見覚えのあるドルチェ・アンド・ガッバーナの黒い靴が玄関にきっちりと並べられている。傷ひとつないピカピカの革は左の内側だけくったりと使い込まれていて、持ち主の癖のある歩き方が表れていた。 どうしてこの男は私の部屋で我が物顔をしてくつろいでいるんだろう。Ciao!Ciao!と陽気にこちらに手を振る男の妙なマスクを引っ張って破いてやりたくなったけど、それでゴミが増えるのも癪だ。
挨拶を無視して洗面所で手を洗うのに2分、「耐える」というコマンドを母親の胎内に置いてきたメローネが背後に迫るのは2分35秒。カップラーメンの方がこいつより優秀である。食べ物を連想して私の腹の虫が暴れるのを聞き逃さなかった奴が甘々しく笑う。
「今日の夕飯はほうれん草とチーズのラビオリだよ」 「チーズ?どこで買ってきたのかしら、まさか最寄りの市場でなんて不潔極まりないところで手に入れたんじゃないでしょうね」 「まさか!大手スーパーの無菌で清潔なチーズさ、パッケージにアルコールだって振ったぜ」 「なら別に文句なんて言わずに食べるわ、ええ、そうしましょ。タオルちょうだい」
洗い立ての真っ白なフェイスタオルを丁寧に寄越した男は、視線が会うと茄子みたいな色の目を喜びに細める。アメジスト?そんな綺麗なもんじゃないわ、実際はどこ見てるかなんて分からない気色悪い目玉だもの。 手癖の悪いチンピラにしては素直に重力に逆らわず伸びる、蜂蜜色の髪がゆらゆらと揺れている。これを見るといつも同じことを思うのだ。
「鋏でザックリ切りたい」 「そう言ってこの前だって一房切ってあげたのに、まだ言うのかい。君のせいでオレの髪型がすっかりバラバラになっちまったよ。今度は左?右?」 「今朝からゴミ袋入れてないから、やっぱり構わないわ」 「入れとくよ。あとそうだ………オレ今日バールで知り合ったマルチェッラに『あなたの子供ができたの』って言われたんだよ」
オレ、種無しなのにね。 そう言って朗らかに笑う鼻っ面を握り固めた拳で思い切り殴りつけた。話の内容なんて大して聞いてなかったが単純に顔にムカついたからだ。まともにくらったメローネはもんどりうって床に倒れ、両手で鼻を押さえている。くだらない作り話に貴重な時間を使わせた罰ということにしておこうかな。 一応名誉のために言っておくなら、コイツが達する瞬間に血が出るほど殴られるか噛みつかれないとイけない変態であるというのが真実で、私が特別どうというわけではない。 カーペットを汚したら一緒に焼却処分にしてやろうと思いながら、フライパンのラビオリを少しだけかじった。
「……ッ!!!ブッ、うぐ……ッ!……あ、美味い?」 「ほうれん草のはまあまあ」 「それくらいのだったら、いつでも……作れるよ。うわ、口の中鉄の味しかしない……」
フラリと一歩踏み出して、何かを主張しはじめている。 瞳を涙で濡らしながら鼻血塗れの顔を近づけるのは止めてほしい。獣のような生々しい息遣いに今度は下を蹴り上げてやろうかと思ったが、"パール入りの上にズタズタの左曲り"なんて服とスリッパ越しでも触りたくないので止めておくことにする。私はなんて優しいんだろう。
メローネが背筋を伸ばそうとして失敗したような姿勢で、視線をブレさせずに直視するなんて芸当が出来たとは驚きであるが、実際こっちを見ている。何か言いあぐねているようだ。斜に構えている自分が大好きなひけらかしも、言葉に詰まることがあるらしい。 あと5秒経って何も無かったら食事にしよう、と決めた瞬間、また甘やかな声がキッチンに響いた。
「仕事は真面目にやればけっこう稼ぎがあるし、料理だって毎食作るし、黙れって言ったら黙るのは、まあ努力次第だけど。ねえ、オレってけっこうお買い得じゃないかい?」 「……………………」
本気で沈黙で返してしまった。 誠実そうな瞳を装っているつもりの緊張した面に噴き出しそうになる。疑問形ということは私に回答を求めているとでも言うのだろうか、非常に困る。特に返答が用意できそうにない。 長い静寂に焦りが募ったのか、メローネはさらに一歩踏み込んで詰め寄ってきた。鼻血がキッチンのオレンジ色の電灯に照らされてぬらりと照っている。
「なんで迷うの!君のワガママに付き合えるのなんてイタリア全土を探してもオレくらいなんだよ、分かってる!?」 「……で?」 「風呂のときはヴェレタのバスミルクも毎回用意するし、帰ってきたら部屋はピカピカだし、ゴミだっていつの間にか消えてるだろっ!?」 「だから何?もう少し思い切ったこと言えないのかしら」
甲斐甲斐しく人の周りを働きアリのように傅くのが好きなのは自分のくせに、頼んでもいないことを"やってあげている"とばかりの口調に眉が吊り上げれば、困惑というヴェールの後ろに期待を透けさせるどうしようもない男。 うっとおしいので少しだけ手を差し伸べてやったら、メローネはまるで主に導かれたとばかりに跪いて手の甲にキスをした。血が乾いてなかったらまたブン殴っていたところだが。
「君はこの部屋に居てくれるだけでいいから……ッ!」
立てつけの悪い雨曝しの小屋で主人をただ愚鈍に慕う犬のような目だ。
死にもの狂いで懇願する姿はなかなか笑えたので、また新しく血がしたたり落ちた鼻のあたりに思い切り噛みついたら、悲鳴のような嬌声が上がった。ああ気色の悪い。大体、それじゃあ今までと変わっていないことにこの男は気付かないのだろうか。どうせ意味合いが違うなんて思春期に頭が湧いた少女のような譫言をほざくんだろう。 合い鍵のついた首輪くらい、自分で用意しなさいな。
暴君
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