その子供は、ある日アンデルセンに連られてやってきた。
 孤児院に来る子供達は、多かれ少なかれ何か心に傷を負ってやってくる。それ自体は珍しいことではない。しかしまるで聾唖のように固く口を閉ざしたままで反応も薄いその少女に、神父やシスターも皆どう接して良いか分からず悩んでいるようだった。
 東欧系の顔立ちで肌は白く、真っ直ぐに伸びた黒髪はアジア系の血も感じさせた。何ヶ国も混ざっていそうだ。近くの森にテントを構えていたサーカスの一座が火事で消失し、その近辺で保護されたことからサーカスの一員だったのではないかというのが地元警察とアンデルセンの推測だった。だとすれば、火事で家族を一度に亡くしたショックによって口が聞けなくなってしまったとも考えられるが、やはりそれも確証はない。

「今日からこの子も家族の一人です、仲良くしてあげてくださいね」

 アンデルセンに肩を優しく支えられた少女の暗く俯いたつむじを、マクスウェルは見下ろして思わず鼻で笑った。子供は微動だにせず床を凝視したままで、とても"仲良くしたい"なんて態度はしていない。
 黙っていれば全てが上手く運ぶとでも思っているのだろうか。救いの手をただ待つだけの子供は浅はかで羨ましい。この孤児院に(彼にとってはまったく忌まわしい形で)入れられてからもう10年近くここに在り続けた彼は、未だ自分を疎む全てを憎むような鋭い目をしていた。

「僕をエンリコなんて呼ぶなよ、反吐が出る。もっとも、お前に口が付いてるかどうか分からないが」
「マクスウェル」
「もう行きます。忙しいので」

 マクスウェルは誰かに名乗るときが一番の憂鬱だった。自分を捨てた父親に付けられた名前など口にしたくもないし、誰かに親しげに呼ばれるのもごめんだと思っていたからだ。
 アンデルセン神父の窘めるような声にもそっけなく応えて小さく頭を下げ、少年は聖書を手に踵を返して来た道を戻っていった。神父は他を頑なに拒否するような背にため息をつき、気にしなくていいと少女の頭を軽く撫でた。子供はやはり一言も喋らず、ずっと俯いたままだった。


▲▼


 実際、何も分からないのだ。
 子供は警察の手によって燃え盛る森から救出される以前のことを丸きり覚えてはいなかったし、それどころか自分の名前も思い出せない始末だった。さらに言えば声をかけてくる大人達に何を応えれば良いのか分からなかったし、喉や舌も言葉をどう話すのか忘れてしまったようだった。
 アンデルセンという背の高い神父に案内されたのは、ベッドと棚がぽつんと置かれた簡素な部屋だ。蜂蜜色の壁紙も今や冷たく少女を囲んでいる。日が沈むごとに目が冴えて、じっと横になっているのも苦痛になってきて、子供は起き上がって孤児院の廊下に飛び出た。空っぽな体には、ただ漠然とした不安だけがそこにあった。

 あてどなくふらふらと歩いていると、光が漏れている場所にたどり着いた。中を覗けば戸棚や手洗い場、素朴な大きいテーブルや椅子がいくつも置いてある。部屋の隅には美しく磨き上げられた立派なオルガンが佇んでいた。どうやら食堂のようだ。
 まだ先ほどまで誰かが居たのか、暖炉には火が点いていて中はあたたかい。子供は吸い寄せられるように暖炉の傍でしゃがみ込み、パチパチと音を立てる炎を見つめた。頭の奥底から―――誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが―――それも火よりは遥か遠い。赤々と燃える。薪をくべると影が躍る。少女はその頼りない手指を、その真っ赤な炎へと近づけようとした。

「―――おいッ!」

 ぐいっと後ろに腕を引かれて、あまりの勢いに小さな体がカーペットに転がる。同時にゴトンと何か重い物が落ちる音がして、子供は目を白黒させた。肩で息をするマクスウェルが、ものすごい形相で子供を見下して睨みつける。

「馬鹿が、何をやってる!下賤なサーカスじゃ火が熱いことすら教わらなかったか!!」

 激しく自分を咎め立てる言葉に子供は首を竦めるが、やはり黙り込んでしまい動けないでいた。マクスウェルは顔を歪めて左手の甲を右手で覆い、真っ赤になったそこを睨みつける。咄嗟に子供を暖炉から引きはがした際に持っていたコーヒーをぶちまけてしまったのだ。

