アンリという女とは、実に20年来の付き合いである。
母親に手を引かれたその少女は、近所に引っ越してきたと挨拶に来ていた。同い年の子供がいる家庭同士、仲良くしてあげてねという言葉にうなずいた、実に変哲もない出会いだった。
美しいブロンドに青い瞳。 お姫様のように可憐な容姿とは裏腹に、アンリはかなりお転婆だった。弟がいるからか面倒見もよく、そしてマイペースな俺は無邪気な悪戯をされては泣かされたものである。
それから小中高と、申し合わせたわけでもなく同じだった。
幼馴染といえど、学校でまで特に一緒にいる理由もない。教室に行けば自ずと同性の友人もいる。 自己の確立も済み、元々の才覚をいかんなく発揮する我が幼馴染が誰ともつるまない存在になっていたころ、自分は思春期の御多分に洩れずぼんやりと社会への期待を失っていた。 ただ、別に彼女との関係に変化はない。会えば世間話もするし、親が仕事でいないときは夕飯にも誘った。そこには男女間の意識など欠片も存在しなかった。
それから―――それぞれ別の大学に入学し、殆ど自然消滅的に連絡も取らなくなった。たまに、有名大学で勉強漬けの日々を送っているのだろうと、どこか遠い存在になってしまった彼女を思い出すくらいで。 かたや、自分がどう生きるかなんて大きな課題に振り回されていたころ、そんな余裕もなかったのである。
「なんか久々ね」 「お、おお………」
ただそんなもの、ただの俺の中での感覚に過ぎない。相変わらずアンリはアンリだったし、何より近所に住んでいるままだ。 久々の邂逅はゴミ捨て場でかち合うという、何とも情緒もない再会だった。
高校時代は華奢なイメージがあったが、いつの間にかすっかり出るところは出ていて、むちむちした悩ましげな肢体と冗談みたいに長い脚を、シンプルなシャツとタイトスカートが包んでいた。 どこか気だるげに煙草を咥える唇は挑発的ですらある、どこからどう見てもいい女。
そう、そこで初めて。 バカだった俺は、幼馴染がとてつもなくいい女だということに気付いてしまったのである。
「何よボーッとしてんのよ、寝ぼけてんの」 「いやあ、なんつーかお前……いい女になったなー」 「ハァ?」
視線がどうしても体に行ってしまい、隠しもしない下心にアンリは目を眇めて呆れて溜息をついた。伸ばした髪をかき上げる仕草さえ様になっているように見える。 朝っぱらから一体自分は何をやってるんだと思う反面、正直言ってさっきから心臓の鼓動が早くなっていた。 不思議でたまらない。 こいつを女として意識する日が来るとは思いもしなかった。
「急にドキドキしてきたんだけど……どうすんだよこれ」 「知るか。私はあんたにドキドキしたことないわよ、好みじゃないし」 「マジかよ、お前の好みってどんなんだ?」 「あーもう煩い」
当然ながら、軽くあしらわれてしまった。 ともかくこの日から俺達は、少なくとも今までの十数年よりは親密に付き合うことになったのである。
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見慣れた帰路を走る。 そんな必要もないのに、高揚する気持ちが抑えられない。リクルートスーツを脱いでネクタイをかなぐり捨てて、血だらけになりながら駆け抜けた。 坂道を降りてゴミ捨て場を通り過ぎ、馴染みの道に鼻血を落として笑ってしまった。今の俺はどこからどうみてもマトモではない。
「サイタマ?」
後ろから涼しい声がかかる。 会いに行こうとしていた人物だとすぐに分かり振り向いたら、血塗れの顔面を見て流石に驚いたらしい。駆け寄ってくるアンリの両肩に手を置き、戸惑う彼女を制すように肩で息をした。 苦しいはずなのに、ああ、随分気分がハイになってしまっている。
「就活はやめだ」 「いやあんた、それより」 「俺は、ヒーローになる!」
ヒーロー。 男なら誰しもが夢見るその仕事は、怪人が現れるこの世界でもTVショーと映画の中だけの代物だった。 頭から血を流す男が、現実逃避のあまり怪我で気でも触れたようにしか見えなかっただろう。 だがその女は嫌な顔もせず、知らん顔もせず、アイスブルーの瞳が弾丸のようにこちらを真っ直ぐと見返してくる。
「なら、世界救うまでやめんじゃないわよ」
その言葉が、どれだけ。 残酷に退路を塞ぐことになるか、知らない彼女でもあるまい。有無を言わせない声に体が震えたのは、紛れもなく武者震いだ。 笑われるのも承知の上だったというのに。
「平和な世界を、特等席で見せてやるよ」
―――22歳。 若く、身の程知らずで、無様だった。ただ目の前にあることにしか意識のいかない青二才だった俺が、今こうしてある種の悲哀を呼んでいるとしても。 この世で最もいい女を捕まえたことだけは、胸を張って誇ってもいいだろう。
愛してるぜ、くそったれめ。
ヒーローレディ
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