天狗が跳ねている。 一本歯の下駄で軽々と木の枝を蹴り、明るく冴えた月光を背負って、鞠のように軽やかに。彼の身丈の三倍はあろうかという高い杉の木の天辺にもぽーんと昇ってしまうので、その背に羽がないことが不思議なくらいだった。やがて天狗は細い三日月に腰掛けてこちらを見る。兎のような無垢な目だった。 いち野は珍しくの大島紬を着ていて、矢絣と銘仙の鮮やかな赤い羽織りで体ごと抱え込んでいたが、その時ばかりは寒さも忘れて天狗に目を奪われて口を開けていた。
「すごーい、いいなあ」
思わずといった調子で零された言葉に、天狗は照れたように小さく笑ったあと、意外そうに目を丸くして小首を傾げて「とべないんですか?」といち野に問いかける。少女は自分が声を漏らしたことに気付いて目を瞬かせ、それから当然首をふるふると横に振って飛べないということを示す。するとその小さな天狗はまた軽く木の枝を蹴り、すとんといち野の目の前に降り立った。 月光の中に青白く光って見える肌はまだ柔そうで、伸びしろのある細い手足のシルエットでも彼が少年の姿をしていることがよくわかった。背はいち野より少し低いかもしれない。彼は白い房飾りのついた手をやさしく伸ばして、透き通った赤い瞳の奥に自信を輝かせ、いち野に告げる。
「できますよ、あなたなら!」
その声があんまり曇りなく真っ直ぐだったので、なんだかできるんじゃないかという気がしてしまった。羽もないくせに期待してしまう。いち野は躊躇いにその掌をしばし見つめたあと、恐る恐る自分の手を重ねてみた。すると天狗はにっこりと笑って、すぐに下駄が小気味よい音を立てて地面を蹴る。ぽーんと飛び跳ねる。いち野は味わったことのない浮遊感に思わず目を閉じてしまう。 からだが重力を忘れる。 ほら、みてください。高い声に促されて少女が薄く目を開けると、何時の間にか一番高い杉の木の天辺に立っていた。先ほどまでいた建物の屋根があんなに遠く見える。怖いという気持ちが一気に吹き飛んで、いち野はきらきら輝いた瞳で天狗の小さな手を急かすように引いた。ただもう一度空を跳ねてみたかった。
「あははっ!いきますよー!」 「ゴーゴー!」
木から木へ跳ねる。夜から夜を渡る。天狗は誰にも掴まらない。この場所がこんなに広く見渡せるだなんていち野はちっとも知らなかった。鳥や天狗はこんなに広く自由な世界をずっと見ているなんて、とても羨ましいと思う。雲ひとつない空は静かで、繻子のように光って濡れている夜だった。ここにいる。それ以上ただ何もない。 どこまで行こうか。 宇宙の果てまで飛べそうだ。
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起きてから顔を洗って庭を改めて眺めてみたら、背の高い杉なんて一本もなかった。立派な松が池の奥に植わっているけれどそれだけだ。何となく諦めきれない気持ちに駆られて縁側でとんとんと跳ねてみるが、当然ながら空までひとっ跳びとはいかない。 悔しいので勢いで縁側からぴょんと降りると思いの外地面まで高さがあってビビったが、間一髪後ろから伸ばされた手が腰に素早く回ってそのまま持ち上げられた。宙ぶらりんの状態から急に高度があがって「ひええ」と間抜けな声が出る。逆さになった視界で、岩融が笑みを浮かべていた。
「何を跳ねてるかと思えば、いやはや主は危なっかしいなあ」 「あーーおかえりーー」 「朝寝坊したな?」
逆さのまま鼻を摘ままれて息が詰まる。昨日の夜に朝一番から出陣すると決めていたのに、すっかり寝こけてしまっていて、起きたら本丸に誰も居なかった。もともと寝付きが悪いため朝が弱いのだが、こんなに熟睡してしまったのは久しぶりだ。あんなに楽しい夢を見たからだろうか。 頼りにならない主が不在でも優秀な刀剣たちはさっさと行って既に帰ってきたらしく、厨房のほうから朝ご飯のいい匂いが漂ってくる。あとで薬研に怒られるな、と遠い目をしながらやっと下してもらって縁側に足をつけると、ふと岩融の後ろに誰かがいるのに気付いた。小さい影だ。
「さあて、今日は狩りに成功したぞ!それも聞いて驚け、俺も知っている者だ」 「んん?」 「えっへへー!ぼくは、今剣! よしつねこうのまもりがたななんですよ!どうだ、すごいでしょう!」 「……んん!?」
大きな岩融の後ろから現れたのは鞍馬の小天狗。月の光のような髪に兎みたいに赤い瞳。一本歯の赤い下駄。胸を張って誇らしげに笑うその少年の姿にはひどく見覚えがある。この本丸に大きな杉の木はないし、昨日は三日月でもなかったけれど。けれど。 夢だけど、夢じゃなかった? 呆気にとられてぽかんと口を開けている私に、今剣は岩融に見えないように人差し指を立てて口元にあてたので、思わず唇を閉じる。悪戯っぽく笑う顔。ないしょですよ、という天狗の声がどこからともなく聞こえた気がした。
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