私は少なくとも、自分のことを悪人だと思ったことはなかった。



 ―――ジュワ、ジュワ、ジュワ!

 目の眩むような日差しだった。
 台風一過から一気に真夏となったうだるような猛暑日、私は中間テストを終わらせて昼過ぎに帰宅していた。喉の渇きが急に失せて、耳が割れるような蝉しぐれに頭痛を覚え眉間を押さえる。
 やばい、熱中症かも。
 だって太陽が眩しくてたまらない。目の前がチカチカとストロボの白い光が弾けて、緩慢に瞬きを数回した。そこには何の予兆も前触れもなかったはずだった。蝉が鳴いている。頭が割れてしまいそうだ。


 ばちん!……と、

 その瞬間、目の前が真っ暗になった。とたんに気持ちが悪くなって、胃の奥がせぐり上がってきそうな不愉快な気持ちになった。そしてぼんやりと、海の水圧で押し潰されるときはこんな感覚なのかもしれない、と思った。

(このままじゃ……、)

 ふと昔に観た映画を思い出す。処女航海のタイタニック号。ラストシーンでは沈んでいく豪華客船から乗客が、極限状態の中で子供を先にボートへ乗せていた。老夫婦がせめて最期まで一緒にいようと寄り添っているそのかたわら、船上のオーケストラが決死の演奏を続けていた。
 私は自分のことを悪人と思ったことはなかったけれど、やはり我先にと逃げてしまうだろうなと思う。映画では大抵そういうキャラクターはまるで報いのように無残な死を遂げたりするけれど、現実は。

「……―――!!」

 どん、と押しのけて。
 水面で息をした者が生き残るのだと、私はそのとき知ったのだ。

「おお、姫様……!」
「は……?」

 悪夢から覚めたように呼吸が楽になった。数人の人間が私の顔を覗き込んでいるが、その全員が時代劇のような格好をしていて、まったく理解が追いつかない。ただそのシルエットの異様な大きさに恐怖を覚え、勢い良く身体を起こす。
 いや、彼らが大きいのではない、自分が小さいのだ。布団に置いたもみじの小さなことは、私を動揺させるのに十分な事実だった。

「はよう典雅様に報告せよ、アンリ姫が目を覚まされたぞ!」
「姫、ご無事か!」

 周囲の話し声が雑音にしか聞こえず、もっと外側から聞こえる、つんざくような蝉の鳴き声がやけに大きく響いた。障子を見つめる私を心配そうに覗き込む見知らぬ大人達。
 こういうの、白昼夢って言うんだっけ?
 ぼんやりした頭のままぐるぐると目を回し、布団から這い出る。誰かの制止する腕を振り払う。感触がある。小さな体は戸に近付くのも一苦労で、満足に動けないものだなと思いながら障子を開ける。

「うあ、……」

 ―――ジュワ、ジュワ、ジュワ
 眩しい太陽の光。耳が痛い蝉しぐれ。額から汗が眉間を伝って足元に落ちる瞬間まで、まるであのコンクリートの道すがらと同じだというのに。終わりの見えない磨かれた木の板の廊下。その外の庭先に身を固くした蝉が一匹、ぽつんと地面に落ちていた。
 ぶあ、と腕に鳥肌が立つ。
 途端その感覚が戻ってくる。狭苦しい暗闇。誰かとせめぎ合っていた。子供のシルエット。押しのけた小さな体。私がここにいるなら、この女の子は?
 どこに行った?


(―――私のせいで?)


 「姫さま!」焦った声が追いかける。地面に落ちた私は汚れた着物を、擦りむいた傷を見て、心配する誰かを見て、堪らなくなった。蝉の目はもはや空を映さない。とんでもなく熱いものが目から溢れて、ぼたぼたと死骸に落ちていった。
 だって知らないのだ、誰も。
 ここで起きた理不尽な出来事のことなど誰も知り得ない。知るわけがない。じゃあ誰に怒ればいいんだ。誰に言い訳すればいいんだ。一体誰に謝ればいいんだ。どこにも行けないじゃないか。私は、この子は、どこにも!

「……アンリ?」
「…………う、ううっ」

 いつのまにかそばにいた、目を丸くした子供が「アンリ」を呼んだ。大きな飴玉のようになめらかな眼球に、泣いている女の子が映る。こんな顔なんだな、と滲んだ視界で頭のどこかが冷静にそれを捉えた。雑音が聞こえる。雑多な命の音。その一つにすぎない命。耳を塞ぎ、目を閉じて、口を噤む。
 ここで一人の女の子が消えてしまったことなど忘れてしまったように、蝉の鳴き声だけが変わらず響いていた。



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