随分眠ってしまっていたようだ。
 この部屋には窓がない。部屋に置かれた時計が指す12時過ぎはまさか昼ではないだろう。真っ暗な室内でも不思議と夜目が効き、起き上がるとやはり関節が軋んだ。ベッドの横に足を着いて呆然と立つと、自分が幽霊か何かに成った気がする。
 勝手に出て良いものかと躊躇ったが、外の様子が知りたくてドアノブに手を掛ける。鍵はかかっていない。廊下に出ると部屋よりは幾ばくかは明るく、控えめで暖かなオレンジ色の光に足元を照らされている。よくよく目を凝らしてみると、ランプを持っているのは壁を背に立っている背の高い壮年の男性だということに気付いた。

「目を覚まされましたか」
「あ、は、はい……」
「お初にお目にかかります、ヘルシング家執事のウォルター・C・ドルネーズと申します。一応、あなたの叔父ということになりますな」

 柔らかく皺を作って茶目っ気たっぷりに笑う彼にきょとんと目を丸くしてしまった。私に名前をくれたあの女性が、そういえばそんなことを言っていた気がする。大きな家だとは思っていたが、執事がいるなんて彼女は相当お金持ちなのだろう。
 上辺だけとはいえ叔父になる人にどう挨拶をすれば良いかと迷い、ぺこりと顔を伺いながらお辞儀をすると、片側だけに付けられたレンズの奥で驚いたような顔になったあと笑われてしまう。何かまずいことをしたかと身を固くしたら、ウォルターさんは手を軽く振って肩を揺らす。

「いえ、聞き及んでいたよりおとなしい方でしたので。吸血鬼以外には至って普通でいらっしゃる」
「あ……!」

 顔が赤くなったり青くなったりしたのが分かった。冷や汗も出る。この小さな子供が吸血鬼アーカードを襲撃した事件は知れ渡ってしまっているらしい。複雑な感情が湧き上がると同時、当然のように吸血鬼のことを口にする彼の言葉に「これは夢ではない」と再三突き付けられるような心地だった。
 思わず俯いていると、悠々と微笑んだウォルターさんに近くの扉に案内される。開くとそこはバスルームのようで、そういえば自分が土と血で全身が汚れてしまっていることをようやく思い出した。

「まあ、まずはゆっくりと身を清められてはどうですかな。中に着替えもご用意しておりますので」
「……ありがとう、ございます」
「いえいえ、ごゆっくり」

 自分は客とは呼べないだろうに、丁寧に接してくれるウォルターさんにほっと緊張が解れる。お風呂に入れるのは正直にありがたい。こうも薄汚れたままだと気が滅入ってしまうし、この「子供」のことを私はよく知らないのだ。これから先ずっと共に過ごして行くならちゃんと知っておかねばならない。
 顔は、人種は、年齢は、体格は、窺える性格は………所詮推測にしかならないとはいえども。ため息をつく。扉を閉めてくれた彼のモノクルの奥で鋭く光る瞳には、最後まで気づくことはなかった。


▲▼


 ざあざあとシャワーを浴びる。
 清潔なタイルを踏みしめ、バスルームに備え付けられた鏡で、森の水たまりより鮮明に見えた子供の姿を見つめる。肩にかかる程度の黒髪は艶がなく切り口がめちゃくちゃだったので、鋏ではなく何か刃物で無理やり切ったという感じだ。目の色は赤紫色と言えばいいのか、あまり見たことがない色。国までは分からないが顔立ちは白人よりで、目元にややアジア系の面影もあった。
 いや、いや、それよりも。
 意図的に視線を外していたそこへ目を向ける。痩せた腹にはひきつった赤い銃痕がひとつ。しかし、もはや傷ではない。いくら何でも治るのが早すぎる。既に完璧に塞がっているその光景に、暖かいシャワーを浴びているにも関わらずぞっと背中が寒くなった。

「……人間じゃないの?」

 この子は、いや私は。
 痩せっぽちの子供が陰鬱な瞳でこちらを見る。けれど返事はどこからも返ってくることはなく、シャワーのコックを締めて、とぼとぼとバスルームを出た。


 扉を開けると、ウォルターさんの姿はもう無かった。ハンガーにかけられていた黒いワンピースに袖を通し、元々着ていたぼろ布のような服はもう使えそうになかったので丸めてダストボックスに捨ててしまう。同じく置かれていた白い滑らかな木綿のタイツとスナップのついた黒いパンプスには驚いたが、そういえばこちらでは室内で靴を履くのだと納得する。全て新品のように綺麗だったが、なんとなく誰かが着ていたのではないかという柔らかい着心地がした。
 ふらふらと歩く。寝かされていた部屋に戻るべきだっただろうか。特に目的もなく何かに導かれるように暗闇を明かりもなくひたすら歩いた。まだ足に馴染んでいない革靴が擦れてかかとが痛い。果てしなく続く長い廊下の奥では、油絵の具の光沢がきらめくはずの絵画が暗闇で息を潜めて並んでいた。

 ―――ここにいる。

 そう本能が告げる。
 やがて、いっそう荘厳な一人の女性の絵が微笑んだ気がした。まるで私がここに来ることなどお見通しだったように、豪奢な金の額縁が扉のごとくゆっくりと開く。現れたのは地下へ続く石の階段のようだった。窓もないのに風が下へ下へと吸い込まれて行く。
 一歩、また一歩と階段を降りるにつれて石壁にこびり付いた闇が深くなる。光が一筋も差し込まないのでさすがにほとんど前が見えず、足元は恐る恐る慎重になった。

 やがて最後の一段で、ふと足を止める。そこにはどこまでも深く冷たい河と、それでいて脈々と燃え盛る激しい炎があった。ぞろぞろと足元を這ってこちらに近付き、影の中に無数に浮かぶ瞼が開いて私を窘めるように見た。

「今にも死にそうな顔だな」
「…………」

 一体どこから響いたのか分からない声が降ってくる。目の前の吸血鬼はとうに人の姿すら逸脱し、彼に比べれば私は人のような形をしているのに、どうしても自らが人間だという確信は持つことができなくて悲しかった。何の衝動からか階段から降りることなくその場で蹲り、中身まで子供に戻ったように泣き出してしまう。ぼたぼたと上から涙を落とされて、「影の目」が細まったのが見えた。


▲▼


 生まれながらに誰よりも純粋な化け物であるくせに、恐らくここにいる誰よりも「人」であろうとする。化け物の中の化け物、吸血鬼アーカードには、その子供はひどく哀れなものに見えた。この子供は望んだものに一生成ることはできないのだ。雑多であるが故に強固に結びついた血の性質がそれを許さない。
 アンリ。与えられた名前と服。
 お前には何もない。骨を埋める僅かばかりの最後の領地すらありはしない。それでもお前は生きるために殺さねばならず、殺すために生かされるのだろう。

 血よりも赤い瞳を眇め、ぞろぞろとおぞましい影が同色の少女の黒髪に溶けてそれを優しく梳いた。泣きじゃくる赤子をあやすように。子を慰めるように。

「仕様がないやつだ、お前は」

 全ての化け物の憧憬。
 ゆえに誰とも同一ではない。
 冷たい石壁と階段と闇に抱かれて、少女は口を噤み目を閉じて膝を抱える。自身をあやす異形から逃げることもせず、ただじっと呼吸を殺していた。


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