「見ろ!火やら湯やら熱いものを触ると火傷するんだ。お前の所為でこの様だ。子供だからって何でも許してもらえると思うなよ」
「………っ!」
「愚かさに対して懺悔しろ」

 子供はやっと事態を把握したという顔で、床に膝をつけたままマクスウェルを見る。しかし、懺悔しろと言われても彼女の喉はひゅうひゅうと空気の抜ける音がするだけだ。呼吸の仕方は分かっても声が出てこない。紙のように白い顔色の子供を言葉の通り厳しく見下す少年は、真っ赤に火傷した左手を子供の眼前に付きつけた。

「赦しを、乞えと言ってる」

 よく切れるナイフのような目。
 容赦なく責め立てるマクスウェルの鋭い視線と、自身の咎の結果に子供の喉笛が震える。急に襲ってきた恐怖によって突き動かされ、少女は火傷に触らないよう彼の手に触れた。
 恐怖とは、マクスウェルへの恐怖ではない。夢の中のように白濁していた目の前の世界が、突如現実味を帯びたことに対してだった。それを露とも疑問に思わずただぼんやりと白痴のように過ごせていた自身に恐怖したのだ。少年の手肌をひんやりと冷たく、しかし確かに熱を帯びている。これは現実だ。紛れもない真実なのだ。
 少女の喉から引き攣ったような音が漏れる。こぼれる。

「……っ、めんなさ、ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!!」
「…………」
「っう、っ、ごめ、なさ………っ」


 今まで誰に何を言われようと糸の切れた人形のようだった少女が、はじめて感情を露わにして謝罪を口にした。顔をくしゃくしゃに歪めて真っ赤になり、涙を流し、嗚咽を漏らしている。てっきり言葉を知らないものかと思っていたマクスウェルは驚いて目を見張ったあと、後から後から零れて止まらない泣き声に少し狼狽する。
 だが、悟られてはならない。
 マクスウェルはすぐに顔を冷たく引き締め、握られた手をぱっと払うようにして一歩下がる。少女の葡萄色の目から、また涙がこぼれた。

「常に喜べ、絶えず祈れ、凡ての事感謝せよ。これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給う事なり」
「………っ?」
「もういい。キッチンから濡らした雑巾と氷嚢を二つ持ってこい」

 マクスウェルが椅子に重く腰かけて方向を指差すと、子供はこくこくと頷いてキッチンへと姿を消した。どうやら運よく割れはしなかったらしいマグカップを拾い、床に広がったコーヒーの茶色い水溜りに少年は深く溜息をつく。全くコーヒーを淹れて勉強をしようと思っていただけなのに、厄介なことになってしまった。
 ほどなくして戻ってきた少女から氷嚢を愛想なく受け取り、雑巾は汚れた床に放る。それをきょとんとして見ていた少女だったが、やがて意味を理解したのかしゃがんでコーヒーの染みを素直に拭きはじめた。

「あ、の」
「何だ」
「さっき……、いってたの……」
「お前、ここが何処かも知らないのか?カトリック教会の孤児院だぞ。さっきのは聖句だ。第一テサロニケ5章12-22節。"喜べ、祈れ、感謝せよ"。人は試練に突き当たったとき嘆き悲しむ。だがいかなり苦難も主の与え給う喜びを打ち消すものではない」
「…………」
「お前が何者で一体どんな目にあったかなんてどうでもいいが、聾唖でもないのに絶望して口を塞ぐ暇があったら、せめて神に祈れ。そうすれば悪魔の付け入る隙はない。いずれ勝利は訪れる……それが終わったら目を冷やしておけ」

 子供の目が腫れているとあったら、お節介焼きの神父やシスターあたりが必ずそのわけを聞くだろう。マクスウェルはもう一つの氷嚢を示して、ぽかんと口を開けて見上げてくる子供を背にようやく食堂を出た。カトリック教のカの字も知らないような子供に話すことでなかったかもしれないが、マクスウェルは聖職者を目指す身である。迷える者は須らく導かねばならない。
 信仰を持たぬ者は人間ではないのだ。あの子供はまだヒトですらないのだから。

 いずれ反キリストの魔族(ミディエンズ)を殲滅する部隊の長となる少年―――エンリコ・マクスウェルは、その内に秘める狂信が一人の化物を惹きつけたことを、いまだ知らないでいる。


常に喜べ。絶えず祈れ。凡てのこと感謝せよ。







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