たとえばコインを弾いたとして、表か裏かは落ちてくるまで分からない。確率は等しく二分の一。それが文明の発達した現代における常識というものだ。
 では条件を加えてみよう。弾いた指の強さや向きが正確に分かるとしたら予測は変化するか。コインの重量、密度、重力、抵抗、軌道上の動き、その他諸々の諸要素をすべてを完璧に計算できるとしたら、理論上コインの裏表は"弾かれた瞬間に決定している"といえる。同様に―――宇宙がはじまったとき、すべての原子の位置と質量を計測可能な"知性"が存在するとしたら。
 それは運命と呼べる代物だろうか?

 親愛なる観測者殿。
 為すべきことが今まさに近付いてきている。天狼の尾から小さな王にまで至り、朝の縁と夜の底を覗き込まなければならない。それが我々に課せられた役割だ。勇敢なる外世界の協力者、不屈の体現者。貴方がこの役目を終えたとき、誰より幸福であることを願っている。


▲▼


 現在時刻22時57分。場所は日本・冬木市。品のいい家が並ぶ整った街の夜更けは、賑やかな新都とは違い落ち着いた静けさを保っている。歩くたびに靴のかかとが高く響いては気まずくなるほどだ。
 私は数分後にここで死ぬ。
 奇妙だと、普通なら考える。そんな突拍子もないことは信じられないし、仮に信じるなら今すぐ死に場所から離れるべきだ。誰だって死には背を向けるのが道理というものだろう。
 だが今回に限って、私はその運命を見届ける必要があると感じていた。何故ならこの「死」は予言や占いの類ではなく、ただ事実として私に伝えられたからだ。そうでなくては歯車が噛み合わないのだと。

 百聞は一見に如かず。
 この場所には目的を持って来たわけではないから、行先はあてどない。年明けからしばらく経った冬のわりに、あまり寒さは感じないのは街の気候のせいだろうか。歩を進めながら夜食にしたサンドイッチのゴミを捨て忘れたことを思い出す。観光地でもない住宅街をキャリーケースを引いて歩く女は、夜の薄暗がりのなかでかなり悪目立ちしていた。

「あと2分……」

 携帯を開いて時間を確認する。こんなことなら腕時計を着けておけば良かったと思うが、習慣にないことはたいてい上手くいかないものだ。暗闇の中で光る画面は目に痛い。デジタル時計の無機質な点滅は22時58分を示し、時は刻一刻と進んでいく。

 あと1分と数えたところで、視界の端で何かが走ったのが見えた。まるで一かたまりの青い稲妻が意志を持って疾走しているかのように、それは素早かった。研ぎ澄まされた獣の一対の赤い瞳がこちらを捉え、不機嫌そうに細まって方向を変える。屋根を蹴る音は軽い。そこでようやく理解する。
 あれが私を殺すものだ。
 ことここに至り、死の恐怖が背筋を這い上がってくる。一抹の希望を抱いていたのだと自覚する。嫌だ。死ぬのは怖い。まさか殺されてしまうなんて。けれどこれはもはや"書き換え不可能"の舞台なのだ。がくがくと膝が震えて逃げろと叱咤するが、なんとか目を瞑って体を動かないよう押さえ込む。

「――――ッ!」

 ほとんど衝撃もなかった。
 息を飲んだのはどちらだったのか。月に照らされる赤い長物が、真っ直ぐに私の体を貫いている。ズッ、と体から鉄の抜ける音が生々しく伝わった。寒気がして指先が震える。そのせいか腰から足にかけて落ちた液体の感触が、湯のように熱い。目を見開く男の顔を最後に意識が途絶える。
 痛みはなかった。けど、寒い。
 とても寒い……。



 「彼女」が目を閉じた先では、現代に似つかわしくない槍を構えた男が立ち尽くしている。血溜まりに転がっている殺した人間の、濡れた死に顔を見下ろして、憂鬱にため息をついた。

「死ぬのが泣くほど怖いのに、なんだって逃げなかったんだよ」




▲▼




 ―――マジで死んだ。
 時刻は20時30分。客もまばらになったカフェで一息ついたあと、夜食用のサンドイッチをテイクアウトするところだった。浮かせた腰をカフェの席に下ろし、両腕で腹を抱えて背を丸める。体の震えが止まらなかった。
 人はどうして、厄災を目の前に示されても自分だけは大丈夫などと思ってしまうのか。正直言ってただの悪い夢だと思っていた。だからわざわざそれを確かめるような真似をしたのだ。だが体感してみて初めて本当に理解する。私は確かに死んだ。張り詰めていた水風船に穴が開くように、そこから命が噴き出して、それで終わった。
 心臓が痛い。
 あの男に刺された場所が疼いて傷んだような気さえするが、精神的な理由なのは明白だった。顔を上げて空になったカップをじっと見つめても、果たして逃避にもならない。

 ……分かった、認める。
 私は数時間後、招致されたここ冬木市の住宅街で刺殺された。未来に起こるのに「された」とはおかしな表現かもしれないが、私の中では時間は連続しているのだから仕方がない。そして死んだ瞬間に、数時間ほど"世界が巻き戻った"。まるでゲームのコンティニューのように。
 改めて状況を確認してもとんでもない事態だ。そんな馬鹿馬鹿しいことを事実だと認めなければならないなんてそれこそ死にたくなるが―――証拠があるのだから仕方がない。諦めて腕をほどき、体の底から息を吐く。

「これも夢じゃない……ってこと?」

 恐る恐る鞄に手を伸ばすと、すぐにしっとりと肌に吸い付くような感触が伝わる。取り出すと狭い机をほとんど占領してしまうほど大きく、表紙は金文字踊る古めかしい革装丁の本だ。おもむろに真ん中でページを開いて、唇の中でひっそりと自分の名前を呟いた。
 ―――ぱら、
 本は強風に煽られたような勢いでひとりでにページを進め、指示されたとおりに止まる。羊皮紙の上に乗せられたインクは緑とも青ともいえる鮮やかな艶をを失っていない。それでも随分昔に書かれたであろう文字を指でなぞり、肌に染み込ませる。万が一の逃げ道を残らず丁寧に殺していくように。悪夢を振り払うように。


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 アンリ・マーキナー。
 2002年1月22日正午、ラプラスの魔と契約しマザーデータベースへの正規ログイン権利を取得。1月23日、冬木市で行われる第五次聖杯戦争の「オブザーバー」(ラプラスの魔の擬似サーヴァント)として当地へ召喚。ランサーのサーヴァントによって一回目の死を迎えたため第一世界は観測不能、因果の逆転により第二世界へと移行。"因果律の終着点(アカシック・レポート)"の発動を確認する。
 なお、以下の文章は最も可能性の高い未来情報であるため、閲覧には注意すること―――。

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