単なる暇つぶしにすぎない。 謂れのない誹謗中傷を人に投げかけること、気に入らない者を孤立させること、幼稚な嫌がらせを向けること、そこに深い理由などない。一喜一憂するだけ無駄というものだ。 ただその標的になりやすいのは、ただ周囲と違う者であることだけが明白である。
その少女は賢かった。 同世代の子供とは一線を画すほど聡明であるが故に、まるで全く普通の子供であるかのように振舞うことも出来てしまった。行動を慎み、その場に溶け込むことに最善を尽くした。 白眉は身を滅ぼす。 特に、多感な子供だけで構成された「学校」という特殊空間では、特に。
「………」
それが一体、何を間違ったのだろう。 自身の机に刻まれた、悪意ある言葉の数々。マジックなどならともかく、彫刻刀で傷つけられては消すことすらできない。 この件の首謀者をアンリは瞬時に悟った。冷えた教室の空気の中、一層愉悦を持って自分を舐め上げる視線。 紛糾するのは簡単だが、と聞こえないようにため息こぼす。
それなりに努力した。 整った顔を前髪で薄らと隠し、優秀すぎる回答を消しゴムで消し、同級生のくだらない話を愛想よく相槌を打って聞いていた。それが今日、どうしてか自分の見えぬ失敗に脅かされている。 でも、反応するな。 リアクションを楽しみにするような目を無視して、机を目で確認し、何事もなかったかのように鞄を置いて椅子に座った。
―――不思議なことに。 同情的な雰囲気が、どこか落胆したのを感じた。一人の可哀想な少女の顛末は、底の浅い関係のクラスメイト達にとって、わくわくするエンターテイメントでしかない。 さてどうしたものかとフル回転する頭とは裏腹に、心の奥底がゆっくり冷え切っていくのが分かる。彼女もまた自己確立のための多感な時期であり、突きつけられた他人の悪意に影響を受けざるをえない。 放って置けば全て風化して信憑性のない噂になるだろう。 これで一件落着。 すべて世はこともなしだ。
「なんだよこれ」
だが、空気が砕けた。
鞄を肩からぶら下げて、自分の席にそのまま行けばいいものを、アンリの机を見下ろしてその少年は言ってしまった。 それが顰蹙を買い、ヒソヒソと集束しそうだった小さな囁きが爆発的に広がっていく。胃に石を詰めたように呼吸が苦しくなり、首謀者のニヤついた視線に絡め取られた。 止めて、と声が喉に消える。 この男は本当に昔から、鈍いわけでもないくせに、空気を壊すのが大得意なのだ。元より「面倒事を避けよう」なんて気のない不敵な態度が、今だけは望ましく感じなかった。
「誰だよ、こんなクソくだらねーことしたの。もう使えねえじゃねえか」 「………」 「おい、誰か」 「サイタマ」
追及する必要などない。 出来るだけいつも通りの態度で制す声に、サイタマはアンリを見て平静を保ったまま振り返る。いや、僅かに怒っているかもしれない。それでも少女は涼しい顔を崩さなかった。
「チャイム鳴るわよ」 「は?」
未だに席についていないのは彼だけで、図ったように鳴りはじめたチャイムと共に教師が教室に入ってくる。担任に初日から目を付けられていたサイタマは瞬時に怒鳴られた。 事の経緯を話そうとした彼も、当の本人であるアンリが素知らぬ顔で教科書を広げているとなると弁論の余地もない。 小さく這う声は、勇敢にも助けようとした少年を無視する少女をこう評価した。
―――「冷淡」と。
▲▼
用務員に相談すれば、あっさりと机は交換された。仲の良い、ということになっている友人との会話もそこそこに、アンリは弁当ももたず、購買とは逆の誰も居ない裏庭に一人座り込んでいた。 別に感傷に浸っているわけではない。 ただ、流石にクラスメイトの目につくところには居づらかった。絡まれる前に姿を消して、何食わぬ顔で戻るのがいいだろう。
「よう」 「……私ってホント運がないわ」
何故こいつはここにいるのか。 薄ら笑いを浮かべたような顔で、先ほどのことを全く気に留めてもいない態度のまま、ごく自然にアンリに声をかけた。 溜息しか出ない。 長めの前髪をかき上げながら、サイタマの持っていたパンをひとつかっさらって勝手に開けた。ああっと悲しそうな声があがるのも無視して噛り付く。
「ジャムパン……今回も残飯処理係ってわけね」 「うるせー!人のパン食っといて文句言うな!」
食べ盛りの中学生、購買部での食糧争奪戦は壮絶を極める。といっても単純に購買から近い3年がまず購入し、最後の1年は人気のないパンしか手に入らないのであった。 アンリは教室と打って変わって不機嫌そうな顔を隠しもせず、隣に座りこんだサイタマに露骨に嫌そうな顔をした。
「お前さあ、何で言わないの」 「何でああいうこと言うの」
暖簾に腕押し。 意味のない押し問答だとは分かっていた。それでもサイタマは言わずにはいられないし、アンリはまともに応えるつもりもない。小さな頃から何も変わってやしない男の性格に、アンリは舌打ちと悪態をぶちまけたくなる。 だがそれも無意味。 変わったのは、変わってしまったのは明らかに自分で、少年に感謝されこそすれ責められる理由はないから。 悪いのは全て自分と思うほど殊勝ではないが、どう責任転嫁しても彼の所為でもない。努力の他に運も必要ということだろう。次からもっと上手くやればいいと、食べ終わったジャムパンの袋を握りつぶした。
