大きく開いているはずなのだが不思議なことに中がチラリとも見えることはない。時間が違うせいだろうかと思っていたが(深く考えたことがなかったとも言う)障子の奥で何かが動いているシルエットが見えた気がして、いち野は思わず目を疑った。

「今、……?」

 何度瞬きしても変わらない。大きい金槌と布が宙に浮いており、まるで透明人間が金槌を拭いているかのように動いている。いやいやそんな馬鹿な、といち野は尚更混乱してしまい、目を閉じて深呼吸をしてみた。そうしてゆっくりと瞼を開くと―――今度は一人の男性の影が現れた。
 いやいやいや。
 障子の向こうに「誰か」が居るだけというならば先ほどよりも現実味があるが、それにしたって瞬き一回では急すぎる。政府から遣わされた使者の話では、この奥は確か2215年の鍛治場に繋がっているということだったが、彼は未来の刀匠なのだろうか?いち野は首を傾げてこっそり姿を確かめてやろうと戸に手をかけた、その瞬間である。

「開けるな」
「ぅわあっ?!」

 奥から低い男の声が聞こえ、いち野は驚きのあまり勢いよく後ずさった。その拍子に長い裾を踏んづけて転び、後頭部をしたたかに床にぶつける。鈍い音。声も出ないほどの痛みに頭を抱えてばたばたと暴れまわる間抜けな少女の様子に、障子越しに心なしか呆れたようなため息が聞こえた。
 いち野は座り込んだ体勢のままなんとかその人影に声をかける。痛みのおかげで奇妙な現象による恐怖は吹き飛んだらしかった。

「ど、どちら様ですか」
「俺は金槌だ。むかーしに鍛治に使われていた骨董品なんだが、叩き起こされて今更使われてるのさ」
「カナヅチ?」
「槌の付喪神だよ」

 付喪神。その言葉を口の中で復唱していち野は理解したようだった。今は本丸に居ない彼らも長い時を経て物に宿った魂で、俗にそのような名前で呼ばれるらしい。しかし刀剣たちは彼女の手によって肉と骨を得て人の姿をとっている。鍛刀に使われる金槌があることなどいち野は知りもしなかったというのに、どうして人の姿になったり喋ったりできるのか。槌の付喪神からは敵意や悪意を感じなかったためか、少女は頭をさすりながら気安い態度で尋ねる。

「名前はー?」
「槌に名前なんぞないさ」
「ええー、じゃあなんか考えといてよ。最近来たの?ていうか何時からいるの?」
「………ずっと居たよ。お前さん、そんなに"有り余ってる"くせに目は悪いんだな」

 二度目の溜息はどこか可笑しそうな色を孕んでいた。そしてカン、と金槌で硬いものを叩く音がしたかと思えば、壁に吊り下げられた依頼札が応えるようにカタカタとひとりでに動いていち野の足元に落ちる。ポルターガイスト現象に肩を竦ませながらも、いち野は札を拾い上げた。
 札が部屋の中に飲み込まれると、すぐにあの小気味好い音が響いた。そうか、ここで生まれる刀剣たちは彼が打っていたのか。納得しながらいち野は部屋の隅に座り込む。鋼を熱する音や冷える音、鉄を打つ清らかな音を聞くのは好きだった。空は刻々と色を濃くしていき、金の細長い雲が混じり光っている。しばらく見入ってしまう凄まじい夕焼けの中、意識は微睡みに溶けていった。

「お前さんは知らなすぎる。俺にはちょっとばかし荷が重い。この刀なら、きっと力になってくれるだろうよ」


▲▼


 かしゃん、と音がする。
 一時の夢から目覚めたような心地で顔を上げると、台には一振りの刀が鎮座していた。いち野は絹衣を引きずり刀の前で深く呼吸をした。それからフッと息を吹き込むようにすると、次の瞬間には一人の男が部屋に座していた。
 上背は見たところ加州清光とさほど変わらない程度であろうか。軽く結い上げられた青碧の長い髪は、夕陽を照り返し美しい玉虫色に光っている。切れ長の目と薄い唇のせいか冷たい印象を受けるものの、首を傾げて笑みを浮かべた顔は人懐こい。いち野が正面に向き直ると、男は笑みを絶やさないまま軽く頭を下げた。

