廃墟同然の街を黒のパンプスが迷いなく歩んでいく。ビジネスシューズにしては背の高いそれに、野暮なストラップは付いていない。切れかけた街灯を照り返すキッドレザーは迫る夕闇に光り、一週間ぶりの帰宅を急いだ。 この風景すら既に懐かしい。 都内への出張はそれほど珍しくはないが、これほど長期となると疲れも溜まる。ゴーストタウンのど真ん中にある簡素なボロアパートとはいえ、やはり自宅が一番なのだ。
鉄骨階段をヒールが機嫌よくタップする。点いたり消えたりを繰り返す、古い電灯はそろそろ代え時だろうか。錆びた手すりにつかまって昇ればそこには。
「……人んちで何してんの?」
見知らぬ若い男が自宅前でゴミ袋を提げていて、アンリは思わずそう声をかけていた。 この辺に人だなんて珍しい、と至って冷静に煙草をふかしながら、恐らくサイボーグと思しき青年は訝しげな態度を隠しもせずに眉を上げた。それなりに整った顔立ちだが、家庭ゴミを引っ提げていては格好もつかない。
「お前こそ何だ、ここは先生のご自宅だぞ」 「ここは私の家よ」
成る程、これは直接話したほうが早そうだ。青年の人の話を聞かなさそうな雰囲気を敏感に察知し、後ろから声をかけてくるサイボーグを無視して自宅のドアを開ける。 中では家を預けておいたはずの男が、上半身裸にスウェットというだらしのない姿で漫画雑誌を読んでいた。ただでさえ狭い部屋に大きな荷物と、机に積まれた大量の札束。思わず柳眉を寄せ、アンリはサイタマに向かって無言で煙を吹きかけた。
「おー、おかえりー。煙てーよ」 「ただいま」 「先生、この人は?」
手のひらを返したように恭しい言葉づかいの青年に、サイタマはタバコの煙をパタパタと手で散らしながら、何と説明したものかとやや言葉に詰まる。いや、説明するのは一言なのだが、改めて紹介するというのも……と迷いを見せたあと、そしてジェノスに見えるようにピッと小指を立てる。
「俺のコレ」 「コレとは?」 「は?分かるだろコレだよコレ」 「………?」 「ああもう!!恋人です!!」
やけくそで叫んだサイタマにアンリが思わず噴き出したと同時、ジェノスがやっと合点がいったように成る程と頷いた。
▲▼
「……これは俺一人の戦いじゃない。俺の故郷やクセーノ博士の想いも背負っているんです。自分が未熟なのは分かっている……そしてクセーノ博士は」 「分かった、残りは報告書にまとめてちょうだい」
長い顛末に眉間を押さえ、話を一刀両断してアンリは二本目のタバコに火をつけた。 二人がこのアパートの購入を決めたのはここがゴーストタウンと呼ばれる前のことだった。当時就活を止めてヒーローになると決め、サイタマはアルバイトで得た収入以外ほとんど無収入のヒモ状態であったため、当然ここの契約も全てアンリが行っている。 つまりここの家主は事実、正座したジェノスの真正面に煙草をふかし、仁王立ちを決め込んでいるこの女性なのである。
「サイタマは金に釣られたんでしょうけど、私はそうはいかないわよ」
軽く組んだ腕や服装、頭髪に至るまで一分の隙もない出で立ちは、人の上に立つ人間特有の威圧感を持っている。この地球上で最高クラスの強さを誇るサイタマでさえ、全くといっていいほど彼女に頭が上がっていない。ジェノスが居ずまいを正すには十分な事実である。 ただでさえ狭い部屋にこんなデカい男を住まわせるなんて冗談じゃない。室内をぐるりと見渡したアンリは、出張に行く前と壁の明るさが違うことにふと気が付いた。いや、よく見れば部屋の隅々まで塵一つ落ちていない。そういえばゴミを捨てていたな、と振り返ると青年はあからさまに顔を緊張させた。
「掃除、あんたがやったの?」 「は、はい!」 「んー……合格でいいか」 「は!?おいおい!」
突然の合格判定に目を丸くするジェノスの横で、サイタマが声をあげてアンリに詰め寄る。つい同居の許可を与えてしまったが正直なところ早まったような気がしていたので、アンリが追い出すのならそれでいいかと胡座をかいていたらこの結果である。 煙草の火がつかないよう指に挟んで高く上げ、頭を下げる青年に聞こえないよう顔を近付けて肩を引き寄せたかと思えば、彼女はやや含みのある表情で薄く笑った。
「あんた、強くなりたいとか言われて絆されたんでしょ。しかも先生なんて呼ばれてちょっとばかし舞い上がったわねサイタマくん?ンー?」 「うぐっ……!」 「いいじゃない、人に教え始めたら張り合いも出るかもよ。それに……」 「それに?」 「ルンバ、欲しかったのよね」
深夜のことである。帰ってきたときに流れていた番組で、彼女がロボット掃除機の通販を熱心に観ていたことを、サイタマは鮮明に思い出した。曇り一つなくなった窓を見ながら、アンリは悪びれる様子もなく煙草をふかす。 こいつ、ルンバが金しょって来たと判断しやがった。 何度も言うようにここの家主はアンリなのである。その決定に逆らえるはずもなく、これで教えを受けられると期待に目を輝かせている(ように見える)ジェノスに、サイタマは深い同情の視線を送った。 ともかく妙なメンバーでの共同生活は、「よろしくお願いします!」という気合の入った声からスタートすることになったのだった。
|