「……さっき、ありがとね。でももうやめてくれる?」 「嫌だね」 「言うこと聞きなさいよ、別にあんたがムカつくから言ってるんじゃないわ」 「分かってんだよ、ンなことは。だからムカつくんじゃねーか!」
突然荒げられた声に、少女は少なからず驚いて少年を振り返った。サイタマは何かに熱くなったり怒鳴ったりする所を、アンリにほとんど見せたことがない。 胸倉を掴む勢いで迫る険しい顔に、気圧されたまましばらく唖然とする。
「俺は確かに、負けてばっかけどな、女に助けてもらうほど情けなくはねーつもりだぜ」 「……誰が誰を助けるって?」 「お前が俺をだよ。どうでもいいってツラしても分か―――ってぇ!!」
言葉が終わるか終らないかというところで、アンリが逆にサイタマの胸倉を掴んで頭突きを喰らわせる。 俺は何でもお見通しなんだとばかりの顔に無性に腹が立って、思わず暴力に訴えてしまった。頭を押さえて蹲る少年の背を蹴飛ばし、少女は自嘲の笑みを浮かべる。どうしてこいつは、こんなに思うがまま生きていられるんだろう。 それに比べて。 ああ、不毛なのは分かっている。
「あいつらって可笑しいのよ。私のことロボットや機械と勘違いしてるんでしょうね。どんなことしても何にも感じないと思ってる」
自分を庇ったクラスメイトさえ冷たく扱うような女。赤くなった額を押さえるフリをして、少女は熱くなる目頭を決して誰にも見せないように覆った。 何も感じないわけがない。 そうあろうと努力して、心の大半を麻痺させることに成功していたと思っていたけど、それこそとんだ勘違いだった。逃げれば逃げるほど食い込み、立ち向かわなければ茨になる。全くもって、人生は思うようには行かない。
「痛いわよ、ばか」
少女の薄い白月の瞳から涙が落ちるのを見て、サイタマは体が硬直するのを感じた。 アンリが泣いている。 強く動揺している自分に驚きながら、たっぷりと躊躇った後、恐る恐る俯いた金髪を撫でる。それはその少女が、小さな頃泣いた自分によくしていたことだった。 昼休みが終わっても、二人はしばらく中庭の木漏れ日の中佇んでいた。
▲▼
次の日。 新品になっている机を見て、ある女子生徒は内心で舌打ちをしていた。誰が便宜を図ったのかは知らないが、教師にでも泣きついたのだろうか。 昨日昼休みを過ぎても戻ってこなかった少女が、あのあと早退したと聞いた。そもそも何故、という話に至っては全く正当な理由もないのだが、とにかくそれはアンリの体の外の話に過ぎない。 未だ現れない少女の姿を想像しながら、不登校にでもなったら面白いと無邪気な陰険さで笑みを浮かべる。しかしその期待を裏切るように、ガラッと小気味いい音を立ててドアが開いた。
「………えっ」 「あら、おはよう」 「お、おはよう……ねえその髪」
誰もが一瞬、視線を奪われた。 アンリの顔に影を作っていた前髪がさっぱりと切られ、後ろ髪は綺麗にまとめ上げられている。たったそれだけのことであったが、気の強そうな美しい双眸は非常に目を引く。形のいい眉とアイスブルーの瞳が、不敵にもその張本人へと向けられた。 浮かんだのは微笑み。 それから興味なさげに横切って、少女は聞いたこともないような昂然とした声で言い放った。
「似合ってるでしょ」
なんて馬鹿馬鹿しい。 結局この学校という空間で、自分はただその中に組み込まれた部品にすぎなかったのだ。一喜一憂するだけ無駄というもので、標的になりやすいのは周囲と違う者である。 それが一体何だ? 全く馴染まずに、自分に嘘もつかずに、不器用にでも生きている奴もいる。
迷いなく席につき、いつものように授業の準備をした。手のひらを返したように好意的な表情をするクラスメイトを無視しながら、右斜め前の席を眺める。 チャイムの鳴るギリギリになって、いつもどおり少年はスクールバックを肩にかけて飛び込んできた。サイタマは通り過ぎざま、机に頬杖をつくアンリを見て目を見開いた。
「おはよう、軟弱男」 「……うるせえ、暴力女」
少年は席に座る。 入ってきた教師が課題を集め、また忘れたというサイタマのことを担任がこっぴどく叱っている。それに隠しもせず馬鹿にして笑ったら睨まれるが、強気に舌を出して返し、全く不備もない優秀な回答を込めたプリントを提出した。 別に何ら変わりはない。元あるべき形に戻っただけ。ただそれだけのこと。
これで一件落着。 すべて世はこともなし、だ。
賽は投げられた
このあと紆余曲折を経て、この二人は切っても切れない縁で結ばれることになるのだが―――もちろん、少年少女たちは知る由もない。
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