「はじめまして。僕はにっかり青江。元大太刀の大脇差だよ」
「は、はじめまして、いち野デス」
「あはは。うんうん、変な名前だと思うよねえ。けどそれこそ僕が呼ばれた理由でもあるんだよ。いわゆる指南役……かな」
「指南役?なんの?」
「槌の彼に言われただろう?力が有り余ってるのにちゃんと使えてないとね。それは君があんまり何も知らないからだ」

 細まった瞳の色は萌黄に水色の混じった不思議な色合いをしている。瞬きのたびにオパールのように揺らめく光の奥では、なにか秘密を知っている者特有の愉悦が見て取れた。
 外に行こうか、とにっこり微笑まれて手を伸ばされたのでいち野が素直に手を取ると、二人はそのまま作業小屋を後にする。いち野はふと後ろを振り返ってみたが、鍛冶場には既に何者の気配もなかった。

「彼があそこにいることは知ってた?」
「んーん。あそこは2215年に繋がってるーってこんのすけ……っていう政府のお使いの狐が言ってたから、見たことなかった」
「それは嘘だね」
「嘘?」
「この屋敷自体が君の力で形を保ってるんだから、一部が例外なんてことはない。偽りは知られてはならないことを隠す為にある。どこまでも無知でいるのが望ましいと思われているみたいだねえ、我らが主は」
「………何となく分かるけど」
「でも、それはあちらも同じこと」

 情報の秘匿する為には戸を立てるのが一番だ。しかしそのパイプを断つことは、同時にこちらの情報が漏れにくいということでもある。"何かを知ったのだと知られるのは悪手だ"と彼は言いたいらしい。槌の「開けるな」という台詞も同様だろう。どうやら彼ら付喪神は政府というものをあまり信用していないらしい。
 それはいち野とて同じだ。
 死んだはずの魂を弄くりまわされ、知らぬ間に決められた役目を負わされる。現状をそれほど悲観しているわけではないにしても、全てのお膳立てを終えたあと運命とやらを「選ばされた」ことに対して、怒りを感じていないといえば嘘になる。いち野は足を止めて引かれた手を握り、にっかり青江を真っ直ぐ見た。

「どうすればいい?」
「……いい子だね。じゃあさっそくやろうか」

 青江は少し目を丸くしたあと、面白そうに笑って屋敷の一角の前に彼女を導いた。縁側に並ぶ立派な柱を指差し、いち野に両手でそれに触れさせる。磨き上げられた檜の木肌は撫でるとなめらかで、鼻先を寄せると甘い香りがした。青江は後ろからいち野の肩に手をやって静かに話しはじめる。

「体を流れる血潮のように、"力"は全身を巡ってる。そしてこの場所は全てが君の力で命を得ている。それを意識するんだ。全体量が多いから垂れ流しでもどうにかなっているけれど、刀が増えると保たなくなるからねえ」
「い、意識するったって」
「ここ、脈打ってるのが分かるだろう?」

 手袋に包まれた男の腕がぐっと強めに少女の手首を握りこむと、圧迫された血管が脈動しているのが伝わる。青江の指が白い肌に薄っすらと透ける青い静脈を辿り、手の甲を通り、指先から柱に伝う。その動きを彼が繰り返すうちに、いち野は胸が徐々にどくどくと鼓動しはじめたのを感じた。
 例えるなら、全速力で走ったあとに体が火照って浮かされる感覚。手足の末端が火のように熱くなり、体が心臓そのものになってしまったかのように脈が早まる。指と木肌がくっ付いて血が通い、柱が一定のリズムで微かに呼吸しているのを感じる。途端にこの屋敷が自分の体の一部のように感じ、それこそ指の爪が5枚あると当たり前に知っているのと同じように、部屋の細部に至るまでを知覚する。額に汗が伝う。チリチリと火花が散る。それは心地よい炎だ。

