ぱちり、暗闇に満月が浮かぶ。
 4階なんて縁起が悪いから―――と患者があまり入りたがらないので、カスカベが当直勤務の日は4階の角部屋に寝かしつけられることが多かった。「おやすみ」と言われて布団を叩かれたら瞼を閉じて眠ったふりをしているけれど、夜のほうが頭が冴えるアンリは小さな音でもすぐに目が覚めてしまうのだ。
 白いシーツを蹴飛ばして身体を起こし、耳を澄ませばやはり何かが聞こてくる。苦悶と憎悪をにじませたような誰かの唸り声だ。不吉な部屋番号に暗闇のなか響く音に子供は怯えた様子もなく床に足をつけ、しっかりと靴の紐を結んだ。

「あんまりとおくなーい」

 歌うような高い声が汚れた床と壁に吸い込まれても、暗い廊下を歩く子供の足取りはとても軽やかだ。どれだけ不気味な病院も、ここがもはや日常生活の場となりつつある子供にとっては何ら怖いものにはなり得ない。
 靴の足先が進んでいくと、半開きになった扉を見つけた。使用中のランプが消えた手術室から明かりが漏れている。迷わず足を踏み入れたらぬちゃ、という粘り気のある音がして、むせ返るような匂いがした。アンリはこの匂いを知っている。血の匂いだ。

「うわあ……」

 中は酷いものだった。
 あたりに塗りたくられた血潮の中に、指先や腕を輪切りにしたような破片がそこらじゅうに転がっている。無残にも両腕を切り落とされた姿で手術台に背を預けているのは、まだ年若い少年のようだった。
 顔を上げた少年は、どろどろに汚れた金髪を揺らして少し息を吐いた。両腕を失っていながら驚いた様子の子供に笑う余裕まであるようだが、頬や額には素直に脂汗が滲んでいる。子供は目を白黒させながら、落ちている肉片を踏まないように恐る恐る近づいていった。

「いたい?」
「………ちょっとな、もうあんま感じねえよ。それより紐かなんか持ってねえか?」
「ある!」

 正面に立った少女の身長は少年の座高とほぼ同じだった。8歳くらいだろうか。少年がそう当たりをつけてなるべく声を柔くして尋ねると、子供はすぐに頷いて側の棚を探って幅の狭い包帯を取り出した。そして意外なほど慣れた手つきで腕をきつく締め上げはじめたので、少年は思わず青い目をきょとんと丸くする。
 子供は骨が剥き出しになった腕の切断面にも特に表情を変えず、目の前の止血という課題に集中しているようだった。おい、と少年が声を掛けると、大きな目がやっと傷だらけの顔を覗き込む。

「お前ナニして、」
「あのね、待ってね。博士と先生よんでくるから、ここで待ってて」

 自分に出来るのはここまでだと少し眉を下げて、あまつさえ慰めるように小さな手で頭を撫でたので、少年は呆然と目を丸くするしかない。
 全身の力を失った抜け殻のような状態で、少年は扉に消えていく子供の背中を見送った。あの子は誰かを呼ぶつもりらしい。一刻も早く逃げなくてはならないのに、どうしてだか、足が根を張ったように動かなかった。


▲▼


 ワンピースを血塗れにしたアンリが呼びに来たとき、バウクスは思わず悲鳴を上げそうになった。魔法被害者の不気味な姿ならば見慣れているが、真夜中に突然血みどろの子供が現れたら驚きもするだろう。
 怪我は無いのかと確認するバウクスに頷き、アンリは二人の手を引いて手術室に走っていく。何だ何だと目を白黒させているうちに唸り声が耳に届いてきた先で、大人たちはまた驚かされることになった。

「……へっ、道具借りたぜ!」

 あたりは血の海だった。
 力なく俯いていた少年は、部屋に入ってきた人影に打って変わってギラリと目を光らせて強気に笑って見せた。明らかな威嚇だ。両腕を切断したその姿にすぐ興味を示したのはカスカベで、しっかりと止血された腕をしげしげと眺めはじめる。

「手を切断してケムリの管を探してるのか。ケムリが出にくい魔法使いはよくやるらしいね」

 色黒で少しぶかぶかの白衣を着た少年の方がそんなことを言ったので、少年―――シンはぎょっとする。三ヶ月ホールの街を騒がせている魔法使いの話は噂になっており、当然カスカベとバウクスも耳にしていた。
 知っているのなら即刻「万事休す」といったところだ。もちろん自分がではなくこの医師達が。手がなくとも必要があればなぎ倒し殺して逃げるつもりだったシンは、一瞬カスカベの後ろからこちらを見ている少女に視線を走らせてから、やはり唇を笑みの形に曲げる。

