その忍が月を跨いで姿を消すことなど、別段珍しいことではなかった。 猿が木の枝を飛び移るように鮮やかに、それはまるで赤子の手を捻るように、己が任務をこなして見せるのだろう。そもそも彼の者は日崎アンリの忍ではなく、同じく武田に仕える真田の二男のものだ。 何故その忍がアンリを構うのかというと、歳の近い弁丸の"ついで"にお館様が命じたのだろう。今は足を患い戦えなくなった日崎典雅は武田信玄の命を救ったことがあるらしく、その恩義によって首の皮が繋がっている―――そういう子供だった。
「………みんな寝たか〜い」
アンリは日崎の姫でありながら、抱えの女中はいない。彼女たちが自分を気味悪がっているのは分かっていたし、世話係が誰になろうと特別困ることもない。ある種、アンリに―――知り合いはほとんどいない。それは、子供をこの上なく孤独にしたが、同時にこの上なく自由にした。 なんと気楽なことか! 夜も更けた頃、人も少ない離れで三味を鳴らす。誰からも教わっておらず、抱えることもできないので、縁側に琴のように置いて爪弾いた。心の趣くままに、指の動くままに。
「あら何ともなの、うき世やのォ……」
誰から聞いたか、隆達節。 戦国時代の世は無常。流行る歌も戦に恋になんとも儚いものよ、べんべんべん。適当にかき鳴らす歌は何とも言えず楽しい。夜中に興が乗りすぎると何処ぞから嫌味を言われてしまう。 夜に溶ける濃い緑の茂る、庭の草木を眺めるのが好きだった。時折猫や鳥が飛び出してくるのもおもしろい。べん、ともう一度弦をはじいたとき、アンリはふと庭影に違和感を感じた。
「……佐助?」
なぜその名を呼んだのか分からない。けれど闇に溶けるその忍が、木陰の暗闇からひょいと現れる気がして、じっと垣根を見つめる。揺れた。ぐらりと。倒れる瞬間まで、不思議なことに音がしなかった。 一瞬何が起こったのか分からず、狼狽して三味を縁側から落とした。地面に素足のまま足をつけて、ああまた怒られるなとアンリは頭の隅で思った。
「うあ、あ、さ、佐助、さすけ」 「………ひぃ、さま」 「血が、」
見慣れた模様の服ではないと一瞬思ったが、その布はドス黒く濡れているだけだった。目の前の光景に悲鳴すらあげられずおたつくしかないアンリに、佐助は霞んだ目を細めて笑ってみせる。 唇が僅かに動いた気がして、慌てて蹲るように耳を寄せる。本当は大声で人を呼ぶべきだったのかもしれない。けれどアンリは何となくこの忍がそれを望まない気がして、胃が鉛のように重くなるのを感じながら、じっと彼の言葉を待った。
「だれ、も、呼ばないで」 「うん、うん……」 「俺様の、血じゃないからさ」 「!」
佐助の低く抑えた声に滲むのは、色濃い疲弊だった。血塗れの姿を見せたことに自嘲したような響きに、アンリは息を飲んだあと、はーっと気が抜けたように肩を落としたので、倒れ伏した忍は重い瞼を軽く持ち上げて目を丸くする。 溜息は紛れもない安堵。 子供は、大怪我をして死にかけているのではないかという緊張を解き、今にも気を失いそうな佐助の頬に触れた。血のこびりついた肌に、姫の真白い指が滑る。忍はそれに酷く動揺した。
「佐助っ、ほら」 「いいよ!姫サマ、ここに転がしといて。二刻もすりゃあ勝手に戻るから……ああ、召し物が汚れちまった」 「あとで怒っていいから、もう、お願いだから、せめて畳で寝てよ、ねえ」 「…………」 「はよ!」 「……へいへい」
もはや押し切る形で、佐助の腕を背に回して引きずっていく。腰を屈ませてかえって歩きにくいかもしれないが、アンリに出来るのはそれくらいだった。息を弾ませて男を運ぶ子供は、先程のように怯えを感じさせない。 血塗れの忍を見て、震えた肩。それは本物だった。だから近寄らせて怯えさせるのが憚られたというのに、アンリはもはや前しか見ていない。この子供は。まさかどうして。ぐらぐらと揺れる頭の中から冷静さを欠いていることを、立つ腕に割りにまだ未熟な忍は気付いていなかった。
「姫サマの、音がさ」 「ん、うん」 「きこえて、気付いたらここに、来てたんだ。どこも斬られてねェのに、ここは涅槃かと思っちまったよ」 「はたらきすぎで、死ぬことも、あるンだから、もぉー……!」
うわ言のように聞こえる声に応えながら、子供はどうにか部屋まで忍を引きずった。まだ年若い細身の男とはいえ小さな両手には堪える。ふうふうと肩を上下させ、アンリは、忍がもう殆ど眠りに落ちていることに気付いた。 彼は忍だ。子供が案じることを、この忍が不便に感じるかは分からない。血塗れの衣を脱がせて、武具を外して、湯で汚れた髪を洗ってあげたかった。けれど忍とは恐らくアンリが知るよりもずっと沢山のことができるのだと、アンリは知っている。世の無知を子供は知っているのだ。
「けがしてなくて、よかった」 「……………」 「どーでもいいじゃないけど、でも、他のだれかが死ぬより、佐助が怪我するほうがヤだよ。ふつーでしょ。そういうもんでしょ、人って」 「………ほんと、」
佐助が唇を動かしたのはそれが最後だった。アンリが夕陽のようだと言った橙の髪も血のりで固まっている。戯れのようにそれを撫でて、使っていない布団を被せて、傍に寄って目を閉じた。 きっとこの忍は口を噤んでなお、子供に嘘をつかなかった。だからアンリも嘘をつきたくなかった。ただそれだけ。佐助は最後何を言おうとしたか、それは結局分からなかった。 歌うは世の無常、一夜の夢。げに儚きことよと、べんべんべん。
朝起きると、アンリの部屋はいつもどおりだった。畳にも着物にも血の匂いも汚れもなく、日崎の姫は何事もなかったように布団で眠っていた。三味は傍に置かれ、傷一つなかった。 はて、夢だったのだろうか。 朝餉の時間になると、久々に佐助が顔を出した。おはようございます、と忍が平常と変わらぬ笑みを浮かべたので、アンリはけっきょく何も言わずに南瓜の煮物に箸をつけた。
「ねえ姫サマ、三味を弾いちゃくれませんかね。さいきん忙しくて疲れたかわいそーな忍にご褒美をくださいよ」 「いいよー、んじゃあ、ここでお昼寝してったら」 「滅相もない!」
うそつき猿め。
-------------------- 夢でも現でも構わない話
|