 ―――ぱちんっ

「あっ……!」

 青江が強く少女の手を引いた。指が離れ、ひどく焦ったような声が上がる。引き込まれそうになった彼女の意識を引っ張り上げるように、男ははっきりとした口調で手を示した。

「分かるかい?」

 まだ繋がってる。
 いち野は自身の手をじっと見つめると、指先が柱から離れたにも関わらず先ほどの感触は薄れず、血管が繋がっているかのように張り巡らされているのに気付いた。それは屋敷だけに留まらず、地面や庭の木々、肩を支える男の体すら範疇である。自分の力で形を保っている。その本当の意味を少女はごく感覚的に理解した。
 青江は優秀な生徒ににっこりと笑う。それが嬉しくて、いち野は浮き足立った気分になった。温い水の中で裸で揺蕩うていて、どこか遠い所に意識があって、産毛が逆立っている感覚。海の中のように足が軽い。膝をかかえて眠っているようでもある。穏やかな雨のように降り注ぐ声に、睫毛を伏せてただ浸っていられるのはなんだか幸せだった。

「手足を動かすのと同じように」
「全ては君の思いのままだ」
「認めたものだけを受け入れ」
「害意のあるものは弾く」
「ここは檻でもあり」
「しかし城でもある」
「たとえ高位の神であろうと、君の許可なしには誰もここへは入れない」
「足りないものは」
「過不足なく」
「満たされ」
「ここへ」
「戻る」

 波紋のごとく広がる声に身を委ねているうちに、いち野はふとここは冬が長すぎると思った。元々寒い地域にでもあるとばかり思っていたが、彼の話を聞いていると場所は関係ないようだ。時間を忘れた地。ここを長い長い冬に閉じ込めてしまっているのは自分だったのかもしれない。
 そろそろ春が来ないかな。
 考えた途端、ふと爪先を日向が撫でる。肌寒い空気ががらりと変わり、柔らかい陽気が体を包む。甘い香りがする。瞼を開くと目に飛びこんできたかくも鮮やかな白と桃と赤に、いち野は頭がついていかず呆然と口を開けた。

「やあ、すっかり春の景観だね」
「うわ、うわー……!」

 冬の間は沈黙していた木々たちが色とりどりに胸を張って揺れる。清廉な白梅、見事な紅梅、水際の枝垂れ梅はごく薄い淡紅色が美しく、その姿を池に映し、まるで滝が流れるがごとく咲いていた。足元には水仙が背を伸ばし池を賑わせている。その横には白木蓮が並び、大きな花をたくさん枝につけている姿は、遠目に見ると真白の鳥がいっせいに飛び立つ間際のようだ。
 しかし今その全ては夕陽に染まり、赤い洪水に沈んでいる。水は光り、白は金に、赤はより紅く、混じる夜の気配で、この世のものとは思えない光景であった。その景色と匂い立つ春の香りに、いち野は身を震わせた。それから一瞬静かになったと思えば、裾を引っつかんで梅目掛けて走り出した。

「すっごい!すごーーい!超やばい!あはははははー!!咲いた咲いたーーっ!!青江まじですごいすごい!花咲か爺さん!あははははっ!!」
「はいはい、良かったねえ」
「いやー春だ!これは完全に春!お花見したいね!お弁当作ってさ、」

 地面につきそうほど垂れた枝々に抱きつき、じゃれついて笑い転げる。目の前で起こった魔法のような光景にテンションがハイになってしまったようだ。青江は微笑ましいものを見る顔でそれを眺めていたが、ふと彼が表情を変えて歩み寄った次の瞬間、いち野は花びらの海の中で糸が切れたように力を失った。
 倒れこむ前に彼がその体を支えたころには少女の双眸は閉じられ、すうすうと呑気に寝息を立てている。どうやら電池切れらしい。これほど大規模に力を使ったのは初めてだったのだろう。小さな肉体に有り余るほどの力を有しているせいか、この少女は普通の人間の休む時間では足りそうにもない。
 
「よく出来ました、かな」

 青江はいち野を抱き上げて微笑む。これで政府がここに干渉することは難しくなった。使者との交信にも支障が出るかもしれないが、いち野にはこちらのほうが安全だろう。彼は自身の主になる者が、他者にいいように使われているのを許すほどお人好しではない。
 日が落ち始めている。
 花びらまみれになった少女を抱えたまま屋敷に足を踏み入れると、ひとりでに戸が開いて彼を案内した。青江はそれに素直に従いながら、さてこの物に好かれる少女の刀剣たちに一体どう説明すべきか――下手をすればいきなり斬り合いになるかも――と頭を悩ませていたのだった。


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