思い出されるのはいつだって灰色の土砂と、埃っぽい匂い。もうすっかり体の芯にまで届いている。それから切り売りするための量りの音。隠匿した事実には永遠に蓋をすればいい、開けたがるのは、自ら罪と思うからだ。
 煙草に火を点けるだけでいい。
 あの子には必要がない。
 コンクリートを掻き混ぜるための振り上げたシャベルは明らかに子供が持つ重量ではなく、雨で滑るタラップにたたらを踏んで悪態をついた。舞い上がる粉塵と酷い匂いが喉と鼻に入り込んで粘膜に張り付き、がなるように咳をしたが、何の解決にもならなかった。


▲▼

 アンリ・カラヴァッジオがヴェネツィアのある左官職人に弟子入りしたのは、自分と弟が生きるために必要な賃金が手に入ると踏んだからだった。
 一年。修行は過酷を極め、疲労骨折で、肺炎で……と同時期に仕事を求めてこの劣悪な環境に飛び込んだ少年たちは一人また一人と姿を消し、いつしか大人に交じり作業をするのは早くも彼女だけになっていた。
 手に職とはよく言ったものだ。一生職と金に困らないようにするなら、自分にしかできないことを持てばいい。若くしてそれを悟っていた彼女は、元よりよそ見をする素振りさえなかったのである。

 汗だくで渋面を作っている群衆をよそに、ただひたすら壁に塗料を走らせるアンリを見て、年上の弟子はさらに眉を寄せた。元は黒だったであろう癖毛は、恐らく強い薬剤にさらされて痛んでいるのだろう。強い日差しに照る色には赤銅色が混ざっている。自分とて黒髪だが、普通に作業をしてたってああはならない。
 きっとそこの分岐で大きな壁ができ、格差が生まれ、そうして生きる道が組み立てられていくのだろう。嫉みに唇を噛んだ男の脇腹を、別の無骨な肘がつついた。

「なあオイ、オイって!」

 男が振り向くと、青ひげの同僚が“これから面白い話をしてやるぞ”と言わんばかりに唇を湾曲させている。

「何だよ、うるせえな」
「聞けよ。あのカラヴァッジオ、どうも妙だ。母親も蒸発したか病死したかっつって居ねえ上に、先月父親までアル中で頭イッちまって、行方不明だってェいうじゃねえか」
「……父親も?ふゥン、そりゃ知らなかった」
「しかも、まだよちよち歩きの弟まで居るっつうのに……金はどんな工面してるんだかなァ?」

 下卑た口元を見て、釣られるように黙々と仕事をこなす後ろ姿に目をやる。大人顔負けに振りかぶっているシャベルの勢いは、人間くらいの腹なら破ってしまいそうだ。青ひげの言わんとしていることを薄らと理解して、男は身震いする。
 犯罪というのは聞くところによると、随分儲かるらしいのだ。

「そりゃ……もしかして、父親を」

「殺した?」

 ジャリと渇いた音がする。
 昨夜の雨と汗も蒸発させてしまいそうな強い日が、石とコンクリートで固められた地面を照らしている。薄汚れた靴が踵をつけて歩く音が、まるで聞こえた馬鹿な話を、心底下らないものを踏みつけるような。
 何時の間に、と声にならない声が青ひげの喉を引き攣らせる。先程まで確かに数十メートル離れた場所で背を向けていたはずなのに、という驚嘆に、端然たる声は応える気はないらしい。

「私が殺したと、思いますか?」

 日焼けした頬はまだ柔らかな少女の面影を残すが、獲物を狩ろうとするイヌワシのような金色の瞳のせいで、精悍な印象を強く持たせる。更に背もずいぶん高い。シャベルを握る彼女を一目見てリトル・レディと呼べる人物は、恐らく存在しないだろう。
 真上から照らす太陽のつくる影が、長い手足からぞろりと伸びている。長い前髪から覗く瞳の鋭さに、大の男二人は縮み上がった。

「いや、いやァ、噂だ。ただのくだらねえ噂さ………」
「よく聞こえませんね、自分の言葉に自信がないなら口に声にしないほうがいい。それに―――あいつはまだ生きてたんです」
「えっ」

 ―――ザシュッ!!
 まるでプリンにスプーンを差し込むような動作で、公道にシャベルの尖った部分が刺さるのを見て、男は目をかっ開いて脂汗を浮かべた。思わず自分の腕と後輩の腕の太さを見比べても、あちらが細くまだ成長しきらないのは明らかなのに、この人間とは思えない力はどこから来るのか?
 圧倒的な存在感に気圧されて、余計は口を叩けない哀れな子ネズミに、講釈は続く。知りたがっていた真実も、その声で紡がれては恐怖を煽るものでしかない。

