もしも優しく触れられたら、逃げようと思っていた。
細い石畳の裏路地を抜ければ、そこに簡素な白壁のアパルトメントが見える。観光地が近いせいでろくに改築もされていないそこは良く言えば趣き深く、悪く言えば古臭い。昼には見事なゴンドラが進む用水路に、しとしとと霧雨が降り注いでいた。 ヴェネツィアは機嫌が悪い。 安物のビニール傘の上空で鈍色の雲が流れていく。昨日から続いている雨模様は未だに止みそうにない。ポケットから鍵を取り出して差し込み、右向きに回せばキーホルダーの揺れる音しかしなかった。なんだ、開いてるじゃないか。
「不用心だなぁ」
独り言は壁に吸い込まれる。 確かに左官職人なんてアナクロな仕事に人生と血肉を捧げているようなここの住人にとって、盗まれて困るようなものは部屋に置いていないのかもしれない。 砂埃と塗料で汚れた服が床に脱ぎ散らかされ、シーツだけを纏って投げ出された肢体。疲れて帰宅したあと、辛うじてシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだという感じだ。うつ伏せになったむき出しの引き締まった肩や背中を眺めていると、彼女は本当に美しい獣のようだった。 音を立てないように忍び寄って、枕に耳をつけた顔を覗きこむ。眠っていても警戒心を解いていないような堅い表情のはっきり整った顔は、いくら眺めていても飽きそうにない。けれど欲を言うなら、その凛々しい眉を顰めて、無礼を咎めて欲しかった。
「アンリ、起きてくれよ」
返事を期待していない声で呼びかける。自分でも吐き気がするほど甘く媚びた響きだったので、それが滑稽で笑ってしまった。 買ってきた彼女の好物を早く冷やさないといけない。フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス。そのほかのアップル・ブランデーだと渋い顔をする。冷凍庫で保存すると凍らずにとろりとよく冷えて、アンリはそれが一番好きらしい。 家主の好みを把握してそれをストックするのは自分の役目だ。同時に彼女の関心のない部分は、自分の好みで過不足なく埋めていく。己以外には興味がないとばかりのアンリに、少しずつ少しずつ、インクを染み込ませるように影響を受けてもらう。いつでも恭しく貪欲に。それが堪らなく心地よかった。
「アンリ、アンリ……」 「ん……、」
しつこく耳元で名前を呼ぶと、掠れた声が小さく上がる。高揚を隠しきれずにもう一度名前を呼ぶと、怪訝そうに薄く瞼が開いた奥で、鷲のように鋭い金色の瞳が覗いた。暗闇にあやしく光るそれにぞくぞくと背中が痺れる。彼女が聞き分けのない犬を躾けるような、呆れと僅かな愛着を滲ませて自分を叱責する瞬間が好きだった。 繰り返し生まれなおし、何度生まれても失敗する。相性の悪い男女から出来損ないが生まれても同じこと。自分の根底を知りもしない相手に、肯定されるのは苦手だった。 だから罵倒されると安心する。
「愛してるんだぜ、君を」
俺は俺を愛することができない代わりに、君を心から愛せているんだ。 美しく強く鋭いその視線や、声や手が、自分をいつか根本から粉々に壊してしまうことをいつも期待している。居ないようには扱わず、正しく咎めて欲しい。ベッドに膝から乗り上げて軋みを上げれば、一層彼女の眉根が寄せられる。雨の湿った匂いが纏わりつく。こんな雨だから明日の仕事はお流れだろう。 愛しい手がゆっくりと近づいてくるのを見ながら目を閉じる。触れたが、痛みはない。代わりに首に絡んだ腕に引かれ、身体はベッドに呆気なく倒れ込んだ。
「………えっ、は?アンリッ」 「メローネ」 「は、」 「静かにしなさい」 「ハイ」
確かに、叱咤ではあるけれど。 反論の余地もなく、暗くなった視界に驚きのあまり硬直する。何度確認しても夢ではない。あのアンリが自分を抱きしめて、あまつさえ指先は髪を梳くように撫でている。辛うじて首を動かしてみると、彼女は再び深く眠りに落ちていた。 自分を捕らえる温度に当てられて、一気に顔に熱が集まる。おかしい。寝ぼけているだけだ。抱きしめられて嬉しいだなんてガキじゃあるまいし、何を馬鹿な。抵抗もできずに大人しく腕に収まっていると、鼓動の音と窓ガラスを叩く優しい雨音が耳に染みてくる。
「……勘弁してくれよ……」
もしも優しく触れられたら、離れようと思っていたのは、絶対に有り得ないと思っていたから。恋人を優しく愛撫する手など自分に与えられるべきではないし、第一彼女が何のつもりでこんなことをするのか分からないし、何だか無性に泣きたくなった。 結局、言い訳か。 インクが滲みるように浸食されているのは果たしてどちらだったのだろうか。これは毒だ。恒久の時間をかけて死に至らしめるためのもの。でなければ出来損ないの自分にはもう到底理解できるものではない。もうアンリが目を覚まして自分をベッドから蹴り出そうとしても、絶対に退かないと意地になって、ようやく瞼をきつくきつく閉じた。
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