「町内会に通報すりゃ金がもらえるぜ……」
「あんないけ好かない連中に電話するなんてゴメンだね。それより私は君の魔法に興味があるなァ」
「はぁ?」

 呑気な声に肩透かしを食らった気分でシンが口を開けると、カスカベはバウクスの制止も聞かずあれよあれよという間に少年を手術台に乗せ、ピンセットを手に少年の腕の切断面をいじくりはじめた。
 横顔は好奇心に満ち満ちている。
 こうなってはもう彼を止めることはできない。それを身に染みて知っているバウクスはため息をつき、潔く抗生物質の用意をはじめた。アンリは散らばった指や腕を金属のバットに拾い集めてパズルのように並べていくのを楽しんでいるようだった。
 シンは唖然としたあと、苛立ちを吐き出すように深く大きく息を吐いた。どこか安心したようなため息だった。


▲▼


「シンくんったら、バッチィよ。お風呂入んないの?」
「入れるワケねーだろ」
「しょうがないなー」

 運良くあまり損傷がなかった手指は、縫い付けられ綺麗に二本の腕に戻っていた。最もそれは見かけだけの話で実際これだけ細切れにしてしまったら縫合も意味がない。だらんと両腕をベッドに垂らし、シンはまるで憑き物が落ちたように穏やかな顔で、夜更かしにはしゃいだ子供の相手をしている。
 何が楽しいのかひどく上機嫌のアンリは、水に濡らしたタオルを少年の汚れた顔の上に鼻歌混じりで滑らせる。いくつかついている傷は随分前のもので、それは彼が逃亡生活の中、町内会を相手どってほぼ無敗であった事実を如実に物語っていた。

「きれいになったよ」
「ン……」

 どこかカスカベに似た笑い方でアンリがにこにこ笑いかけると、普通にしていると意外に柔らかな目元をした少年が軽く頷いた。ただ水拭きをしただけだが随分さっぱりした感覚に、シンは何か言おうとしたが、やめる。
 礼の言い方など忘れてしまった。
 急に上半身を起こし、まだ術後時間がそれほど空いていないというのに、ベッドから降りて「もう行く」とただ一言呟いた。

「どうして腕を切断してそんなにピンピンしていられるんだか」
「これからどうするんだい?」
「『用事』を済ませたら魔法使いの国に行くよ」
「次はいつくるの?」

 どうやら他の魔法被害患者と同じだと考えているのか、アンリはまたすぐ会えると根拠もなく信じている顔でシンを見上げている。思わず無言になった大人たちに首を傾げてから、少女は笑顔でちょいちょいとシンに屈んでくれとジェスチャーをした。
 シンは何故かこの小さな子供に強く出ることができなくなっていた。荒んだ生活で板についてしまった悪辣な言葉を少女には吐かなかったし、今だって目線を合わせるように素直に屈んでしまっている。アンリは手を彼の頭に置いて、まるで小さい子にするように撫でて微笑んだ。

「またね」

 今度こそ言葉を失う。
 父親が殺されてから三ヶ月、自分の命を狙う者に追われ、それを殺し、おおよそ人間らしい感情や習慣を捨てたからこそ生き延びられたのだ。頭を撫でられることなど、もはや記憶の彼方にある。
 にこにこと笑った少女を前に動けなくなったシンは、一瞬だけ遥か遠い憧憬に思いを馳せてしまった。しかしすぐカスカベやバウクスの視線と「へー」だの「ほー」だのというからかうような声にハッとして一気眉を釣り上げ、悔しそうに顔を真っ赤にして立ち上がった。

「じゃーなッ!!」
「ばいばい〜」

 三者三様の笑みを浮かべた見送りには意地でも振り返らず、やり場のない怒りは特に関係のないのぼりを背負った餃子売りに向けられる。子供の持った台から弁当を咥えて奪い取り、シンは今度こそ走り出していった。


 数時間後、ホール中央病院に町内会のメンバー数十人が生きたままバラバラにされた状態で運び込まれた。恩人との軽い口約束を律儀にも済ませたあの少年は、きっと魔法使いの世界に飛び込んだのだろう。
 患者の中数人は「何もここまでしなくても」―――という程細切れ状態にされていたのだが、それがカスカベ達のせいかどうかは定かではない。




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