「あいつが父親として人としてどれだけ底辺に位置する人間であったか、全て聞けばどんな愚鈍でも理解するでしょう。死んで笑った人間は居たとしても、泣いた人間は存在しない。そういう男がもはや動かない身体を持ってして、何の役に立つか………量りにかけるくらいしか価値はありません。不毛な真実を追うくらいなら、自分の責務を果たしたらどうです」

 それだけ言い残して、アンリは既に終えた作業の報告へ背を向けた。自立したシャベルが支えを失って徐々に倒れこみ、派手な音を立てて地面に転がる。その音にさえ足が竦み上がり、残る埃と煙の臭いが、呼吸が止まっていた肺の中に入り込んで二人揃って咳き込んだ。
 亀裂が二人を襲うように足元を伝っている。まるでこの溝が地獄まで続いているのではないかという錯覚さえ覚えた。


▲▼


 イタリア北東部に位置するヴェネト州は、イタリアらしい洗練された町並みと中央譲りの優雅な佇まいを見せる。黎明の光が淡く空を包み、完成した白亜の壁が冷たい温度を帯びていた。ひとつ頷いてアンリはローラーを新聞紙に擦り付ける。
 髪の長いシルエットが足元にかかり、振り向かないまま静寂を破る。足音は相変わらず無かった。

「自分がこの街に不適当だ、とは思わないわけ」
「面白い話を耳に挟むとついつい話したくなってね」

 膝を折って機材を片づけるアンリを後ろから覗き込むように、頭を逆さにしてにゅっと出す。蜂蜜が垂れるようなそれを一瞥して、男の顔にいつもある奇妙なマスクが無いことに気付く。こんな時間に何をしているのか、とは聞く気も興味も無かった。

「昔このへんでね、一人男が行方不明になったそうなんだよ。行方不明っていうのは、そいつの自宅から数百メートル離れた路地でビリビリになった服だけあって、血痕も暴れた跡も無かったもんだから警察は”アル中の男がイカれてどこかに消えた”って判断したらしいんだけどね」
「どこからが面白い話なのか私には理解しかねる。メローネ、そこの機材も集めて。廃棄するものなので纏めるだけで結構」
「はいはい。………ココからだよ。知り合いのギャングに聞いたんだけど……その同じ時期に、成人男性一人分の臓器をごっそり売りに来た子供が居たんだってさ。ちょうど10年前くらいに。ちょっぴりミステリーだろォ〜?」
「ミステリー?」

 沈む暗闇。子供は泣き疲れて眠っている。這いずり回り逃げ惑って、元は女が寄ってきやすい顔立ちであっただろうその顔面は、何度も殴られて原型をとどめておらず、ひゅうひゅうとまともに喋れもしない。その動かない四肢を押さえつけ、服ごと割いて、どこが高額で取引されるかは、治安の悪い場所に十年来住んでいれば知っていた。
 声にならない叫び声は無視して、いつもどおり作業をするように。自分の半分を分ける流動など見ずに、ただひたすら。

「そんな大層な話じゃあないでしょ。その子供が男の腹を裂いて臓器を取り出してひとつ残らずギャングに売りとばした。それ以外の答えがある?」
「……なァ、アンリってホントにソッチの連中じゃないわけ?親指に針刺して、血と血を交わす掟みたいなのするタイプの」
「お礼参りは口に石を詰めて拷問する?そんな高尚な趣味なんてないし、服従のと沈黙の掟なんていうネーミングもセンスが欠片も感じられなくて気に入らない。私の人生においてそんなロスは必要ない」

 荷物を全部メローネに持たせ、ZIPライターでJohn Player Specialに火を点ける。タール11mgにしては吸いやすく、煙が多いところが気に入っている。紫煙がくゆり空気に溶けるところ眺めるのをアンリは特に好いていたからだ。
 引き締めたところを普段あまり見せない顔にニヒリズムと少しの愉悦を浮かべ、先を歩く後ろ姿に傅くのが自然のようにしっかりと持ち手に力を込め、暁天と同じ薄紫の瞳を持つ男はブーツを鳴らして歩き出す。

「そういうと思ったよ」

 首を精一杯伸ばして、耳の裏に彫られた「Un fannullone(怠け者)」のタトゥーに唇をつける。アンリは母親が生まれたての赤ん坊にするような色気のないキスに不愉快そうに眉を寄せて、まだ少ししか吸っていない煙草の先をその手の甲に押し付ける。
 じゅっと肉の焼ける音。
 メローネは爪を少し荷物に食い込ませただけで、また愉悦を滲ませていかにも幸せそうに笑う。700℃を越える熱が肌を焦がす苦痛はこの上もなく、うめき声を上げても可笑しくはない。しかしそれ以上に甘美感が勝る、神秘な体験でもしたかのような表情を見せるこの愚かしい男のことが、少しだけ愛しくなるのだった。

 こんなものは愛撫ではないというのに。


聖テレジアの法悦


 この男を愛せば、間違いなく自分は堕落する、という確信だけが警報を鳴らすのだ。






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